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会議室の再来

光が収束し、紫色の魔法陣が徐々に薄れていく。天井の亀裂から覗いていた夕焼けの空が見えなくなり、会議室の蛍光灯が不思議なことにまた点灯し始めた。


「あれ…?」


粘田透は自分の体が完全に人間の形に戻っていることを確認しながら、おそるおそる立ち上がった。床に広がっていた粘液状の自分の一部が、ぬるりと本体に戻ってくる感覚に少し安心する。


「終わった…のか?」


会議室は元の姿に戻りつつあった。壊れた窓ガラスが修復され、灰になっていたテーブルが元通りになる。まるで時間が逆戻りしているかのようだ。


「結界が…解けたようだな」


間苧谷部長の声は、さっきまでの魔王の咆哮とは打って変わって疲れ切っていた。彼は椅子に深く腰掛け、苦しげに肩を落としている。その表情には、何か言いようのない後悔の色が浮かんでいた。


「部長…」


勇田花子が恐る恐る声をかける。彼女の手からは光の剣が消え、普通のOLの姿に戻っていた。だが、その瞳には一瞬だけ金色の光が宿っている。


「すまない」


部長は顔を上げ、会議室にいる全員を見回した。「力が…暴走してしまった」


「大丈夫ですよ、部長さん」


小振田緑朗が明るい声で言った。彼の手にはまだアイスクリームの入ったコンビニ袋がぶら下がっている。「魔王の日は魔力が不安定になりますからね」


部長はため息をつきながら頷いた。「まさか、現世でもそんな日が来るとは思わなかったのだがな…」


粘田は震える腕を引きずりながら、ようやく自分の席まで辿り着いた。スライム特有の再生能力のおかげか、さっきまでの痛みはほとんど消えていた。


「でも、あれは一体…何だったんですか?」


粘田の質問に、部長は暗い表情で答えた。


「魔界と人間界の境界が一時的に曖昧になる現象だ。私の力が暴走したせいで、この会議室が一時的に異界と繋がってしまった」


「それで魔王になっちゃったんですね」花子が言った。


「そして花子さんは勇者に」粘田が付け加えた。


「因果の法則だな」部長は疲れた声で言った。「魔王と勇者は常に対になる存在。一方が現れれば、もう一方も現れる」


会議室に静寂が広がる。窓の外では、東京の夕暮れが深まりつつあった。


「でも、すごかったですね」


突然、経理部のしじみが口を開いた。彼女はずっと会議室の隅で固まっていたが、今は意味深な微笑みを浮かべている。


「小型核って結局ただのド派手な演出魔法なんですね?」


「え?」粘田が聞き返した。


「あの黒い炎の球です」しじみは淡々と言った。「魔王様が放った攻撃。あれ、小型核爆弾みたいでした」


「し、しじみさん…」粘田は戸惑いながらも、彼女の冷静さに驚いた。


「ああ」部長が少し恥ずかしそうに頷いた。「あれは『冥王の灼熱』という魔法だ。見た目は派手だが、実際の破壊力は…まあ、そこそこだな」


「そこそこって…」粘田は会議室の壊れかけていた天井を思い出して震えた。


「でも勇者の剣で切れるんですね」しじみが興味深そうに続けた。「物理攻撃が魔法に効くなんて、ファンタジーの定石ですね」


「あの、しじみさん…」花子が心配そうに声をかけた。「大丈夫ですか?」


「ええ、とても」しじみは穏やかに微笑んだ。「私、元々魔法研究家だったんです。前世では」


「えっ!?」全員が驚きの声を上げた。


「まさか君も…」部長が目を見開いた。


「ええ」しじみはにっこり笑った。「みなさんと同じ、転生組です」


部屋に再び静寂が広がった。粘田は頭がクラクラしてきた。まさか経理部のしじみさんまで…?


「それで、この後はどうするんですか?」小振田が空気を読まずに質問した。「会社、明日から営業できます?」


部長は深いため息をついた。「大丈夫だ。結界が解けて元通りになったからな」


確かに、さっきまで半壊していた会議室は、今では何事もなかったかのように元の状態に戻っていた。魔法陣も消え、床には何の痕跡も残っていない。


「不思議ですね」粘田が呟いた。「まるで何も起きなかったみたい」


「そういうものだ」部長が静かに言った。「異界の力が引いた後は、現実が自らを修復する。自然の摂理というやつだな」


粘田は窓の外を見た。新橋の夕暮れはいつもと変わらない。サラリーマンたちが行き交い、電車が走り、ビルの明かりが灯り始めている。この日常の中で、たった今起きた超常現象は、まるで夢のようだ。


「それにしても」花子が不思議そうに自分の手を見つめた。「私、本当に勇者だったんですね」


「ああ」部長が頷いた。「君は私を倒した勇者だ。覚えていないのか?」


「全然」花子は首を横に振った。「でも、体が覚えていたみたい。剣の振り方とか、魔法の避け方とか…」


「筋肉記憶というやつだな」部長が言った。「魂は転生しても、体の記憶は残るものだ」


粘田は自分の体を見つめた。スライムだった記憶は薄れつつあるが、危険を感じると体が溶けそうになる感覚は残っている。それが「筋肉記憶」なのだろうか?スライムに筋肉はないけれど…。


「さて」部長が立ち上がった。「今日はもう帰ろう。明日からまた普通の日々だ」


「普通…ですか?」粘田が不安そうに尋ねた。


部長は珍しく柔らかい表情を見せた。「ああ、普通の日々だ。私も…反省している」


「え?」


「パワハラ上司だった」部長は素直に認めた。「魔王の性質が出ていたのかもしれんな」


粘田は驚いて言葉を失った。まさか部長が自分のことを反省するなんて…。


「これからは気をつける」部長は続けた。「人間界で生きるなら、人間らしく振る舞わねばな」


「部長…」花子が感動した様子で見つめた。


「ただし」部長の目が鋭くなった。「仕事の成果は厳しく求める。それは変わらん」


「はい…」全員が小さく答えた。結局、厳しい上司であることに変わりはないようだ。


「それでは解散だ」


部長の一言で、皆は立ち上がり始めた。粘田は自分の鞄を手に取りながら、ふと小振田に声をかけた。


「小振田くん、本当にありがとう。君のアイスクリームがなかったら、どうなっていたか…」


「いえいえ」小振田は照れくさそうに笑った。「ゴブリン族は昔から魔王の弱点を知っていましたから。甘いものには勝てないんですよ、あの方は」


粘田は小振田の肩をポンと叩いた。「君がいてくれて本当に良かった」


「粘田さんこそ」小振田が真剣な表情になった。「あの突進、すごかったですよ。スライムの特性を完璧に使いこなしていました」


「そうかな…」粘田は照れながらも、少し誇らしい気持ちになった。


会議室を出る前に、粘田は一度振り返った。さっきまでの激闘の痕跡は全く残っていない。ただの会議室。ただの会社。ただの日常。


でも、この「ただ」の中に、非日常が潜んでいる。魔王も勇者も、スライムもゴブリンも、みんな普通の会社員として生きている。


そう考えると、明日からの仕事が少し楽しみになった。


粘田は微笑みながら、会議室のドアを閉めた。


「さて、今日は何を食べようかな」

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