金曜夕方の大混乱
金曜日の午後五時十八分。週末の訪れを告げるはずのこの時間が、粘田透にとって地獄の始まりだった。
「粘田くん、例の企画書の進捗はどうなった?」
間苧谷部長の声が背後から響き、透は思わず椅子から転げ落ちた。
「あ、あの、今ちょうど最後の調整を…」
「月曜のプレゼンで勝てなかったら、君を溶かして文房具にするからね」
部長は満面の笑みでそう言い放った。「冗談だよ、冗談。溶かすなんてできないし」と付け加えるが、その目は笑っていない。
「はい…頑張ります」
部長が去ると同時に、透はデスクに突っ伏した。スライムから人間に転生して早半年。営業部の平社員として働くこの日常が、時として異世界での底辺スライム生活より過酷に感じる。
「大丈夫?」
隣のデスクから勇田花子が心配そうに声をかけてきた。元・異世界の勇者である彼女は、現代ではコピー機を前に立ち尽くす天然系OLとして働いている。
「ううん、もう終わりだよ…月曜の企画プレゼン、資料が全然できてない」
「私も手伝うよ!勇者の力で!」
花子は元気よく立ち上がったが、その勢いでデスクの上のコーヒーをキーボードにぶちまけた。
「きゃあ!ごめん!」
彼女は慌ててティッシュで拭き始めたが、すでにキーボードからは煙が上がっている。元勇者の彼女にとって、現代の機械との戦いは永遠の課題だった。
「大丈夫、諦めよう…」
透がため息をつきながら言うと、急に体がふわりと浮いた感覚に襲われた。
「あれ?」
気づくと、彼は天井にぴったりと張り付いていた。
「またか!降りられない!」
「透くん!今度は天井!?」
花子が驚いて叫ぶ声に、オフィスの視線が一斉に集まる。スライム時代の習性が抜けきらない透の体は、ストレスがかかると勝手に壁や天井に張り付く癖があった。
「誰か…助けて…」
「おーい、粘田くんは今日も天井でサボってるのかー?」
同僚たちが面白がって冷やかす中、小振田緑朗がはしごを持ってきてくれた。元ゴブリンの彼は、今やコンビニ店員として接客スキルを磨いていた。
「ありがとう、小振田くん…」
「いいっすよ。俺も昔は木に張り付いて人間襲ってましたから」
彼は平然とそう言い、周囲の同僚たちは「小振田くんのギャグセンス最高!」と笑い飛ばした。誰も彼が元ゴブリンだとは思っていない。
ようやく天井から解放された透は、デスクに戻って企画書と格闘を始めた。時計は既に六時を回っている。
「よーし、みんな!今日は金曜日だ!飲みに行くぞー!」
間苧谷部長の声が響き渡る。
「えっ、でも部長、月曜のプレゼンが…」
「大丈夫、大丈夫。仕事は明日やればいい。今夜は飲むぞ!滅びよ人間ど…じゃなかった、乾杯だ!」
部長の熱意に、誰も逆らえない空気が漂う。元・魔王の威圧感は現代社会でも健在だった。
「透くん、行こう?」花子が誘う。
「でも資料が…」
「明日の土曜日に二人で仕上げよう。今は部長の機嫌を取っておいた方がいいよ」
渋々同意した透は、会社を出て近くの居酒屋へ向かった。
「かんぱーい!滅びよ人間どもーっ!」
間苧谷部長の掛け声で乾杯が始まる。周囲の同僚たちは「部長、いつものギャグ炸裂!」と笑うが、透と花子は顔を見合わせた。部長が本気で言っていることを知っているのは、異世界からの転生者だけだった。
「粘田くん、今日の天井パフォーマンスは秀逸だったぞ!」
部長が透の肩を強く叩く。
「すみません…緊張すると体が勝手に…」
「いいじゃないか!個性的で。営業マンは目立たなきゃ。俺なんて昔は城一つ丸ごと焼き尽くして目立ってたんだぞ!」
部長は大声で笑うが、透の背筋は凍った。これも周囲には冗談に聞こえているようだが、元・魔王の彼にとっては実体験だ。
「部長、月曜のプレゼン、本当に大丈夫でしょうか…」
「心配するな。勝てばいいんだろ?」部長の目が赤く光った。「負けたら全員溶かして文房具にするがな!」
透は震える手でビールを口に運んだ。
「冗談だよ、冗談。溶かすなんてできないし」
その言葉に安堵したのも束の間、部長は小声で付け加えた。
「現代では魔法が使えないからね…」
夜も更け、酔いも回ってきた頃、透はトイレに立った。鏡に映る自分の顔を見つめながら、深いため息をついた。
「スライムに戻りたいなんて思わないよな…俺」
自分に言い聞かせるように呟いた瞬間、鏡の中の自分がぬるりと形を変えた。青いスライム状の物体が鏡の中で揺れている。
「うわっ!」
驚いて後ずさると、背中が壁にぴたりとくっついた。再び張り付いてしまったのだ。
「ちくしょう…もう!」
壁から体を引き剥がそうと必死にもがいていると、トイレのドアが開いた。
「おや、粘田くん。また張り付いてるのか」
間苧谷部長だった。彼は笑いながら透の体を壁から引き剥がした。
「すみません…」
「気にするな。我々転生者は、過去の習性が抜けきらないものだ」
部長は急に真面目な顔になり、透の肩に手を置いた。
「粘田くん、君は今の生活に満足しているか?」
唐突な質問に、透は言葉に詰まった。
「え、まあ…そこそこ…」
「正直に言え。スライムに戻りたいと思ったことはないか?」
透は黙ってうつむいた。確かに、締め切りに追われ、上司に怒鳴られ、毎日満員電車に揺られる人間生活に、時折嫌気がさすことはあった。
「たまには…ありますよね」
「そうか」部長はしみじみと頷いた。「実は私も時々、城に戻って人間を焼き尽くしたくなる」
「それは犯罪です」
「わかっている。だから焼かない。それが人間として生きるということだ」
部長は急に哲学者のような口調になった。
「我々は選んだんだ。この世界で生きることを。たとえ前世の習性が残っていても、今は人間として生きる。それが転生者の宿命だ」
透は部長の言葉に、妙に感銘を受けた。
「部長…」
「さて、戻るか。そして月曜のプレゼンに勝つんだ!」
部長は再び明るい声で言い、透の背中を押した。
居酒屋に戻ると、花子が心配そうに待っていた。
「大丈夫?顔色悪いよ」
「ああ、ちょっと部長と深い話をしてきた」
「へえ、珍しいね」
花子はグラスを傾けながら言った。「でも明日は本気で資料作りだからね。私も全力で手伝うよ」
「ありがとう」
透は微笑んだ。この世界での友人や同僚との絆は、スライム時代には知り得なかった宝物だった。
夜も更け、解散の時間が近づいた。
「みんな聞け!」部長が突然立ち上がり、グラスを高く掲げた。「月曜のプレゼン、絶対に勝つぞ!滅びよライバル企業!」
「おー!」
全員が声を揃えて応じる。透も小さく「おー」と声を上げた。
明日は土曜日。花子と二人で企画書を完成させなければならない。締め切りは迫り、プレッシャーは増すばかり。でも、今はこの瞬間を楽しもう。
人間として生きるということは、時に苦しく、時に滑稽だ。だが、それもまたスライムには味わえなかった人生の味わいなのだろう。
透はそう思いながら、最後のビールを飲み干した。