平穏の裏側
帰りの電車の中で、透は窓に頬をくっつけたまま考え込んでいた。スライム時代の癖が出ると、こうして何かに張り付きたくなる。幽霊島で発見した「異世界タウン」のことが頭から離れなかった。
「ねえ」
隣に座る花子が小声で呼びかけた。
「ん?」
「あの後、会社に戻ってみたら…なんか変じゃない?」
透はゆっくり窓から頬を剥がした。吸盤のような音がして、隣の老婦人に奇妙な目で見られた。
「変って…どう変なの?」
「失踪してた人たち、全員戻ってきてるの」花子は眉をひそめた。「でも、みんな記憶があやふやで…」
そういえば月曜日、総務の佐々木さんは「週末どこにいたか覚えてない」と言っていた。異世界タウンで妖精の姿になっていたはずなのに。
「あと、みんな口を揃えて『絶妙においしいサバ缶を食べた気がする』って言うのよ」
「サバ缶…?」
透は思わず背筋が凍った。鯖缶絶郎の影響か?
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翌日のオフィス。透が席に着くと、デスクの上に見覚えのないUSBメモリが置かれていた。
「これ、誰の…?」
周囲を見回しても心当たりはない。おそるおそる自分のパソコンに差し込むと、画面に奇妙なデータが表示された。
それは透がスライムだった頃の記憶だった。
「なっ…!」
ヌル山ぷる男として生きていた日々。弱小モンスターとして森をうろついていた時の映像が、まるで誰かに撮影されたかのように記録されている。
「これ、誰が…?」
データの最後には一行のメッセージがあった。
『君の過去は消えていない。すべては計画通りに進んでいる。』
透は慌ててUSBを抜き、ポケットにしまった。心臓が早鐘を打っている。
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「部長、ちょっといいですか?」
昼休み、透は間苧谷部長の個室を訪ねた。元魔王の彼なら何か知っているかもしれない。
「何だ、粘田。入れ」
ドアを開けると、部長は窓際に立ち、外を眺めていた。
「実は、おかしなことが…」
話しかけようとした瞬間、透は部長の背中に気づいた。スーツの生地の下に、かすかに浮き出る模様。魔王の紋章だ。魔王の力は封印されたはずなのに。
「どうした?」部長が振り返る。
「あの…失踪した社員のことで」透は本題をぼかした。「みんな戻ってきましたが、記憶があやふやで…」
「ああ、あれか」部長は不思議そうに首を傾げた。「私も覚えていないんだが、どうやら週末、社員全員で何かあったらしい。おいしいサバ缶を食べた記憶だけがある」
透は冷や汗を流した。部長まで記憶がない?
「それと…」部長は机の引き出しを開けた。「今朝、これが届いていてな」
差し出されたのは、古ぼけた封筒。中から取り出されたのは、一枚の写真だった。
そこには若き日の間苧谷部長が映っていた。しかし、背景は明らかに異世界の王城。彼は魔王の装束に身を包み、玉座に座っている。その隣には…
「鯖缶絶郎…!」
透は思わず声を上げた。写真の中の鯖缶絶郎は、現代とまったく同じ姿で、魔王の隣に立っていた。
「知っているのか?」部長が鋭く問いただした。
「いえ、その…」
その時、ドアが勢いよく開いた。
「大変です!」
飛び込んできたのは小振田だった。コンビニのエプロン姿のまま、息を切らしている。
「なんだ、小振田。勤務中だろう」
「それが!コンビニに変な客が来たんです!」小振田は興奮気味に言った。「サバ缶だけを買い占めていって…」
「サバ缶?」透と部長が同時に声を上げた。
「しかも言ったんです。『新しい舞台の準備は整った』って」
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夕方、透は花子と小振田を連れて会社近くの公園に集まった。
「私も変なものを見つけたわ」花子はスマホを取り出した。「会社のサーバーをチェックしていたら、アクセスログに謎のIPアドレスが。追跡したら…」
彼女が見せた画面には、衝撃的な情報が表示されていた。
『転送先:異世界座標X-2971、Y-3842』
「これって…」
「異世界へのデータ送信よ」花子は真剣な表情で言った。「しかも、毎日会社の情報が送られている」
小振田が緑色の顔を青ざめさせた。「まさか、誰かが異世界と連絡を…」
その時、透のポケットのUSBメモリが突然、青く光り始めた。
「わっ!」
USBを取り出すと、それは小さな球体に変形し、空中に浮かび上がった。そこから投影されたのは、一つのメッセージ。
『異世界と人間界がぬるっと共存する世界。その鍵はあなたたち。明日、幽霊島に来なさい。すべての謎が明らかになる。』
三人は顔を見合わせた。
「行くしかないね…」透はつぶやいた。
「でも、これって罠かもしれないわよ」花子は警戒心を露わにした。
「いや…」透は決意を固めた。「これは私のスライム時代からの宿命かもしれない。行こう」
小振田はコンビニ袋からサバ缶を取り出した。「とりあえず、これ買っておきました!」
「なんでサバ缶買うのよ!」
「だって、みんな絶賛してるじゃないですか!」
透は思わず笑ってしまった。どんな状況でも変わらない小振田の食への執着。
空を見上げると、夕焼けの雲の形がどことなくスライムに見えた。明日、すべての謎が明らかになる。スライムから人間へ転生した自分の運命とは…。
透は決意を新たにした。明日、幽霊島へ向かおう。たとえそこで何が待ち受けていようとも。