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研修室の逆転ミステリー

研修室の空気が一変した。


先ほどまで異次元の恐怖に支配されていた空間が、突如として日常に戻っていた。透は混乱したまま、自分の手のひらを見つめる。粘液の痕跡はどこにもない。


「幻だったのか…?」


しかし花子のウインクと「まだ終わっていないわ」という無言のメッセージが頭から離れない。透は研修資料をめくりながら、何が真実で何が幻なのか判断できずにいた。


「では、次のプレゼン資料に移りますが…」


透が言葉を続けようとした瞬間、研修室のドアがゆっくりと開いた。


「失礼します〜」


コンビニの制服を着た小振田緑朗が、紙袋を手に現れた。


「小振田さん?どうしてここに?」


透が驚いて声をあげると、小振田は人懐っこい笑顔で答えた。


「差し入れっス!魔界風カフェラテ、全員分持ってきました!」


「魔界風…って何?」


透が聞く前に、小振田はすでに新入社員たちにカップを配り始めていた。紙コップから立ち上る紫色の湯気が研修室内に広がる。


「これ、飲んでも大丈夫なの…?」


透が恐る恐るカップを受け取ると、小振田は親指を立てて笑った。


「安心してください!人間界の材料だけで作ってますから。ちょっと魔界のレシピを参考にしただけっス」


新入社員たちは怪訝な顔をしながらも、一斉にカップに口をつけた。不思議なことに、一口飲むと彼らの表情が和らぎ、リラックスしていく。


「おいしい…なんだこれ」

「心が落ち着く…」

「なんか頭がすっきりする!」


透も恐る恐る一口飲んでみると、不思議な感覚が全身を包んだ。まるで体の中に溜まっていた粘液が浄化されるような感覚。


「これは…」


小振田が透の耳元でささやいた。


「核石の力を抑える特殊なブレンドっス。ゴブリン族の秘伝レシピを応用してみました」


「え?あなたは本当にゴブリン…?」


小振田は人差し指を唇に当て、「内緒っス」と微笑んだ。


研修室内の空気が変わり始めた。紫の湯気が天井に集まり、まるで浄化装置のように部屋の異常な雰囲気を吸い込んでいく。


「何が起きているんだ…?」


透がつぶやいた時、花子が彼の隣に現れた。


「小振田さんのカフェラテが、間苧谷部長の魔力を中和しているみたい」


「花子さん、あなたは本当に勇者なの?それとも…」


花子は首を傾げ、きょとんとした表情を浮かべた。


「もちろん勇者よ。あら、透さん、何か勘違いしてる?」


その純粋な瞳に嘘はなさそうだった。透は頭を振り、先ほどの違和感を払拭しようとした。


「いや、なんでもない…」


研修室は徐々に通常の状態に戻りつつあった。新入社員たちもリラックスした表情で、普通に研修を受けている。しかし、何かが違う。


「あれ?間苧谷部長はどこ?」


透が気づくと、確かに部長の姿が見当たらない。先ほどまで前に立っていたはずなのに、いつの間にか消えていた。


「部長なら、さっき急な電話で呼び出されたって出て行ったよ」


隣の新入社員が何気なく答えた。しかし、その「記憶」は本当だろうか?透には部長が出て行く姿を見た覚えがない。


「小振田さん、これはどういう…」


振り返ると、小振田の姿も消えていた。紙袋と空のカップだけが残されている。


「何が起きているの…」


花子が透の肩に手を置いた。


「大丈夫よ。小振田さんのカフェラテで、一時的に現実が安定したの。でも、これは一時的な解決に過ぎないわ」


「じゃあ、さっきの魔王とか、私のスライム化とか…あれは全部本当だったの?」


花子はうなずいた。


「ええ。間苧谷部長…いえ、魔王サタン・マオダは計画を進めているわ。彼は一時的に姿を消したけど、きっとまた現れる」


透は深いため息をついた。


「じゃあ僕はどうすれば…」


その時、透のスマホが振動した。画面を見ると、差出人不明のメッセージが届いていた。


『核石の力を制御せよ。さもなくば、人間界は滅びる。—M』


「M…?間苧谷部長?」


花子もメッセージを覗き込み、眉をひそめた。


「違うわ。これは…」


彼女の言葉が途切れたとき、研修室の照明が一瞬ちらついた。しかし、すぐに元に戻り、何事もなかったかのように研修は続いた。


「とりあえず、今日の研修は普通に終わらせましょう」


花子が提案し、透も同意した。不思議なことに、残りの研修時間は何の異常もなく過ぎていった。新入社員たちは熱心にメモを取り、質問も活発に出る。まるで先ほどの出来事など無かったかのように。


研修が終わり、新入社員たちが退室した後、透と花子は研修室に残った。


「花子さん、これからどうすればいいの?」


花子は窓の外を見つめながら答えた。


「間苧谷部長が何を企んでいるのか、調査する必要があるわ。でも、彼が姿を消した今、手がかりがない…」


透は自分の手を見つめた。普通の人間の手。しかし、その中にはスライムの核石が眠っているのだ。


「僕の中の核石…これを制御できれば何か変わるのかな」


花子は頷いた。


「そうね。あなたが鍵を握っているのは間違いないわ。小振田さんのカフェラテで一時的に抑えられたけど、根本的な解決にはなっていない」


透は決意を固めた。


「わかった。僕も協力するよ。会社が異世界の生物に乗っ取られるなんて、冗談じゃない」


花子は微笑んだ。


「ありがとう。明日からまた一緒に頑張りましょう」


二人が研修室を出ようとしたとき、床に何かが落ちているのに気づいた。紫色の液体が一滴。


「これは…」


透が近づこうとすると、その液体は床に吸収されるように消えた。


「間苧谷部長の痕跡ね。彼はまだどこかで私たちを見ているわ」


花子の言葉に、透は背筋に冷たいものを感じた。


帰り道、透は自分の体に起きている変化について考えていた。スライムとしての力が目覚めつつあること、そして会社の正体が明らかになりつつあること。すべてが不思議で、怖くもあり、どこか滑稽でもあった。


「スライムが転生したら俺だった件…か」


透は自嘲気味に笑った。明日からまた普通のように会社に行き、異世界由来の同僚たちと仕事をする。そして、魔王の計画を阻止する方法を探る。


彼のアパートのドアの前には、小さな紙袋が置かれていた。中には一本のカフェラテと、メモが入っていた。


『いつでも力になるっス。—小振田』


透は微笑み、カフェラテを一口飲んだ。不思議と心が落ち着く。明日からの戦いに向けて、今夜はゆっくり休もう。


彼が気づかないうちに、アパートの壁には小さな紫色の影が這っていた。魔王の監視の目は、すでに至るところに広がっていたのだ。

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