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転生会社員の揺らぐ日常

緑色の制服が会議室の扉から消えると、一瞬の静寂が訪れた。


「あの人、すごかったですね…」


誰かがぽつりと呟いた言葉に、社員たちが小さく頷く。コンビニ店員の小振田緑朗が見せた神業は、まるで魔法のようだった。彼はシステムエラーを起こしたPOSデータを、たった一人でレジ打ちのような動きで整理し、あっという間に収束させたのだ。


ぷる男こと粘田透は、床から完全に体を引き剥がすのに苦労していた。スライム時代の習性が抜けきらず、緊張すると体の一部が周囲に張り付いてしまうのだ。


「粘田さん、大丈夫?」


花子が心配そうに手を差し伸べる。透はその手を借りて、ようやく立ち上がった。


「ありがとう…」


会議室には数人の社員が残り、散乱した資料を片付けている。魔王…いや、間苧谷部長の姿はない。先ほどまでの緊張感が嘘のように、日常の空気が戻りつつあった。


「間苧谷部長、どこ行ったんだろう」


透が周囲を見回すと、データ斎が小さな声で答えた。


「さっき、"魔剣を取りに行く"って言って出て行きましたよ」


「え?また持ってくるの?」


「いや、忘れたから取りに行くって…」


透と花子は顔を見合わせた。あの恐ろしい魔剣パワポイントを、どこかに置き忘れたというのだ。


「大丈夫かな…あんな危険なもの」


透が心配そうに呟いた瞬間、会議室のドアが再び開いた。間苧谷部長が颯爽と入ってくる。手には何も持っていない。


「くっ…今回は見逃してやる」


部長は誰に言うでもなく宣言すると、腕を組んで仁王立ちした。その表情は冷徹そのものだ。


「部長、魔剣は…?」


透が恐る恐る尋ねると、部長は鼻を鳴らした。


「どうやら、別の次元に置き忘れてきたようだ。しかし問題ない。我が魔王の力は、武器など無くとも十分すぎるほどだ」


「はぁ…」


透は安堵のため息をついた。危うく会社全体がデータ暴走に巻き込まれるところだった。


「しかし粘田!」


突然名前を呼ばれて、透はビクリと体を震わせた。


「は、はい!」


「お前の行動、覚えておくぞ。次回の会議では、お前にも特別なプレゼンをしてもらう」


部長の言葉には明らかな脅しが込められていた。透は青ざめた顔で頷くしかなかった。


「では、解散だ!明日からの営業成績で、真の力を見せるがいい!」


部長は高らかに宣言すると、まるで魔王の城に帰還するかのように堂々と退場していった。


「大丈夫?透さん」


花子が心配そうに声をかける。透は弱々しく笑った。


「まあ、なんとか…」


会議室から出た二人は、静かになった廊下を歩いていた。窓の外では、夕暮れの空が赤く染まり始めている。


「あのコンビニ店員さん、不思議な人ね」


花子が唐突に言った。


「小振田さん?確かに…でも、なんだか親しみやすいよね」


「それだけじゃないわ」


花子は立ち止まり、真剣な表情で透を見つめた。


「あの人が言っていた『勇者様』って呼び方…私、本当に覚えているの。異世界で助けたゴブリンの子がいたわ」


「え?マジで?」


「うん。でも、そんなことを知っている人は、この世界にはいないはず…」


花子の表情に不安の色が浮かぶ。透は自分の記憶を必死に探った。スライムだった頃、ゴブリンと関わりがあったかもしれない。だが、転生時の記憶の大部分は曖昧で、確かなことは言えなかった。


「それより、データ斎のことも気になるわ」


花子の言葉に、透は首を傾げた。


「どういうこと?」


「あのデータ暴走、最初からプランされていたように思えるの。部長の魔剣が暴走したように見せかけて、実は会社のデータを…」


花子は言葉を切った。廊下の角からデータ斎が現れたのだ。


「お疲れ様です」


データ斎は二人に軽く会釈すると、素早く通り過ぎていった。その手には、見覚えのあるタブレットが握られていた。


「…怪しいわね」


花子が小声で言う。透も同意見だった。この会社には、転生者が思った以上に多く潜んでいるのかもしれない。


エレベーターに乗り込んだ二人は、しばらく無言だった。透は自分の転生先について、改めて考えていた。スライムから人間になったことは喜ばしい。だが、こんな複雑な状況に巻き込まれるとは思わなかった。


「透さん、明日、あのコンビニに行ってみない?」


花子の提案に、透は少し迷った。小振田緑朗という男は、確かに不思議な魅力を持っている。だが、また異世界の因縁に巻き込まれるのは正直怖かった。


「…行ってみるよ」


結局、透は好奇心に負けた。エレベーターのドアが開き、二人はロビーへと足を踏み出した。


「あ、透さん。背中に何かついてるわよ」


花子が指さす方向に手を伸ばすと、透の背中には小さな付箋が貼られていた。それを取って見ると、そこには見慣れない文字で何かが書かれていた。


「これ…異世界の文字?」


花子が覗き込む。透はスライム時代に見たことのある文字だと気づいた。


「読める?」


「うん、なんとなく…」


透が集中して付箋を見つめると、文字が徐々に理解できるようになってきた。


『明日、セブンイレブンにて。新商品「転生者専用エナジードリンク」先行販売。魔力回復効果バツグン!』


「…これ、広告?」


二人は顔を見合わせ、思わず吹き出した。緊張が解けた瞬間だった。


「小振田さん、商売上手ね」


花子が笑いながら言う。透も笑顔を浮かべた。


「明日、行ってみよう。僕も魔力切れかもしれないし」


冗談めかして言った透だったが、実は半分本気だった。スライムから人間に転生して以来、何か力が足りないような気がしていたのだ。


ビルを出た二人は、夕暮れの街に溶け込んでいった。透の足元で、小さな影がぬるりと動いたが、誰も気づかなかった。その影は、まるでスライムのような形をしていた。


明日はどんな日になるのだろう。透は空を見上げながら、そんなことを考えていた。

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