闇の残業バトル
営業部のフロアは、いつもより静かだった。皆が互いの顔色を窺い、キーボードを叩く音だけが異様に響いている。
「粘田くん、準備はいい?」
花子さんが小声で話しかけてきた。彼女の机の引き出しからは、ホッチキスの柄が覗いていた。
「いえ、まったく…」
昨日の予選から一夜明け、今日から本格的な「闇の残業バトル」が始まるという。会社の空気は一変し、誰もが戦闘モードに入っていた。
「おはよう、人間ども!」
間苧谷部長が颯爽と現れた。今日はいつもの黒スーツではなく、紫色のマントを羽織っている。完全に魔王だ。
「本日より、真の戦いが始まる!」
部長の声が響き渡ると、オフィスの照明が突然暗くなり、会議室のドアが開いた。中から青白い光が漏れている。
「第一試合!営業部 粘田 対 経理部 雑賀!」
「え?雑賀さん、経理部だったんですか?」
昨日まで経理部代表は鈴木さんだったはずだ。
「鈴木はな…」部長が不敵に笑う。「昨夜の特訓に耐えられなかったのだ」
想像したくない光景が頭をよぎった。
会議室に入ると、そこは完全に闘技場と化していた。床には魔法陣のような模様が描かれ、壁には松明が灯されている。
「松明って、火災報知器鳴りませんか?」
「心配するな。魔界の炎だ」
部長の説明は何も説明になっていない。
対面に立つ雑賀は、昨日よりも一回り大きくなったように見える。経理部の制服を着ているが、ネクタイは派手な炎の模様だ。
「スライム野郎、昨日は良い動きを見せたな。だが今日は違う!」
雑賀が腕をクロスさせ、筋肉を膨らませる。シャツのボタンが弾け飛んだ。
「試合開始!」
小振田の掛け声とともに、雑賀が猛然と突進してきた。
「魔界必殺!バーニングラリアット!」
腕が炎に包まれながら水平に振り回される。熱波が顔を撫でた。
「うわっ!」
反射的に体を薄く伸ばし、まるでシールのように床に張り付いた。雑賀の攻撃が頭上を通り過ぎる。
「おのれ!卑怯な…」
「卑怯じゃないですよ!これが僕の戦い方なんです!」
床から剥がれ、人型に戻りながら反論する。
「面白い!では次はこれだ!」
雑賀が懐から取り出したのは、大量の請求書だった。
「経理部秘技!税金爆弾!」
紙束が空中で爆発し、無数の請求書が渦を巻いて襲いかかる。紙の端が肌を切り裂く感覚。
「いたっ!紙で切れるなんて…」
「どうだ!これが経理の恐ろしさだ!」
雑賀が高らかに笑う。周囲では社員たちが熱狂している。
「粘田さん、頑張って!」花子さんの声。
「スライム野郎、やられるな!」小振田の声。
応援に力をもらい、次の一手を考える。このままでは押され続けるだけだ。
「よし…やってみよう」
体を半分に分離させ、二つの小さな人型になった。
「なっ…分身の術か!」
「違います、単に分裂しただけです!」
二手に分かれて雑賀に近づく。彼が右の私に攻撃を仕掛けたとき、左の私が床を伝って足元に回り込んだ。
「えいっ!」
足首に張り付き、一気に体を伸ばして絡みつく。
「なんだこれ!離せ!」
雑賀がバランスを崩す。チャンスだ。もう一人の私が飛びかかり、顔に張り付いた。
「うぐぅ!見えん!」
視界を奪われた雑賀が暴れまわる。その隙に、床に張り付いていた部分を引き抜き、雑賀の全身を粘着質の膜で包み込んだ。
「これが…スライムラッピング!」
思わず技名を叫んでいた。雑賀の動きが鈍り、ついにバランスを完全に失って倒れた。
「ぐおおお!」
ドスンという鈍い音とともに、雑賀が魔法陣の外に転がり出た。
「勝者、営業部 粘田!」
小振田の宣言に、会場から歓声が上がった。
「や、やりました…」
体を一つに戻しながら、膝をつく。思った以上に体力を消耗していた。
「素晴らしい!」
間苧谷部長が拍手しながら近づいてきた。
「これぞ真のスライム戦法!次の試合も期待しているぞ」
「次って…まだあるんですか?」
「もちろん!トーナメントはこれからだ!」
部長の目が赤く光っている。これは長い一日になりそうだ。
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休憩室で水を飲みながら、今日の異常事態について考えていた。なぜ突然、会社でバトルが始まったのか。
「お疲れ様」
花子さんが隣に座った。彼女の手には小さな剣型のペーパーナイフが握られている。
「花子さんの試合はどうでしたか?」
「勝ったよ。でも…」
彼女は周囲を見回してから、小声で続けた。
「おかしいと思わない?部長が突然こんなことを始めるなんて」
「そうですね。何か目的があるのかも…」
「実はね、昨日の夜、部長の机を調べてみたの」
「えっ、それって不法侵入…」
「いいの、元勇者の特権!」花子さんが得意げに胸を張る。「それでね、見つけたんだ、これ」
彼女がスマホの画面を見せてきた。そこには古びた羊皮紙の写真が映っていた。
「『闇の残業バトル』…これは魔界の古代儀式で、勝者は『時間を支配する力』を得るという伝説があるの」
「時間を支配…?」
「つまり、残業時間をゼロにできるのよ!」
なるほど、それで部長がこんな大会を開いたのか。魔王としての力を取り戻そうとしているのだろう。
「でも、なぜ会社全体を巻き込むんですか?」
「それがね…」
花子さんの説明は、次の試合の呼び出しで中断された。
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午後になり、トーナメントは佳境に入っていた。私は何とか準決勝まで勝ち進んでいた。
「次の試合!営業部 粘田 対 総務部 笹原!」
対戦相手の笹原さんは、猫耳カチューシャを着けた小柄な女性。しかし、その目は猫科の捕食者のように鋭い。
「粘田さん、ここまでよく頑張りましたね」
彼女の声は甘いが、手に持ったクリップが不気味に光っている。
「笹原さんこそ…」
「始め!」
小振田の合図で、笹原さんが一瞬で姿を消した。
「え?どこに…」
「ここよ♪」
背後から声がした。振り向く間もなく、無数のクリップが雨のように降り注いだ。
「総務部秘技!書類固定の嵐!」
クリップが私の体に突き刺さり、床に固定される。
「くっ…動けない…」
「粘田さん、あなたのスライム能力は素晴らしいわ。でも、固定されたらおしまいよね?」
笹原さんが優雅に近づいてくる。彼女の手には巨大なホッチキスが握られていた。
「とどめよ!」
その瞬間、思いついた。体を液状化し、クリップを飲み込む。
「なに!?」
金属の味が広がるが、我慢だ。体内でクリップを溶かし、自由を取り戻す。
「驚いたわ…でも!」
笹原さんが再び猛スピードで動き出した。彼女の動きを目で追うことはできない。
「こうなったら…」
床全体に体を広げ、薄い膜状になる。笹原さんがどこを踏んでも感知できるようにした。
「この作戦は…」
足の感触を捉えた。今だ!
体の一部を急速に凝縮し、笹原さんの足首を捕らえた。
「きゃっ!」
バランスを崩した彼女を、一気に引き倒す。
「うぅ…参りました」
笹原さんが白旗を振った。勝利だ。
「勝者、営業部 粘田!」
会場からは驚きの声が上がった。誰も私がここまで勝ち進むとは思っていなかったようだ。
「素晴らしい!」
間苧谷部長が拍手しながら近づいてきた。
「これで決勝進出だ!相手は…この私だ!」
「え?部長も出場してたんですか?」
「もちろん!主催者特権でシード権を得ていたのだ!」
なんという理不尽。しかし、ここまで来たら逃げられない。
「粘田くん」花子さんが近づいてきた。「部長の弱点は目だよ。魔王時代からの習慣で、目を狙われると反射的に防御しちゃうの」
「そ、そうなんですか?」
「うん。それと…がんばって」
彼女が握手を求めてきた。その手に、何か小さな物体が感じられた。こっそり受け取ると、それは小さな青い石だった。
「勇者の加護よ。一度だけ、どんな攻撃も無効化できる」
「ありがとう…」
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決勝戦。会議室は完全に闇に包まれ、魔法陣だけが青白く光っていた。
対面に立つ間苧谷部長は、すでに人間の姿ではなかった。角が生え、肌は紫色に変化し、背中には翼が広がっている。
「粘田よ、よくぞここまで来た」
部長の声は普段より低く、響きが違う。
「しかし、ここで終わりだ。残業の力は私のものとなる!」
「部長、そんなに残業したくないんですか?」
「違う!残業をなくしたいのだ!」
意外な答えに驚く。
「私も昔は魔王として自由だった…しかし、この会社の部長になってからは、毎日が残業地獄だ!」
部長の目に涙が光った。
「だから…この力で残業をなくし、みんなを幸せにするのだ!」
なんと部長の目的は善意だったのか。しかし…
「でも、そのためにみんなを戦わせるなんて…」
「黙れ!滅びよ人間!」
部長の手から黒い炎が放たれた。
「魔王必殺!締切前夜の恐怖!」
炎が私を包み込む。痛みはないが、体が固まっていく。まるで締切前の恐怖で凍りついたように。
「くっ…動けない…」
「どうだ!これが部長の力だ!」
部長が高らかに笑う。このままでは負ける。
花子さんからもらった青い石を握りしめる。「勇者の加護よ…」
石が光り、体を覆っていた呪いが解けた。
「なに!?」
驚く部長の隙を突いて、床を伝って近づく。そして、花子さんのアドバイス通り…
「えいっ!」
部長の目に向かって体の一部を伸ばした。
「うわっ!」
反射的に両手で目を守る部長。その隙に全身を使って部長の足を絡め取り、一気に引き倒した。
「ぐおおっ!」
部長が魔法陣の外に転がり出た。
会場が静まり返る。
「か…勝者、営業部 粘田!」
小振田の声が震えていた。
「まさか…私が負けるとは…」
部長がゆっくりと立ち上がる。人間の姿に戻りつつある。
「粘田…お前が『時間を支配する力』を手に入れたな…」
「はい…でも、その力、みんなのために使います」
部長の目が見開かれた。
「みんなのため?」
「はい。残業をなくすのは、部長一人でするべきことじゃありません。みんなで協力して、効率的に仕事をこなせば…」
部長の目から涙があふれ出した。
「粘田…お前こそ真の勇者だ…」
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トーナメントは終わり、オフィスは元の姿に戻った。しかし、何かが変わっていた。
「粘田くん、今日の資料、もうできたよ」
花子さんが笑顔で報告してくる。
「えっ、もう?いつもなら夕方まで…」
「うん、効率化してみたの。部長も協力してくれたよ」
振り返ると、部長が優しく微笑んでいた。魔王の面影はない。
「粘田、よくやった。お前のおかげで、みんなの意識が変わった」
「そうだったんですか?」
「ああ。実は『闇の残業バトル』は、チームワークと個人の潜在能力を引き出すための訓練だったのだ」
「え?最初からそのつもりだったんですか?」
部長は意味深に微笑むだけだった。
その日、会社全体が定時で帰ることができた。スライムとして生きてきた私が、人間の会社を変えるなんて、なんという皮肉だろう。
帰り道、ふと空を見上げると、星が美しく輝いていた。
「時間を支配する力…か」
それは魔法ではなく、みんなの協力だったのかもしれない。
ポケットの中で、青い石がかすかに光っていた。




