取引の兆し
朝の通勤電車は、いつも以上に混雑していた。ドアが閉まる直前、私は滑り込むように乗り込んだ。
「危ない危ない…」
スライム時代の習性が抜けきらず、電車のドアに半身が挟まりそうになる。幸い今日は体がしっかりと固形を保っていた。昨日の地下駐車場での出来事から一夜明けたが、あの青い粘液の正体も、行方不明になった小振田の消息も分からないままだ。
会社に着くと、すでに間苧谷部長の怒声が聞こえてきた。
「何だこの企画書は!人間どもを滅ぼすにはあまりにも甘すぎる!やり直しだ!」
朝から絶好調の部長だ。元魔王の彼は、朝礼での訓示が日課になっている。
「おはようございます」
席に着こうとした瞬間、私の足が床にべったりと張り付いた。また始まった。緊張するとスライム特性が出てしまう。
「粘田くん、また床にくっついてるわよ」
勇田花子が微笑みながら声をかけてきた。彼女は昨日の恐怖から立ち直ったようで安心した。
「ああ、ちょっと…」
足を引き剥がす時の「ぺりっ」という音が、静まり返った朝の職場に響く。恥ずかしい。
「全員集合!」
間苧谷部長が突然大声で叫んだ。社員全員が一斉に立ち上がる。まるで魔王の城の集会のようだ。
「重要な発表がある。本社の関連企業、マイノス社から大口の取引話が舞い込んだ!」
部長の目が赤く光る。興奮すると魔王時代の癖が出るらしい。
「マイノス社?」
花子が小声で私に尋ねた。
「聞いたことないわね」
「私も初めて聞きました」
部長は続けて言った。
「この取引、担当者を決めなければならない。そこで私は…」
社内が静まり返る。皆が息を潜めて次の言葉を待っている。
「粘田!お前に任せる!」
「え?」
思わず声が裏返った。私のような平凡な社員に大口取引を任せるなんて。
「な、なぜ私なんですか?」
「お前にしか務まらない仕事だからだ」
部長の表情が一瞬だけ変わった気がした。何か隠している。
「マイノス社の担当者とは明日会う。今日中に資料を揃えておけ!」
「はい…」
社内がざわめき始めた。なぜ新人の私に大口取引を任せるのか。不満の声が聞こえてくる。
「どうして粘田なんかに…」
「コネでもあるのか?」
「スライムだからって特別扱いか?」
耳を塞ぎたくなる言葉の数々。スライム時代は耳がなかったから気にならなかったのに。
「気にしないで」
花子が優しく私の肩に手を置いた。
「きっと何か理由があるはずよ」
「ありがとう、花子さん」
昼休み、資料を集めるために資料室へ向かった。古い書類が山積みになった薄暗い部屋だ。
「マイノス社…マイノス社…」
棚を探っていると、突然背後から声がした。
「ねぇ、見つかった?」
「うわっ!」
驚いて振り返ると、花子が立っていた。
「す、すみません。探してるんですが…」
「手伝うわ」
二人で資料を探していると、古びたファイルを見つけた。表紙には「マイノス社・極秘」と書かれている。
「これだ!」
開いてみると、中には奇妙な図面や記号が並んでいた。まるで異世界の魔法陣のような…
「これって…」
花子が息を呑む。
「迷宮の設計図じゃない?」
「迷宮?」
「そう、魔界でいうミノタウロスの迷宮…つまりマイノスの迷宮よ」
彼女の表情が険しくなる。
「かつて勇者だった私が知らないはずがない。これは間違いなく、異世界の迷宮の設計図だわ」
「でも、なぜ会社にこんな資料が?」
花子は首を振った。
「分からないわ。でも、部長があなたを指名したのは…」
「元スライムだからか…」
スライムは迷宮の探索に適している。狭い場所を通り抜けたり、罠を回避したりするのに向いているのだ。
「部長室に行きましょう」
資料を手に、部長室のドアをノックした。
「入れ」
間苧谷部長は窓際に立ち、外を眺めていた。
「部長、このマイノス社の資料について説明していただけませんか?」
彼はゆっくりと振り返った。
「見つけたか…」
「これは迷宮の設計図ですよね?なぜこんなものが…」
「粘田」
部長の声が低く響く。
「お前は元スライムとして、この取引の重要性が分かるはずだ」
「どういう意味ですか?」
「マイノス社は表向きは不動産会社だが、実は異世界と現世を繋ぐ門を建設している」
「門?」
花子が食い込むように尋ねた。
「そんなこと許されるはずがないわ!異世界と現世の境界を壊すなんて!」
「許されるとか許されないとか、そういう次元の話ではない」
部長は机の引き出しから一枚の写真を取り出した。
「これが、マイノス社の社長だ」
写真に映っていたのは、角の生えた巨大な牛頭の男だった。
「ミノタウロス…」
花子が震える声で言った。
「そう、彼こそがマイノス。かつての迷宮の主だ」
「でも、なぜ彼が現代日本に?」
「私と同じさ。転生組だよ」
部長は椅子に座り、深いため息をついた。
「彼は異世界と現世の融合を目指している。その第一歩として、新しい迷宮を東京の地下に建設しようとしているんだ」
「それって危険じゃないですか?」
「もちろんだ。だからこそ、我が社が介入する必要がある」
部長は立ち上がり、私の肩に手を置いた。
「粘田、お前には明日、マイノスと会って取引の詳細を聞いてほしい。そして…」
「そして?」
「彼の本当の目的を探ってほしい」
「スパイ活動ですか?」
「言い方はどうでもいい。要は情報収集だ」
花子が前に出た。
「私も行きます」
「花子…」
「元勇者として、こんな危険を放っておけないわ」
部長は少し考えてから頷いた。
「いいだろう。二人で行け」
「はい!」
部長室を出た後、花子が小声で言った。
「部長、本当のことを話してないわ」
「どういうこと?」
「彼がなぜあなたを選んだのか…本当の理由を隠している気がする」
確かに、部長の態度には違和感があった。
「明日、マイノスに会えば何か分かるかもしれません」
帰り際、デスクに戻ると小さなメモが置かれていた。
『気をつけろ。マイノスは信用するな。—小振田』
「小振田さん!?」
メモを手に取ると、緑色の粘液のような物質が付着していた。ゴブリン特有の体液だ。
「生きてるんだ…」
花子が覗き込んできた。
「何かあった?」
「小振田さんからのメッセージです」
メモを見せると、花子の顔色が変わった。
「これは…罠かもしれないわ」
「でも、もし本当に小振田さんからのメッセージなら…」
「明日、用心して行動しましょう」
二人で頷き合った時、社内放送が流れた。
「粘田透さん、至急総務部までお越しください」
「総務?何だろう…」
「行ってみましょう」
総務部に向かうと、見知らぬ男性が立っていた。スーツを着ているが、どこか異質な雰囲気を漂わせている。
「粘田透さんですね」
「はい…」
「マイノス社の秘書、牛込と申します」
男性は名刺を差し出した。「牛込 角太郎」と書かれている。
「明日の打ち合わせですが、場所が変更になりました」
「変更?」
「はい、こちらの地図をご覧ください」
彼が差し出した地図には、新宿の地下にある場所が示されていた。
「ここで明日の午後3時に」
「分かりました」
牛込は不気味な笑みを浮かべると、そのまま立ち去った。
「あの人…角が生えてるように見えなかった?」
花子が震える声で言った。
「気のせいじゃないわよね?」
「僕にも見えました…小さな角が」
明日、私たちは何に直面するのだろう。元スライムとして、元勇者として、この取引の真相を暴かなければならない。
そして、行方不明の小振田を見つけ出さなければ。