鬼留島の初陣
会議室のドアが勢いよく開き、間苧谷部長が入ってきた。その表情はいつも以上に険しい。
「諸君、重大発表がある」
部長の低い声が響き、室内の空気が一瞬で凍りついた。透は背筋を伸ばし、姿勢を正した。
「来週から三日間、鬼留島での新人研修合宿を行う」
「鬼留島…ですか?」誰かが小さく呟いた。
「そう、東京から船で2時間。電波も届かない絶海の孤島だ」
部長の目が赤く光り、透は思わず椅子に張り付きそうになった。
「全員参加だ。拒否は認めん」
「でも部長、私たち新人じゃないですよね?」透は勇気を振り絞って質問した。
間苧谷部長はニヤリと笑った。その笑顔には何か不吉なものが潜んでいた。
「粘田君、君こそ参加すべきだ。君の『流動的な適応力』を試す絶好の機会だからな」
透は言葉の意味を瞬時に理解した。スライムとしての能力を指しているのだ。
「資料はハラス君が配布する。解散!」
部長が出ていくと、室内にどよめきが広がった。
「鬼留島って、昔人身御供があったって噂の…」
「いや、それは都市伝説でしょ」
「でも電波が届かないのは本当らしいよ」
透のデスクに、ハラス・カイリが資料を置いた。
「粘田さん、楽しみですね」彼の声には含みがあった。「部長が特別にあなたのために準備されたプログラムがあるそうですよ」
「え?」
「冗談です」ハラスは笑ったが、その目は笑っていなかった。「でも、水着はお忘れなく」
透は資料を開いた。「サバイバル研修」「チームビルディング」「夜間行動訓練」…どれも普通の研修に見えるが、間苧谷部長が企画したとなると話は別だ。
「透さん、大丈夫?」
振り返ると、花子が心配そうに立っていた。
「ああ、花子さん。昨日のメッセージは…」
「これのことよ」花子は小声で言った。「昨日、部長の机で偶然この企画書を見てしまって…」
「何か変なことが書いてあった?」
花子は周囲を警戒するように見回してから答えた。
「夜間行動訓練の真の目的は…」
その時、小振田が二人に近づいてきた。
「おはようございます!今日もホットスナック持ってきましたよ」
彼の明るい声に、緊迫した空気が一瞬で和らいだ。
「ありがとう、小振田さん」透は微笑んだ。「ところで、鬼留島って知ってる?」
「鬼留島?」小振田の表情が一瞬曇った。「知りませんが…なんだか名前が不吉ですね」
「来週、会社の研修で行くんだ」
「へえ、楽しそう!」小振田は元気よく言ったが、その目は少し不安そうだった。「僕も行きたいなあ」
「え?でも小振田さんは社員じゃ…」
「実は!」小振田が胸を張った。「昨日、間苧谷部長から特別参加のオファーをいただいたんです!」
「マジで?」透は驚いた。
「はい!料理担当として」
花子が小さく溜息をついた。「部長、何を考えてるんだろう…」
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一週間後、透たちは港に集合していた。
「全員揃ったな」間苧谷部長が満足そうに言った。「では出発するぞ」
小さな船に乗り込む社員たち。透は花子の隣に座った。
「結局、夜間訓練の本当の目的は何だったの?」透は小声で尋ねた。
花子は首を振った。「言えないわ…あまりにも…」
船が揺れ始め、透は会話を諦めた。窓の外を見ると、東京の街並みが徐々に小さくなっていく。
二時間後、鬼留島が見えてきた。想像以上に荒々しい岩肌と鬱蒼とした森。透は不安を感じた。
「到着だ」部長の声が船内に響いた。「諸君、これから三日間、この島で生き抜くのだ」
船が岸に着くと、全員が荷物を持って降りた。
「まずはベースキャンプを作るぞ」部長が指示した。「チームに分かれて作業開始!」
透は花子、小振田、そして営業部の同僚・佐々木と一つのチームになった。
「テント張るの手伝って」花子が言った。
透がテントの支柱を持とうとした瞬間、手がぬるっと透明になり、支柱が床に落ちた。
「あっ…」
「大丈夫?」花子が心配そうに尋ねた。
「ちょっと緊張して…」透は慌てて手を隠した。
小振田が笑顔で近づいてきた。「僕が手伝いますよ!」
彼の手際の良さに、透たちは驚いた。
「小振田さん、キャンプ慣れてるの?」
「ええ、まあ」小振田は照れくさそうに笑った。「ゴブリ…じゃなくて!前の職場でよくアウトドア活動してたんです」
ベースキャンプが完成すると、部長が全員を集めた。
「よくやった。次は夕食の調達だ」
「調達?」透は不安になった。
「そう」部長はニヤリと笑った。「この島には様々な食材がある。チーム対抗で調達し、最高の料理を作るチームには特典がある」
「特典は何ですか?」誰かが質問した。
「明日の『特別プログラム』免除権だ」
全員が息を呑んだ。特別プログラムの詳細は誰も知らないが、部長の笑顔から察するに、避けたほうが良さそうだった。
「では、開始!」
各チームが森へと散っていく。透たちも急いで行動を開始した。
「じゃあ、私は山菜を探すわ」花子が言った。
「僕は魚を捕まえてみます」小振田が笑顔で言った。
「俺は…」佐々木が周囲を見回した。「果物でも探すか」
透は一人残された。
「僕は…何を?」
「透さんは水を探して」花子が提案した。「この辺りに湧き水があるはずよ」
チームは四散した。透は一人で森の中を歩き始めた。
「水源か…」
森の中は想像以上に暗く、木々の間から差し込む光が不気味な影を作っていた。透は不安を感じながらも前進した。
しばらく歩くと、確かに水の音が聞こえてきた。透は音の方向へ進み、小さな滝を見つけた。
「やった!」
透が近づこうとした瞬間、足元がぬるりと滑った。バランスを崩した透は、滝つぼに向かって転がり落ちた。
「うわあっ!」
水面に触れた瞬間、透の体が反応した。元スライムの本能が目覚め、体が半透明になり始める。
「やばい、落ち着け…」
必死に意識を集中し、人間の形を保とうとする。ようやく体の変化が止まったとき、透は水面に映る自分の姿を見た。
完全な人間ではない。かといって完全なスライムでもない。中途半端に透明な、奇妙な姿。
「これじゃあ皆に…」
その時、森の奥から悲鳴が聞こえた。
「花子さん?」
透は慌てて水から上がり、悲鳴の方向へ走り出した。体はまだ半透明のままだが、それどころではない。
森を抜けると、そこには恐ろしい光景が広がっていた。
花子が巨大な…何かと対峙していた。それは人の形をしているようで、しかし明らかに人ではない。
「な、何なの、これ…」花子の声が震えていた。
透は木の陰に隠れながら状況を見た。その「何か」の背後には間苧谷部長が立っていた。
「どうだ?懐かしいだろう、勇者よ」部長の声には嘲りが含まれていた。
「これが…夜間訓練の正体?」透は小さく呟いた。
島での本当の目的が、少しずつ見えてきた気がした。