山奥の迷宮での試練
朝の研修バスは、東京の喧騒から遠ざかるにつれて、スマホの電波も徐々に弱まっていった。
「圏外になりました…」透は不安げに画面を見つめる。
「山奥の研修って、聞いてないよね?」花子がため息をつく。
バスの中は、緊張と不安が入り混じった空気が漂っていた。昨日の異世界への扉が開きかけた事件は、なぜか夢だったかのように扱われ、今朝は通常通り出社するよう全員に連絡が入っていたのだ。
「さて、到着だ!全員降りろ!」
間苧谷部長の声に、社員たちは重い足取りでバスを降りた。目の前に広がるのは、古びた和風旅館のような建物。周囲は深い森に囲まれ、人里離れた場所だった。
「ここで何をするんですか?」透が恐る恐る尋ねる。
「チームビルディング研修だ」部長の目が赤く光る。「人事部からの特命だ」
玄関に立っていたのは、黒縁メガネをかけた小柄な男性。
「皆様、お疲れ様です。研修担当の簿記大魔神です」
「大魔神…?」透は思わず聞き返した。
「いえ、大真人です。簿記大真人」男性は咳払いをした。「では、まず皆様に研修の概要を説明します」
大真人は不気味な笑みを浮かべながら続けた。
「この施設は『迷宮』と呼ばれています。皆さんには各チームに分かれて、謎解きをしながら脱出していただきます」
「脱出…?」社員たちがざわめく。
「はい。この建物は複雑な造りになっており、様々な仕掛けや謎が仕組まれています。全てを解き明かし、最終地点に到達したチームが勝利です」
「で、勝ったら何かあるんですか?」小振田が手を挙げた。
「もちろん」大真人はニヤリと笑った。「勝利チームには特別ボーナスが出ます。負けたチームは…」
一瞬、大真人の目が赤く光った気がした。
「残業月100時間追加です」
悲鳴が上がる。
「冗談です」大真人は笑った。「負けたチームは帰りのバスで立ち席です」
それでも十分に恐ろしい罰だった。
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透たちのチームは、花子と小振田、そして新人の佐々木という構成だった。
「まず、この部屋から出るための鍵を見つけましょう」花子が言った。
部屋は和室で、畳の上に古い箪笥や掛け軸などが置かれている。
「何か違和感ありませんか?」小振田が首をかしげる。
透は部屋を見回した。確かに何かおかしい。
「掛け軸の絵…」透は気づいた。「スライムが描かれてる」
全員が掛け軸に駆け寄った。そこには確かに青いスライムが描かれていた。しかも、よく見ると透の顔に似ている。
「なんでスライム?」佐々木が首をかしげる。
「わ、わかりません!」透は焦って言った。「でも、これは何かのヒントかも」
花子が掛け軸を持ち上げると、壁に小さな穴が開いていた。
「何かを入れる穴ですね」花子が言う。
「形は…」小振田が覗き込んだ。「丸い何かが入りそうです」
透はふと自分のポケットを探った。あの青く光るUSBメモリが入っているはずだが…ない。
「探し物?」花子が透の様子に気づいた。
「いえ、何でもないです」
部屋を隅々まで探すと、箪笥の引き出しから古い日記が見つかった。
『我、異界より来たりし者なり。此の世に囚われし身、元の姿に戻る術を求めん』
「なんだこれ…」透はゾクリとした。元の姿に戻る術…スライムに戻るということか?
次のページには暗号のような文字列が書かれていた。
「これ、解読できますか?」佐々木が尋ねる。
「ちょっと待って」花子が日記を受け取り、真剣な表情で見つめる。「これは…古代魔法の…いえ、古代文字のようです」
花子はペンを取り出し、紙に何かを書き始めた。まるで勇者が古代の文字を解読するかのような手際の良さだ。
「『壁に触れし者、道を開く』…こんな感じかな」
「壁に触れる?」透は不思議に思った。
小振田が壁を調べ始めた。「ここ、少し変わった模様がありますね」
透が指摘された場所に近づくと、壁に微かにスライム型の凹みがあるのに気づいた。
「これは…」
透は思わず手を伸ばした。すると、指先がスライムのように変形し、凹みにぴったりとはまった。
「わっ!」透は慌てて手を引っ込めようとしたが、すでに遅かった。
壁が動き出し、隠し扉が開いた。
「すごい!どうやったの?」佐々木が驚いた声を上げる。
「え、いや、たまたま…」透は冷や汗をかいた。
「透さん、何か隠してません?」花子が怪訝な表情で尋ねる。
「そ、そんなことないですよ!」透は慌てて否定した。「とにかく先に進みましょう!」
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隠し扉の先は、さらに奇妙な空間だった。部屋全体が上下逆さまになっており、天井に家具が設置されている。
「これは…どういうこと?」佐々木が混乱した様子で見上げる。
「重力のトリックか何かでしょうか」小振田が言った。
部屋の中央には、逆さまになった机の上に重要そうな箱が置かれている。しかし、天井にあるため手が届かない。
「どうやって取るんだ…」透がつぶやく。
「透さん、さっきみたいに何かできません?」花子が期待の眼差しで見つめてくる。
「え?いや、それは…」
その時、部屋の扉が開き、間苧谷部長が入ってきた。
「どうだ、進捗は?」
「部長!この部屋、おかしいんです」佐々木が訴える。
「そうだな」部長はニヤリと笑った。「これは『逆転の間』だ。考え方を変えないと進めん」
「考え方を変える…」透は思案した。
突然、部長が透をじっと見つめた。「粘田、お前なら何かできるだろう?」
その目は何かを知っているかのようだった。透は緊張した。
「私に何ができるというんですか…」
「お前の本当の姿を見せろ」部長の声は低く、威圧的だった。
透の体が震えた。スライムとしての記憶が呼び覚まされる。
「本当の…姿…」
その時、小振田が咳払いをした。「あの、私に考えがあります」
全員が小振田に注目する。
「この部屋は逆さまですよね。つまり、私たちの考え方も逆にすべきなんです」
小振田は床に寝転がり、天井を見上げた。
「こうすれば、正しい向きに見えます。箱は実は床にあるんです」
「なるほど!」花子も寝転がった。
透も続いて床に横たわった。確かに、この角度から見ると、部屋が正しい向きに見える。そして、箱は手の届く場所にあるように思えた。
「手を伸ばしてみて」部長が言った。
透が恐る恐る手を伸ばすと、不思議なことに箱に触れることができた。
「取れた!」
箱を開けると、中には次の部屋への鍵と、奇妙なメモが入っていた。
『形は変われど、心は変わらず。己の本質を忘れるな』
透はメモを読み、背筋が寒くなった。これは自分へのメッセージなのか?
「次の部屋に行きましょう」花子が鍵を手に取った。
部長は満足げな表情で頷いた。「良いぞ。だが、本当の試練はこれからだ」
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次の部屋に入ると、そこには大量の食料と水が置かれていた。
「これは…」
「食料庫です」大真人が現れた。「しかし、これから先は物資が不足します。必要なものだけ持っていきなさい」
「どういうことですか?」透が尋ねる。
「この研修、実は3日間続きます」大真人は不敵に笑った。「この建物の中で、サバイバルしていただくのです」
社員たちから悲鳴が上がった。
「冗談でしょ!?」
「帰りたい!」
「安心してください」大真人は手を振った。「いつでも降参できます。ただし、その場合は…」
「残業月100時間ですね」部長が冷たく言い放った。
「そうです」大真人は頷いた。「さあ、選びなさい。サバイバルか、残業か」
透たちのチームは顔を見合わせた。
「やるしかないですね」花子が決意を固めた。
「ええ」小振田も頷いた。
透はポケットを探り、何かを確かめるように手を入れた。そこには、いつの間にか戻っていた青いUSBメモリがあった。それは微かに脈動しているようだった。
「僕たちなら、きっとできる」透は静かに言った。「だって僕たちは…」
「普通の会社員ではないから?」花子が小声で尋ねた。
透はかすかに笑った。「そう、僕たちは特別なチームだから」
部長はそんな彼らの会話を聞きながら、口元に不敵な笑みを浮かべていた。
「滅びよ人間…いや、頑張れ諸君」
研修施設の窓の外では、空が不気味に歪み始めていた。まるで、何かが近づいてきているかのように…。