契約魔法の発動
会議室の空気が凍りついた。
「それでは、始めましょうか」
社納院マイノスが革のアタッシュケースから取り出したのは、先ほどの契約書ではなく、別の紙だった。彼はそれを優雅に広げると、指先で軽くなぞった。
「契約魔法、発動」
その言葉と同時に、会議室のテーブルから古代文字の紋様が浮かび上がり始めた。最初は薄い光だったものが、次第に鮮やかな紫色に変わっていく。
「こ、これは…」
私の言葉は途切れた。床から壁へと広がる魔法陣に圧倒されたからだ。
「粘田君、逃げられないよ」
マイノスの目が赤く輝いた。その瞬間、会議室全体が異様な空間へと変貌した。窓から見える景色は東京のビル群ではなく、赤い空と黒い大地が広がる異世界の風景に変わっていた。
「こ、こんなことが…」
恐怖で足がすくんだ私は、咄嗟に床に張り付いた。スライム時代の粘着力が発動したのだ。体が床と一体化し、どんな力が働いても剥がれない状態になる。
「ほう、面白い特性だ」
マイノスが感心したように言った。
「粘田!しっかりしろ!」
間苧谷部長の声が響いた。彼の姿が変わり始めている。スーツを着たままだが、背中から黒い翼が生え、額には角が現れた。
「滅びよ人間!いや、滅びよマイノス!」
部長の叫びとともに、彼の手から黒い炎が放たれた。マイノスはそれを片手で受け止め、軽く握りつぶした。
「間苧谷よ、かつての魔王の力も今は色あせたものだな」
「黙れ!お前如きに我が社を渡すものか!」
部長はデスクの上に飛び乗り、ブリーフケースを開いた。中から取り出したのは、赤黒く光る提案書だった。
「『魔王流・提案書バトル』!」
彼が提案書を掲げると、それが空中に浮かび、ページが勝手にめくれ始めた。各ページから邪悪なグラフや表が飛び出し、マイノスに向かって襲いかかる。
「パワポイントアタック!」
円グラフが回転しながらマイノスに迫った。
「なんと…会社のパワハラが武器になるなんて…」
私は唖然としながらも、床から剥がれないよう必死に踏ん張った。
「粘田さん!」
花子の声がした。彼女も変貌していた。OLスーツの上から鎧が現れ、手にはコピー用紙で作られた剣を持っている。
「私も戦います!元勇者として黙ってはいられません!」
花子は勇者の輝きを放ちながら、手元のプレゼン資料を掲げた。するとそれが眩い光を放ち始めた。
「聖なるエクセル・ブレード!」
彼女の手から放たれた光の束がマイノスを直撃した。しかし、彼はニヤリと笑うだけで、ダメージを受けた様子はない。
「勇者の力も、この世界では半減するようだな」
マイノスが言うと同時に、彼の周りに小さな牛の頭をした悪魔たちが現れ始めた。それらは書類を手に持ち、私たちに向かって投げつけてくる。
「注意して!あれは拘束契約書です!触れると魂を縛られます!」
花子の警告を聞いて、私はさらに体を床に密着させた。悪魔たちの投げる契約書が頭上を飛び交う。
「くっ…このままでは…」
部長の提案書バトルも限界に近づいていた。悪魔たちに囲まれ、次第に押されている。
「粘田!お前も何かしろ!」
「で、でも私は…」
そう言いかけた時、体の中で何かが目覚めるのを感じた。スライム時代の感覚が蘇ってきたのだ。
「そうか…私は…」
私は意を決して、床から体を引き剥がした。痛みで顔をゆがめながらも、立ち上がる。
「私はただのサラリーマンじゃない。元スライムだ!」
その瞬間、私の体が淡い青色に輝き始めた。手が溶けるように伸び、マイノスに向かって伸びていく。
「なっ…!」
マイノスの驚いた表情が見えた。私の伸びた手が彼のアタッシュケースを掴み、引き寄せる。
「返せ!」
マイノスが叫ぶが、すでに遅い。ケースの中から契約書を取り出し、私は自分の体に吸収した。スライムの特性で、紙を溶かし込んだのだ。
「契約書を…食べたのか?」
マイノスの声が震えている。
「食べたというより、溶かしました」
私は冷静に答えた。体内で契約書が分解されていくのを感じる。
「馬鹿な…契約魔法の本体を…」
マイノスの周りの魔法陣が揺らぎ始めた。会議室の異様な雰囲気が薄れていく。
「さすが粘田!」
部長が喜びの声を上げた。彼の角と翼も徐々に消えていく。花子の鎧も光の粒子となって消えていった。
「やりました!粘田さん、素晴らしい!」
花子が駆け寄ってきた。彼女の目には純粋な喜びが浮かんでいる。
「くっ…今回は引くとしよう」
マイノスは悔しそうに言った。彼の姿も人間らしさを取り戻している。
「だが、諦めたわけではない。必ず戻ってくる」
そう言い残し、彼は会議室を後にした。去り際、彼の影だけが一瞬牛の形に歪んだように見えた。
「無事で良かった…」
花子が安堵の溜息をついた。部長も椅子に座り込み、額の汗を拭った。
「粘田、よくやった。スライムの特性を活かすとは…」
「いえ、咄嗟のことで…」
私は照れながらも、胸を撫で下ろした。しかし、体内で溶かした契約書の一部が、まだ消化しきれていないのを感じる。何か不穏な力が残っているような…
「それにしても、あの契約魔法は一体…」
花子が眉をひそめた。
「単なる地下迷宮建設ではないことは確かだ」
部長が真剣な表情で言った。
「マイノスの目的は、東京の地下に異世界への門を開くことだけではない。彼は…」
その時、会議室のドアが開いた。
「お疲れ様です。会議はもう終わりましたか?」
入ってきたのは、総務部の山田さんだった。彼女は普通のOLの姿で、先ほどの異様な空間が嘘のように感じられる。
「あ、ええ、終わりましたよ」
私は平静を装った。
「では、この後の会議の準備をしますね」
山田さんが無邪気に微笑みながら会議室を整え始めた。私たち三人は顔を見合わせた。
「とにかく、今日はこれで終わりにしよう」
部長が小声で言った。
「明日、小振田と会う約束があるんだよね?」
花子が私に尋ねた。
「ええ、新宿で…」
「気をつけて。マイノスの手先かもしれない」
部長の警告に頷いた。しかし内心では、小振田が本当に味方なのか、それともマイノスの罠なのか、不安が渦巻いていた。
会議室を出ると、オフィスは普段通りの光景が広がっていた。パソコンを打つ音、コピー機の動く音、電話の鳴る音。日常そのものだ。
しかし、私にはわかっていた。この日常の下に、異世界の力が潜んでいることを。そして私自身も、その境界に立つ存在だということを。
体内で溶けかけた契約書の断片が、まだ微かに脈動している。これが意味するものは何なのか—。
明日、小振田との会話で何か手がかりが得られるだろうか。