暗闇に忍び寄る和解の兆し
会議室の空気が凍りついていた。プレゼンバトルの余韻が残る中、社員たちは互いの顔を窺い合う。部長の魔王評価は焼野春雨によって中断されたものの、緊張の糸は切れていなかった。
「えー、みなさん」
花子が震える声で立ち上がった。彼女の手には古びた羊皮紙が握られている。
「今回の件は、その、規定違反ということで…」
「黙れ!」
間苧谷部長の怒声が会議室に響き渡った。その瞬間、蛍光灯が一瞬ちらついた。
「規定など知らぬ!魔王たる私の評価を妨害するとは…」
部長の目が再び赤く光り始める。社員たちからは小さな悲鳴が上がった。
そのとき、会議室のドアが勢いよく開いた。
「差し入れでーす!」
小振田緑朗が両手いっぱいのコンビニ袋を持って入ってきた。彼の明るい声に、一瞬にして空気が変わる。
「コンビニで新商品が入ったからさ、みんなで食べようと思って」
緑朗は何事もなかったかのように袋から飲み物やお菓子を取り出し始めた。
「これとか美味しいよ。『ゴブリンの指先チョコ』って言うんだけど」
「ゴブリンの何?」誰かが恐る恐る聞いた。
「名前だけだよ、名前だけ」緑朗は笑った。「本物のゴブリンの指なんて、こんなに美味しくないから」
その言葉に会議室に笑いが広がった。緊張は少しずつ解けていく。
部長も渋々と席に戻り、差し入れを一つ手に取った。
「ふん、人間界の食べ物など…」
一口食べた途端、部長の表情が変わった。
「これは…悪くない」
「でしょ?」緑朗がニヤリと笑う。「魔界にもこういうお菓子あったらいいのにね」
和やかな空気が会議室を満たし始めた矢先—
「皆さん」
焼野春雨が静かに立ち上がった。その瞬間、私は背筋に冷たいものを感じた。
「今回の件は魔界評議会に報告済みです。ただ、一つ気になることが…」
彼女が言い終わる前に、突然会議室が真っ暗になった。
「きゃっ!」
「何だ?停電か?」
慌てふためく声が飛び交う中、非常灯だけが薄暗く空間を照らしていた。
「すまない、私のミスかも」焼野の声が闇の中から聞こえた。「ちょっとした呪文を唱えたら…」
「小悪魔級の封印術だな」部長の声が低く響いた。「人事部の新人にしては高度な魔術だ」
「え?焼野さんも魔界の人なの?」私は思わず声を上げた。
「違います」焼野の声は冷静だった。「私は調停者です。ただ、間苧谷部長の暴走を止めるために少々力を使いすぎました」
暗闇の中、社員たちの不安な息遣いが聞こえる。
「透くん」花子が小声で私に話しかけてきた。「なんか変だよ。焼野さんが来てから、部長の様子も…」
その時、部長の怒りの声が響いた。
「調停者だと?笑わせるな。お前は魔界評議会の間者だろう!」
「違います」焼野は冷静に答えた。「私はただ、魔界と人間界の均衡を保つために—」
「嘘をつくな!」部長の声が高くなる。「魔界融合計画を邪魔するために来たんだろう!」
暗闇の中で議論が白熱し始めた。私はそっと床に手をついた。スライムの性質を活かせば…
「透くん、何してるの?」花子が不思議そうに聞いてきた。
「ちょっと調査を」
私は体を床に密着させ、スライムのように壁を伝って移動し始めた。暗闇でも壁の感触で進路を確かめられる。これが元スライムの特技だ。
電気系統のある場所まで這っていくと、そこで驚くべき光景を目にした。配電盤が何かの粘液のような物質で覆われていたのだ。
「これは…」
触れてみると、その物質は私の指にまとわりついた。懐かしい感触だ。スライムの体液に似ているが、少し違う。
「誰か来たか」
突然、低い声が聞こえた。私は咄嗟に壁に体を張り付かせた。
「人間の気配がする…」
声の主は見えなかったが、何かが暗闇の中で動いているのを感じた。それは人間ではない。もっと…流動的な存在だ。
一瞬にして、それは消えた。私は急いで会議室に戻った。
「みんな!電気が切れたのは偶然じゃない!」
「何を言ってるんだ、粘田」部長の声が聞こえた。
「配電盤に何かが…スライムみたいな物質が付着していました」
「スライム?」焼野の声が緊張を孕んでいた。「それは…まさか」
その瞬間、非常灯も消え、会議室は完全な闇に包まれた。
「皆さん、動かないで!」焼野の声が響いた。「これは—」
突然、部屋の中央に青白い光が浮かび上がった。それは小さな球体で、ゆっくりと脈動している。
「これは…召喚の前兆だ」部長が唸った。「誰かが異界からの召喚を…」
球体は徐々に大きくなり、その光は強さを増していった。
「透くん!」花子が私の名を呼んだ。「あれ、前に見たことがある!勇者だった時に…」
言葉が終わる前に、球体から強烈な光が放たれ、私たちの視界を奪った。
目が慣れてくると、そこには…何もなかった。光は消え、部屋には再び蛍光灯の明かりが戻っていた。
「何だったんだ…?」誰かがつぶやいた。
焼野春雨は厳しい表情で立ち上がった。
「皆さん、今日はここまでにしましょう。明日から通常業務に戻ってください」
社員たちは混乱しながらも、一人また一人と会議室を後にした。
残されたのは私と花子、部長、そして焼野だけだった。
「粘田」部長が私を呼んだ。「お前、何か感じなかったか?」
「感じました」私は正直に答えた。「あれは…スライムでした。でも、普通のスライムじゃない」
部長と焼野が顔を見合わせた。
「警戒するべきね」焼野は静かに言った。「何かが始まっている」
「魔界融合計画とは別の何かが…」部長はつぶやいた。
私は壁に手をつき、さっきの粘液の感触を思い出した。あれは間違いなくスライムの痕跡だ。でも、どこか違う。より強く、より…意思を持ったような。
窓の外を見ると、春の雨が静かに降り始めていた。その雨粒が窓ガラスを伝う様子が、どこか不気味に見えた。
まるで、何かが忍び寄ってくるかのように。