混沌の試合開始
月曜日の朝、いつものように会社に向かう途中、なぜか町全体が妙な空気に包まれていた。
「何か変だな…」
通勤電車の中、サラリーマンたちの目つきがいつもより鋭い。スマホを見る指の動きも、コーヒーを飲む仕草も、どこか戦闘態勢のようだ。
会社に着くと、受付のお姉さんまでが「今日は生き残ってくださいね」と不吉な言葉をかけてきた。
エレベーターに乗り込むと、すでに中にいた先輩が壁に背を預けていた。
「おはようございます」
「ああ、粘田か。今日は気をつけろよ」
「何かあるんですか?」
「知らないのか?今日から始まるんだぞ、あの試合が」
エレベーターのドアが開くと同時に、フロアから異様な熱気が押し寄せてきた。
オフィスに一歩足を踏み入れた瞬間、視界に飛び込んできたのは、デスクの上に立ち、両腕を広げて雄たけびを上げる巨漢の姿だった。
「うぉぉぉぉぉ!力こそパワーーーッ!」
見たこともない男性社員が、なぜかプロレスラーのようなポーズを取っている。筋肉質の体に、派手な柄のネクタイ。背広の上着は脱ぎ捨てられ、ワイシャツの袖はまくり上げられていた。
「あれは…誰ですか?」
「新しく転属してきた雑賀。元・魔界のトッププロレスラーらしい」
「魔界の…プロレスラー?」
言葉を発した瞬間、雑賀と名乗る男の目が私に向けられた。
「おや?新しいカモが来たようだな!」
彼は机から飛び降り、驚異的なスピードで私の前に立ちはだかった。
「君、スライム臭がするな!」
「え?そんなことないですよ」
慌てて否定したが、雑賀は高らかに笑った。
「隠すな!この雑賀様の鼻は誤魔化せんぞ!さあ、勝負だ!」
「え?いや、僕はただの営業職で…」
言い終わる前に、雑賀の巨体が宙を舞った。
「魔界必殺技!地獄のエルボードロップ!」
「ひぃっ!」
反射的に体が溶け、床にぺたりと広がる。雑賀の肘が床を強打し、オフィス中に衝撃波が走った。
「うぐっ…さすがスライム、柔軟な回避だ…」
痛みに顔をゆがめる雑賀。周囲の社員たちは呆然と見つめている。
慌てて人型に戻りながら、「す、すみません!反射的に…」と謝ろうとした瞬間。
「素晴らしい!」
間苧谷部長の声が轟いた。会議室のドアが勢いよく開き、部長が両手を広げて現れた。
「これぞ真の闘志!雑賀よ、よく見せてくれた!」
「部長、これは一体…」
「粘田!今日から我が社は新たな時代に突入する!」
部長の目が赤く輝いている。完全に魔王モードだ。
「本日より、社内カースト決定トーナメントを開催する!」
「カースト…トーナメント?」
「そう!力と知恵を競い合い、真の上下関係を確立するのだ!勝者には栄光を!敗者には…くくく…」
部長の不気味な笑いに、オフィス中が凍りついた。
「具体的には…どういう…」
「簡単だ!各部署から代表者を選出し、様々な競技で勝敗を決める。優勝部署には特別ボーナス!最下位部署は…」
部長は意味深に言葉を切った。
「残業地獄だ!」
社員たちから悲鳴が上がる。
「それに個人戦もある!最強の社員には『魔王の右腕』の称号を与える!」
「いや、それただの部長のお気に入りじゃないですか」
誰かがつぶやいた。
「黙れ!滅びよ人間!」
部長の雄叫びに、異議を唱えた社員は沈黙した。
「さあ、各部署は代表者を選出せよ!一時間後に第一試合を開始する!」
部長の宣言とともに、オフィスは騒然となった。
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営業部のデスクに集まった私たちは、困惑の表情を浮かべていた。
「まさか本当にやるとは…」
「部長、最近魔王感増してるよね…」
「誰が出るの?私はパソコン壊しそうで…」
花子さんが心配そうに言った。元勇者なのに、現代の機械には弱い。
「粘田さん、どうしましょう?」
「え?なんで僕に聞くんですか?」
「だって準備委員じゃないですか」
そうだった。スポーツ大会の準備委員に選ばれていたことをすっかり忘れていた。
「いや、これはスポーツ大会とは別物で…」
「粘田くーん!」
振り返ると、小振田がコンビニの制服姿で立っていた。
「小振田さん?なんでここに?」
「今日から臨時社員として雇われたんだ!」
「は?」
「部長が『魔物の知恵も必要だ』って。時給3000円だぜ!」
小振田は嬉しそうに笑った。元ゴブリンの彼にとっては破格の待遇だろう。
「で、この試合、出るの?」
「いや、僕はパスで…」
「そうはいかないぞ、粘田くん」
間苧谷部長が背後から声をかけてきた。いつの間に?
「君は営業部代表として出場してもらう」
「なぜ僕が!?」
「スライムの特性を活かせば、無敵だろう?」
「それは反則じゃ…」
「反則?くくく…このトーナメントに反則などない!」
部長の笑い声が響く中、私の運命は決まってしまった。
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会議室が即席の闘技場に変貌していた。机や椅子は壁際に寄せられ、中央にはテープで四角い枠が作られている。
「第一試合!営業部 粘田 対 経理部 鈴木!」
アナウンスは総務部の笹原が担当していた。彼女も何故か猫耳カチューシャをつけている。
「ちょ、ちょっと待ってください!僕、何をすればいいんですか?」
「簡単だ」部長が説明する。「相手を枠の外に出すか、ギブアップさせれば勝ちだ」
「格闘技ですか!?」
「何を使っても良い。魔法も、特殊能力も、事務用品も!」
対戦相手の鈴木さんは、眼鏡をかけた真面目そうな経理マンだ。しかし、今や彼の手にはホッチキスが握られている。
「すみません、粘田さん。私も命令なので…」
「わかります…お互い手加減しましょう」
「始めッ!」
笹原の合図で、鈴木さんが動いた。
「経理部秘技!領収書ストーム!」
彼が投げたのは、無数の領収書。紙切れが嵐のように私に襲いかかる。
「なっ…!」
反射的に体を平たくして、紙の雨をかわす。
「流石スライム!では次は…決算報告バインダーアタック!」
分厚いバインダーが飛んできた。これは避けられない!
「うわあっ!」
咄嗟に体を液状化し、バインダーを吸収。しかし重みで動きが鈍くなる。
「これで動きを封じました!とどめです!電卓百連打!」
「そんな技あるの!?」
鈴木さんの指が電卓のボタンを猛烈な速さで叩き始めた。なぜかその度に衝撃波が生まれ、私の体を揺さぶる。
「くっ…このままじゃ…」
思い切って体の一部を犠牲にし、バインダーを吐き出す。
「えい!」
バインダーが床を滑り、鈴木さんの足元に到達。彼が一瞬バランスを崩した隙に、床を伝って彼の足に張り付いた。
「な、何をする気…うわっ!」
鈴木さんの足を引っ張り、枠の外へ。
「勝者、営業部 粘田!」
周囲から歓声が上がった。
「やりました粘田さん!」花子さんが駆け寄ってくる。
「いや、こんなの本当におかしいですよ…」
「次の試合!総務部 山田 対 開発部 佐藤!」
試合は続いていく。山田さんは謎の忍術を使い、佐藤さんはプログラミングコードで幻影を作り出す。もはや普通の会社ではない。
休憩時間、水を飲みながら呆然としていると、雑賀が近づいてきた。
「いい試合だったぞ、スライム野郎」
「あの、雑賀さんは…」
「俺か?魔界最強のレスラー、デスマウンテン・雑賀だ。人間界に来て退屈していたところを、魔王…じゃなかった、間苧谷部長に見出されてな」
「そうだったんですか…」
「お前も中々やるな。次は俺と当たるかもしれんぞ。その時は覚悟しろよ!」
雑賀は豪快に笑うと、肩を叩いてどこかへ行ってしまった。
叩かれた衝撃で、私の肩が少し溶けた。
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「皆の者、初日の試合はここまでだ!」
部長が宣言した。予選らしき試合が終わり、トーナメント表が完成していた。
「明日からは本戦だ!今日の勝者たちは準備せよ!」
疲れ切った社員たちは、ぼんやりと頷いている。
「粘田くん、よかったね」
花子さんが隣に座った。
「花子さんも勝ったんですよね?」
「うん。でも勇者の力を使っちゃったから、ちょっと反則かも…」
「このトーナメントに反則はないそうですよ」
二人で苦笑いする。
「でも不思議ですね。みんな隠し持ってた力を出し始めて…」
「そうね。私も久しぶりに剣を握った気分だったわ」
「剣?花子さん、本当に剣を?」
「ああ、ホチキスをね」
なんとなく理解できた。
帰り際、小振田が声をかけてきた。
「粘田、明日も頑張れよ」
「小振田さんは出ないんですか?」
「俺?臨時社員だからトーナメントには出られないんだ。代わりに実況の手伝いをするよ」
「そうですか…」
「それより、これ」
小振田が差し出したのは、青く光るドリンク。
「元気が出るぞ。ゴブリン族の秘薬だ」
「あ、ありがとう…」
受け取ったものの、飲む勇気はない。
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アパートに帰り、ベッドに倒れ込む。今日は何だったのか。なぜ急に社内がバトルロイヤルのようになったのか。
しかし不思議なことに、恐怖よりも、どこか懐かしい感覚が胸を満たしていた。
スライムだった頃、弱くて逃げ回るだけの日々。それが人間になって、こんな形で戦うことになるとは。
「明日はどうなるんだろう…」
天井を見上げながら呟いた瞬間、体が浮き上がり、天井にぺたりとくっついた。
「あー、またか…」
緊張すると、つい元の習性が出てしまう。
天井から見下ろす部屋は、いつもと同じなのに、何もかもが変わってしまったように感じた。
明日からの試合。魔界のプロレスラー。部長の企み。
そして、自分の中に眠る、スライムとしての本能。
「まあいいか。やるだけやってみよう」
そう決意した瞬間、体がぽとりと落ちた。
床に広がった自分を集めながら、なぜか少し笑みがこぼれた。




