夜の招待状
残業続きの夜、粘田透は自分の体が壁にぴたりと張り付いていることに気づいた。またやってしまった。スライム時代の悪癖だ。
「はぁ…」
疲れた溜息とともに体を壁から引き剥がし、デスクに戻る。今日も間苧谷部長の無茶振りで資料作りが終わらない。魔王の日から一週間、彼は見事に元の魔王上司に戻っていた。
「粘田くん、まだいたの?」
勇田花子が覗き込んできた。彼女は今日も戦闘モードのスーツ姿だ。
「花子さん、お疲れ様です。はい、あの…部長の資料が…」
「もう、無理しないの」花子は軽く肩を叩いた。「スライムだって休息が必要よ」
彼女の言葉に苦笑いしながら、粘田は資料を閉じた。確かにもう限界だ。時計を見ると、とっくに終電の時間を過ぎている。
「タクシー代出るかな…」
財布の中身を確認して、粘田は肩を落とした。今月も厳しい。歩いて帰るしかない。
夜の新橋はまだ人の流れが途切れない。酔っ払いのサラリーマンたちが道を埋め尽くし、粘田はその波に逆らいながら家路を急いだ。
「あれ?」
ふと目に入ったのは、24時間営業のコンビニ。小振田緑朗が働いている店だ。疲れた足を引きずりながら、粘田は店内に入った。
「いらっしゃいませ!」
元気な声で出迎えたのは、予想通り小振田だった。彼は粘田を見ると、にっこりと笑顔を浮かべた。
「粘田さん、こんな遅くまでお仕事ですか?」
「ああ、まあね」粘田は棚のおにぎりを手に取りながら答えた。「部長が戻ってきてから、また地獄の日々だよ」
小振田は理解したように頷き、「少々お待ちください」と言って奥に引っ込んだ。戻ってきた彼の手には、何やら怪しげな光を放つチラシが。
「これ、よかったらどうぞ」
受け取ったチラシは、あまりにも奇妙だった。カラフルな文字が踊り、端には不思議な紋章が光っている。内容を読むと、どうやらアルバイト募集のようだ。
「『異界カフェ・ムーンライト』…?」
「はい」小振田は声を潜めた。「転生者専用の、その…たまり場です」
粘田は思わず周囲を見回した。幸い、店内には他の客はいない。
「転生者専用って…」
「仕事終わりに行ってみませんか?」小振田が提案した。「今なら間に合いますよ。場所はここから近いです」
「え、今から?」
小振田は真面目な顔で頷いた。「魔王の儀式の前に、知っておいた方がいいことがあります」
その言葉に、粘田の中で何かが反応した。スライム時代の記憶だろうか。紋章から放たれる微かな光が、彼の指先をぬるりと包み込む。
「わかった、行ってみる」
小振田は安堵の表情を見せた。「私の交代は30分後です。それまでお待ちいただけますか?」
粘田はコンビニの隅にある椅子に座り、チラシをじっくり見つめた。光る紋章は、見れば見るほど奇妙な模様に見える。まるで生きているかのように、模様が少しずつ変化しているような…。
「これ、本当に紙?」
指でそっと触れると、紋章がわずかに震えた。粘田は思わず手を引っ込めた。確かに異世界の気配がする。
30分後、小振田は制服を脱ぎ、普段着に着替えて現れた。
「お待たせしました。行きましょうか」
夜の路地を進む二人。小振田は時々振り返り、粘田が付いてきているか確認する。やがて、彼らは雑居ビルの裏手に到着した。
「ここです」
小振田が指さしたのは、ビルの非常階段。上を見上げると、3階あたりに薄暗い明かりが灯っていた。
「あの…本当に大丈夫?」
「大丈夫です」小振田は自信たっぷりに答えた。「ゴブリンの勘は優れていますから」
非常階段を上り、小振田は3階の扉をノックした。特殊なリズムがあるようだ。
コンコン、コン、コンコンコン。
扉が静かに開き、中から漏れる柔らかな光。粘田は思わず目を細めた。
「お待ちしておりました」
出迎えたのは、紫色の髪を持つ美しい女性。彼女はお辞儀をすると、二人を中へと招き入れた。
店内は想像以上に広く、天井には星空が広がっていた。実際の空ではなく、魔法のような投影だろう。テーブルには様々な種族らしき人々が座り、静かに会話を楽しんでいる。
「ここが…異界カフェ?」
「はい」小振田が答えた。「転生者たちが情報交換したり、くつろいだりする場所です」
紫髪の女性が二人をテーブルへと案内した。窓際の席からは、夜の新橋の景色が一望できる。
「お二人とも、何になさいますか?」
メニューを見ると、通常のドリンクの他に「記憶覚醒ポーション」「魔力回復ジュース」などの奇妙な名前が並んでいた。
「あの、僕は普通のコーヒーで…」
「私は魔力回復ジュースをください」小振田は慣れた様子で注文した。
女性がうなずいて去ると、小振田は真剣な表情で粘田に向き直った。
「粘田さん、明日の魔王の儀式について話しておかなければなりません」
「儀式って…何するの?」
「間苧谷部長は、魔力を完全に回復させるために儀式を行います」小振田は声を潜めた。「その際、彼は必ず『生贄』を求めるでしょう」
「生贄!?」粘田は思わず声を上げた。周囲のテーブルから視線が集まる。
「そう大きな声を出さないでください」小振田は慌てて制した。「生贄と言っても、命を奪うわけではありません。ただ…」
「ただ?」
「魔力を分け与えるんです。つまり、あなたのスライムとしての力の一部を」
粘田は混乱した。「でも僕、スライムの力なんて使えないよ?」
「使えないと思っているだけです」小振田は粘田の手を取った。「ほら、この指先。少し透明になっていませんか?」
確かに、チラシの紋章に触れた指先は、わずかに透明感を帯びていた。
「これが…僕の力?」
「そうです」小振田は静かに続けた。「明日の儀式で、部長はあなたのその力を求めてくるでしょう。拒否することもできますが…」
「でも拒否したら、どうなるの?」
小振田は窓の外を見た。「間苧谷部長は、魔王として目覚めてしまうかもしれません。そうなれば…」
言葉の続きは必要なかった。先日の「魔王の日」の記憶が、粘田の中で鮮明によみがえる。あの力が完全に解放されれば、オフィスどころか新橋全体が危険だ。
「わかった」粘田は決意を固めた。「力を分けてあげるよ。でも、どうやって?」
その時、紫髪の女性が注文を運んできた。粘田の前にはただのコーヒー、小振田の前には青く光る液体が置かれた。
「実は、その方法を教えるために、ここに来ていただいたんです」小振田は青い液体を一口飲んだ。「このカフェのマスターが教えてくれるでしょう」
「マスター?」
小振田がうなずくと、店の奥から一人の男性が現れた。背が高く、白いスーツを着た彼は、どこか別世界の雰囲気を漂わせていた。
「初めまして、粘田透さん」
男性は粘田の前に座り、穏やかな笑顔を浮かべた。
「私がこのカフェのオーナー、月影と申します」
彼の声は不思議と心地よく、粘田は自然と緊張が解けていくのを感じた。
「明日の儀式のことは、小振田君から聞きましたよ」月影は言った。「あなたの力を安全に分け与える方法をお教えしましょう」
粘田はコーヒーを一口飲み、覚悟を決めた。
「お願いします」
月影はポケットから小さな瓶を取り出した。中には銀色の液体が入っている。
「これを明日、会社に持っていってください。儀式が始まったら、これを一口飲んで、間苧谷部長の前に立つだけです」
「これは?」
「『境界の雫』」月影は静かに説明した。「あなたのスライムとしての力を一時的に引き出し、安全に分け与えることができます」
粘田は小さな瓶を受け取った。不思議と重みがある。
「これで大丈夫なの?」
「はい」月影は自信を持って答えた。「ただし、一つだけ注意点があります」
「何ですか?」
「儀式の間、あなたは一時的にスライムの姿に戻るかもしれません」
粘田は息を呑んだ。「え?本当に?」
「心配しないでください」月影は微笑んだ。「儀式が終われば元に戻ります。それに、あなたの中のスライムを知ることは、今後のためにも良いことです」
粘田は小さな瓶をじっと見つめた。この中に、自分の運命が入っているような気がした。
「わかりました」粘田は決意を固めた。「明日、使わせてもらいます」
月影は満足そうに頷き、立ち上がった。「では、お二人ともごゆっくり」
彼が去った後、粘田は窓の外を見た。夜の新橋の明かりが、いつもより神秘的に見える。
「小振田くん、ありがとう」粘田は感謝の言葉を口にした。「君がいなかったら、明日どうなっていたか…」
「いえいえ」小振田は照れくさそうに笑った。「私たち転生者は、助け合わなきゃいけませんから」
コーヒーを飲み干し、粘田は小さな瓶をポケットにしまった。明日の儀式、そして自分のスライムとしての姿。不安と期待が入り混じる。
「帰りましょうか」小振田が立ち上がった。「明日は大事な日ですから、しっかり休まないと」
カフェを出る時、粘田は最後にもう一度店内を見渡した。様々な転生者たちが、それぞれの物語を抱えながら過ごしている場所。
「また来てもいいですか?」粘田は紫髪の女性に尋ねた。
「もちろんです」彼女は優しく微笑んだ。「あなたはいつでも歓迎されますよ」
夜の非常階段を降りながら、粘田は小さな瓶の感触を確かめた。明日、自分は本当にスライムになるのか。そして、魔王の儀式とは一体どんなものなのか。
不思議と、怖さよりも好奇心が勝っていた。