魔動契約の波紋
社内の空気が一変したのは、突然のことだった。
「粘田くん、あの人…」
勇田花子の声が震えている。彼女の視線の先には、エレベーターから降りてきた一人の男が立っていた。スーツは完璧に決まっているのに、頭から生えた二本の小さな角が異様な存在感を放っている。
「社納院マイノス様がお越しになりました」と受付の女性がアナウンスした瞬間、オフィス全体が水を打ったように静まり返った。
「あの人が…マイノス社長?」
私の問いかけに花子は小さく頷いた。
「間違いないわ。あの波動は…魔界の貴族のものよ」
社納院マイノスは颯爽と歩きながら、時折立ち止まっては社員を品定めするように見つめていく。その度に社員たちは身体を硬直させた。まるで捕食者に睨まれた獲物のように。
「粘田透君だね」
気づけば彼は私の目の前に立っていた。間近で見ると、角だけでなく、瞳の奥に赤い光が宿っているのが分かる。
「は、はい…」
「君に会いに来たよ」
彼は笑顔を見せたが、それが余計に恐ろしかった。牛の頭を持つ怪物が人間の真似をして微笑んでいるようだった。
「会議室へ案内しろ」
間苧谷部長が突然現れ、マイノスに深々と頭を下げた。部長の態度があまりにも恭しいので、違和感を覚えた。いつもの「滅びよ人間!」と叫ぶ強気な魔王の面影がない。
「粘田、お前も来い」
私は震える足で二人の後に続いた。花子が心配そうな目で見送る。
会議室に入ると、マイノスは革のアタッシュケースを机の上に置いた。
「さて、本題に入ろう」
彼はケースを開け、一枚の書類を取り出した。紙ではなく、何かの獣皮のような質感だ。
「これが契約書だ」
私は恐る恐る受け取った。「魔動契約書」と書かれたその文書には、見たこともない文字や記号が並んでいる。わずかに読める部分もあるが、その内容は常識外れだった。
「第一条、契約者の魂は半永久的に社納院マイノスに帰属するものとする」
「第二条、契約者の肉体は必要に応じて迷宮の素材として使用できるものとする」
「第三条、契約者は月に一度、生贄として自らの血液100mlを提供するものとする」
私は目を疑った。これは契約書というより、悪魔との契約ではないか。
「これは…冗談ですよね?」
マイノスは笑った。その口から覗く歯は、やや尖っていた。
「ビジネスに冗談はないよ、粘田君」
「しかし、こんな契約…」
「サインしろ」
間苧谷部長の声が低く響いた。彼の目も赤く光っている。
「部長?」
「これは会社の命運がかかった契約だ。迷うな」
私は困惑した。こんな不条理な契約にサインするわけにはいかない。しかし、部長の圧力は半端ではない。
「少し考える時間をください」
マイノスは優雅に頷いた。
「構わないよ。ただし、今日中の返事が欲しい」
そう言うと、彼は立ち上がった。
「トイレを借りよう」
マイノスが部屋を出ると、部長が私の襟を掴んだ。
「何をためらっている!サインしろ!」
「でも部長、この契約は明らかにおかしいです!魂を差し出すなんて…」
「お前にはわからないんだ」
部長の声は絶望的だった。
「彼は単なる転生者ではない。魔界の貴族だ。彼の力は私をも凌駕している」
「それでも…」
「彼の計画に協力しないと、我々全員が危険だ」
ドアが開き、マイノスが戻ってきた。私は契約書を見つめ、冷や汗を流した。
「決心はついたかな?」
その時、会議室のドアが勢いよく開いた。
「待ってください!」
花子が飛び込んできた。彼女の手には何かの書類が握られている。
「この契約書、現代日本の法律では無効です!」
マイノスの表情が一瞬曇った。
「何を言っている?」
「魂や肉体の譲渡に関する契約は、日本の民法では無効です。それに、生贄の提供は刑法違反です」
花子は堂々と言い切った。彼女の目には勇者の輝きが戻っていた。
「なるほど、さすが元勇者だ」
マイノスはニヤリと笑った。
「だが、この契約書は現世の法律ではなく、魔界法に準拠している」
「それは通用しません。ここは日本です」
「いいだろう」
予想外にあっさりと、マイノスは別の書類を取り出した。
「では、こちらはどうだ?」
新しい契約書は日本語で書かれていたが、よく読むと「契約者は社納院マイノスの指示に従い、地下迷宮建設計画に全面協力する」という条項があった。
「これも問題があります」
花子は冷静に指摘した。
「建築基準法や都市計画法に違反する可能性が高い内容です」
マイノスの表情が徐々に変わっていく。人間らしさが薄れ、牛のような相貌が浮かび上がってきた。
「君たちは…面白い」
彼は突然笑い出した。その笑い声は低く、会議室全体を震わせた。
「久しぶりに楽しい交渉だ。粘田透、君は元スライムだと聞いている」
「はい…」
「だからこそ、君に期待している。異世界と現世の境界を曖昧にできる存在だ」
「どういう意味ですか?」
「スライムは形を変え、どんな隙間にも入り込める。境界を越える象徴だよ」
マイノスはアタッシュケースを閉じた。
「今日はここまでにしよう。じっくり考えてほしい。君たちの協力が得られれば、より円滑に計画を進められる」
彼は立ち上がり、私たちに名刺を渡した。それは触れると微かに脈動しているように感じられた。
「連絡を待っている」
マイノスが去った後、会議室には重苦しい沈黙が残った。
「部長、あの人は本当に何をしようとしているんですか?」
間苧谷部長は疲れた表情で椅子に座り込んだ。
「東京の地下に、異世界への門を開こうとしている」
「でも、それって危険じゃ…」
「もちろんだ。だが彼には強大な魔力がある。私でさえ太刀打ちできない」
花子が名刺を調べながら言った。
「この名刺…魔力が込められています。おそらく追跡用の呪文でしょう」
「さすが元勇者」
部長は溜息をついた。
「粘田、お前はどうする?契約に応じるか?」
私は窓の外を見た。普通の東京の風景が広がっている。しかし、その地下には異世界への入り口が作られようとしている。
「考えさせてください」
その時、私のスマホが震えた。見知らぬ番号からのメッセージだ。
『粘田さん、僕です。小振田です。マイノスには気をつけて。彼の計画は単なる迷宮建設ではありません。明日、新宿駅東口の喫茶店で会いましょう。—小振田』
「小振田さんから…」
花子に見せると、彼女は顔色を変えた。
「罠かもしれないわ」
「でも、本当に小振田さんなら…」
部長が立ち上がった。
「二人とも、明日は通常通り出社しろ。そして…」
彼は声を潜めた。
「誰にも今日のことは話すな。特に、マイノスとの契約の話は」
私たちは頷いた。
オフィスに戻ると、同僚たちが好奇の目で見てくる。マイノスの訪問は大きな話題になっていたようだ。
「粘田、大丈夫?」
「何があったの?」
質問攻めにされたが、部長の指示通り黙っていた。
その夜、帰宅途中に再び不思議な感覚に襲われた。体が少しずつ溶けていく。スライムの特性が強く出る時だ。
「落ち着け…」
自分に言い聞かせながら、何とか形を保った。しかし、マイノスの名刺が胸ポケットで脈動しているのを感じた。
異世界の影が、現代日本に忍び寄っている。そして私は、その境界に立っているのだ。