漆黒の扉が開かれる瞬間
突然、オフィス全体が暗闇に包まれた。
「なんだこれ…」
床に張り付いていた私は、身体を剥がそうとして苦戦していた。暗闇の中、何かが蠢いている気配がする。
「粘田さん、動かないで!」
花子の声が闇の中から聞こえた。そして次の瞬間、彼女の手から眩しい光が放たれた。
「勇者の閃光!」
一筋の光が暗闇を切り裂き、オフィスの一部が照らし出された。その光の中に浮かび上がったのは、間苧谷部長の姿。彼の周りには漆黒のオーラが渦巻いていた。
「滅びよ、人間共!…じゃなかった、皆さん、今日の緊急ミーティングにようこそ」
部長の声は低く、響きが違う。昨日の研修の予行演習から一夜明け、私たちは約束通り同じ会議室に集められたのだ。
「今日は何をするんですか?」小振田が緊張した面持ちで尋ねた。彼はコンビニの制服のままだった。
「闇の先にある扉を開くのだ」部長は不敵に笑った。「我々異世界からの訪問者たちは、今日という日を長い間待っていたのだ」
その時、オフィスの壁の一部が歪み始めた。まるで何かが内側から押し出しているようだ。
「これは…」花子が目を見開いた。「次元の歪み!」
壁の歪みは徐々に大きくなり、やがて黒い扉の形を取り始めた。漆黒の扉。間苧谷部長が昨日言っていた「本当の試練」はこれなのか。
「皆さん、パニックにならないでください」
人事部の鳴神が前に出た。「この扉は異世界と現実世界の境界に現れる門です。今日、特別な儀式を行います」
「儀式?」私は不安げに尋ねた。
「そう、粘田さん。あなたがスライムだった記憶を完全に取り戻すための儀式です」
突然、床が揺れ始めた。天井からはホコリが落ちてくる。
「地震?」誰かが叫んだ。
「違う!」間苧谷部長が声を張り上げた。「扉が開こうとしている!」
漆黒の扉が少しずつ開き始め、隙間から異質な光が漏れ出した。その光は紫色で、見ているだけで目が痛くなる。
「これは予定より早い!」鳴神が焦った様子で叫んだ。「粘田さん、準備ができていません!」
その時、私の体が勝手に動き始めた。まるでスライム時代の本能が呼び覚まされたかのように、床に張り付いたまま、不自然なランニングタックルのような動きで扉に向かって滑り始めた。
「とおる!」小振田が私を追いかけようとしたが、間に合わない。
私の体は床を滑るように進み、そのまま漆黒の扉の隙間に突入した。
扉の向こう側は、想像を絶する光景だった。
空には三つの月が浮かび、地面は紫色の草で覆われている。遠くには水晶のような山々が連なり、空を飛ぶ巨大な生物の影が見える。
「本物の異世界…」
私の言葉に、後から続いてきた花子と小振田、そして間苧谷部長が驚愕の表情を浮かべた。
「ここは…」間苧谷部長の顔が青ざめた。「魔王の領域だ」
「でも、あなたが魔王じゃないんですか?」小振田が混乱した様子で尋ねた。
「私は元魔王だ。今の魔王は…」
部長の言葉が途切れた瞬間、遠くから轟音が響いてきた。振り返ると、巨大な影が私たちに向かって飛んでくるのが見えた。
「逃げろ!」部長が叫んだ。
しかし、逃げる間もなく、私たちの周りの空間が歪み始めた。まるで太陽の熱で空気が揺らめくように、景色全体が波打ち始めた。
「幻影だ!」花子が叫んだ。「これは本物の異世界ではなく、幻影です!」
その時、小振田が落ち着いた様子でポケットから何かを取り出した。
「コンビニ氷コーナー魔法、発動」
彼が取り出したのは、コンビニのアイスクリームケースから取ってきたような小さな霜の結晶だった。それを空中に投げると、結晶は光を放ち、周囲の温度が急激に下がり始めた。
揺らめいていた景色が凍りつき、ヒビが入り始める。そして次の瞬間、異世界の景色は氷の彫刻のように砕け散った。
私たちは再び会議室に戻っていた。しかし、漆黒の扉だけはまだそこにあった。
「何が起きたんだ?」私は混乱して尋ねた。
「幻影攻撃だな」間苧谷部長が唸るように言った。「誰かが私たちを罠にはめようとしている」
「でも、扉は本物です」鳴神が扉に近づきながら言った。「これは確かに異世界への入口。しかし、向こう側に何があるかは…」
その時、扉が再び動き始めた。今度は閉じようとしている。
「待って!」私は思わず叫んだ。「この扉、私に何か語りかけてくる…」
確かに、扉から漏れる黒いオーラが私に向かって触手のように伸びてきていた。それは私の体に吸い込まれ、体の中で何かが目覚めるような感覚が走った。
「スライムの記憶…」
私の言葉と同時に、扉は完全に閉じ、やがて壁に溶け込むように消えていった。
「粘田さん、大丈夫ですか?」花子が心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「ああ…でも何か変な感じがする」
確かに体の中で何かが変わった。指先がわずかに透明になり、ぷるぷると震えている。
「記憶の一部が戻ったようだな」間苧谷部長が腕を組んだ。「これは予想外だ。予定では来週から本格的な儀式を始めるつもりだったのに」
「部長、これはどういうことですか?」私は混乱したまま尋ねた。
「説明する時間はない」部長は時計を見た。「15時からの会議に遅れる。とりあえず今日はここまでだ」
そう言って部長は立ち去ろうとしたが、ドアノブに手をかけた瞬間、彼の手が赤く光った。
「くっ…」
部長は痛みに顔をゆがめた。
「部長?」
「大丈夫だ…ただの魔力の暴走だ。久しぶりに使ったからな」
部長は苦しそうに笑うと、会議室を出て行った。
残された私たち三人は、言葉もなく立ち尽くした。
「とおる、今日はうちのコンビニに来ない?」小振田が沈黙を破った。「新しいアイスが入荷したんだ。それに…話があるんだ」
「私も行きます」花子が真剣な表情で言った。「粘田さんを一人にするのは危険です」
「危険?」
「はい。扉が開いたということは、異世界の存在があなたを狙っている可能性があります」
花子の言葉に、背筋に冷たいものが走った。
「…分かった。行こう」
会議室を出る前に、私は壁を一度だけ振り返った。扉はもう見えなかったが、確かにそこにあった感覚は消えない。
そして何より、体の中で目覚めた何かが、私に囁きかけていた。
「故郷に帰れ…」
その声は、かつての自分、スライムだった頃の記憶からの呼びかけだった。