廃倉庫の激突
薄暗い廃倉庫の中、私は天井に張り付いていた。スライムの特性を活かした緊急避難だ。下では巨大な機械犬が鼻を鳴らしながら私を探している。
「粘田さん、大丈夫ですか?」
壁の陰から花子さんの心配そうな声が聞こえる。彼女は鉄パイプを両手で握りしめ、緊張した面持ちでこちらを見上げていた。
「なんとか…」
私は天井から垂れ下がりそうになる自分の体を必死で支えながら返事をした。スライム時代の癖が出るのは便利なことも多いが、こんな時に体の一部が液状化するのは正直困る。
「透くん、もう少し我慢してね!」小振田さんが離れた場所から手を振る。「援軍を呼んだから!」
援軍?誰のことだろう。考える間もなく、機械犬が突然私の真下で立ち止まった。鋭い赤い目が天井を見上げている。
「見つかった…!」
次の瞬間、機械犬が後ろ足で立ち上がり、前足を天井に向かって伸ばした。鋭い金属の爪が私の方へ迫る。
反射的に体を横に滑らせると、爪が天井を引っ掻く音が響いた。粉塵が舞い上がる。
「粘田さん、右!右!」
花子さんの指示に従って右側へ移動すると、機械犬の次の攻撃がかすめていった。
「くそっ、あいつらどこまで本気なんだ…」
遠くから間苧谷部長の怒声が聞こえる。彼は入口付近で別の機械犬と対峙していた。さすが元魔王、素手で相手を押し返している。
「ブラックウルフ会の皆さん」部長が叫んだ。「我々は話し合いを望んでいるだけだ!」
「話し合い?冗談じゃない」
倉庫の奥から冷たい声が響いた。鴨井心火だ。彼女はブラックウルフ会の幹部で、私たちの会社の元同僚でもある。
「転生者たちよ、お前たちの存在自体がこの世界の秩序を乱している」鴨井が言う。「特にあのスライム…粘田透は許されない存在だ」
「なんで私が…?」
天井から不安げに問いかける私に、鴨井は冷笑を浮かべた。
「お前は境界を越えた者。人でもモンスターでもない曖昧な存在。そんな矛盾した存在が増えれば、この世界の理は崩れる」
「なんだそりゃ!」部長が怒鳴る。「粘田は立派な社会人だぞ!先月の営業成績だって…」
「黙れ魔王!」鴨井が手を振ると、部長に向かっていた機械犬が更に凶暴化した。
その隙に、花子さんが鉄パイプを振りかざして私の下の機械犬に飛びかかった。
「はぁぁぁっ!」
鉄パイプが機械犬の頭部を直撃する。派手な火花が散った。
「さすが元勇者…!」小振田さんが感嘆の声を上げる。
しかし機械犬はびくともせず、むしろ怒りを増したように花子さんに飛びかかった。
「きゃっ!」
花子さんが危うく身をかわす。
「花子さん!」
思わず私は天井から飛び降りた。落下しながら体をスライム状に変化させ、機械犬の上に降り注ぐ。
ドシャッ!
私の体が機械犬を覆い、その目や関節部分に入り込んでいく。
「おのれ、スライム!」鴨井が叫ぶ。「全員で囲め!」
次の瞬間、倉庫のあちこちから黒い制服を着た人々が現れ、私たちを取り囲み始めた。ブラックウルフ会の構成員だ。
「こりゃマズイ…」部長が唸る。「小振田、逃げ道は?」
「すみません、塞がれてます!」小振田さんが焦った声で答える。
私は必死で機械犬の内部で暴れていたが、予想以上に精巧な造りで、簡単には壊せない。
「粘田さん、危ない!」
花子さんの警告の声。見ると、機械犬が体を激しく振り回し、私の一部を振り落とそうとしている。
「うわっ!」
私の体の半分が宙に放り出された。残りの半分は必死で機械犬にしがみついている。
「もう諦めろ」鴨井が冷たく言う。「お前たち転生者の時代は終わりだ」
「それはどうかな」
突然、倉庫の天窓が砕け散り、一筋の青い光が差し込んだ。
「誰だ!?」鴨井が上を見上げる。
天窓から飛び込んできたのは、深いブルーのスーツを着た男性だった。
「鯖江…ディープブルー!」部長が驚きの声を上げる。
「遅れてすまない、間苧谷」鯖江と呼ばれた男が着地しながら言った。「交通渋滞でね」
「いやいや、そんな普通の理由で…」
会話の途中、鯖江は両手を広げ、何かを唱え始めた。
「潮の極み…」
彼の周囲に青い光の渦が現れる。
「来るぞ!」部長が叫んだ。
次の瞬間、倉庫内に激しい水流が巻き起こった。まるで小さな津波のように。
「なっ…!」
鴨井の驚きの声が水音にかき消される。水流は機械犬たちを直撃し、電気系統がショートしたのか、あちこちから火花が散った。
「やった!」小振田さんが喜びの声を上げる。
水流が引くと、機械犬たちは動かなくなっていた。私は半分液状化した体を元に戻しながら、床に落ちた。
「粘田さん!」花子さんが駆け寄ってくる。「大丈夫ですか?」
「はい…なんとか」
鯖江が私たちの方へ歩いてきた。近くで見ると、彼の瞳は異様に青く、まるで深海のようだった。
「君が噂のスライム転生者か」鯖江が私を見下ろす。「面白い存在だね」
「あの、あなたは…?」
「鯖江だ。元・海竜族。今は不動産会社を経営している」
「海竜族…」
異世界の存在だということは分かったが、詳しいことは知らない。
「おい鯖江、説明は後だ」部長が割って入る。「ブラックウルフの連中はどうした?」
「逃げたよ」鯖江が肩をすくめる。「鴨井も含めてね」
「くそっ、またか」
部長が悔しそうに唸る。
「でも、なぜ彼らは私を狙うんですか?」私は立ち上がりながら尋ねた。
鯖江と部長が顔を見合わせる。
「言うべきか?」鯖江が問いかける。
「もう隠す意味はないだろう」部長が深いため息をつく。「粘田、お前は単なるスライムの転生者ではない」
「え?」
「お前は…境界の王の転生体だ」
「境界の王?」
「異世界と人間界の境界を自在に操る存在」鯖江が補足する。「両世界を繋ぐ鍵となる存在だ」
「そんな…私が?」
信じられない話だった。底辺スライムだったはずの私が、そんな重要な存在だなんて。
「だからブラックウルフ会はお前を排除しようとしている」部長が続ける。「彼らは両世界の完全分離を望んでいる過激派だ」
「でも、なぜ今まで私に何も…」
「お前の力はまだ眠っている」鯖江が言う。「だが、先日の月の儀式で少しずつ目覚め始めている」
そう言えば、あの夜以来、私の体の変化が以前より自在になっている気がする。
「じゃあ、私は…」
話の途中、倉庫の壁に大きな穴が開いた。誰かが外から突き破ったのだ。
「また敵?」花子さんが警戒して構える。
穴から現れたのは、見覚えのある小柄な姿だった。
「小振田さん?」
「いえ、違います」小振田さんが私の隣で首を振る。「あれは…」
「兄貴!」穴から出てきた小振田そっくりの男が叫んだ。「やっと見つけたぜ!」
「弟!?」小振田さんが驚きの声を上げる。
「小振田にも弟がいたのか」部長が呟く。
「ゴブリン族の弟です」小振田さんが小声で説明する。「僕を追いかけて異世界から来たみたいで…」
状況はますます複雑になっていく。私は頭を抱えたくなった。
「とにかく、ここはもう安全じゃない」鯖江が言う。「我々の秘密の拠点に移動しよう」
「秘密の拠点?」
「ああ」部長が頷く。「転生者たちの隠れ家だ」
私は花子さんと小振田さんを見た。彼らも驚いた表情だが、同時に覚悟を決めたような顔をしている。
「行きましょう」花子さんが私の肩に手を置く。「私たち、もう後戻りできないですから」
そうだ。もう普通のサラリーマン生活には戻れない。私は境界の王の転生体。この事実を受け入れ、前に進むしかないのだ。
「はい、行きましょう」
私が答えると、部長は満足げに頷いた。
「よし、全員ついてこい」
私たちは廃倉庫を後にした。これからどんな運命が待ち受けているのか分からないが、少なくとも一人じゃない。それだけが心の支えだった。