陰謀の序曲
地面に落ちた体育館は、まるで何事もなかったかのように静かに鎮座していた。結界が破られた衝撃で壁の一部が崩れ落ち、そこから救出された社員たちは、まだ恐怖の記憶を引きずっているようだった。
「よかった…みんな無事で」
私は安堵のため息をつきながら、スライム状態から戻った腕をさすった。体の一部が伸びるという感覚は、人間になってからも忘れられない違和感がある。
「粘田さん、本当にありがとう」
花子の表情には、勇者としての凛々しさが残っていた。彼女の目には、異世界での戦いを思い出させるような光が宿っている。
「いやいや、花子さんの『聖なる一撃』があったからこそです」
小振田が近づいてきて、私たちの肩をポンと叩いた。
「二人とも素晴らしかった!まるで異世界の冒険者みたいだったよ」
「冒険者…か」
私は苦笑いした。スライムだった頃の記憶が断片的によみがえる。あの頃は単純だった。敵か味方か、食べられるか食べられないか、ただそれだけを判断して生きていた。
体育館の隅で、出雷課長が立ち尽くしていた。彼の周りには奇妙な空気が漂っている。
「あの人、どうしたんだろう」
花子が小声でつぶやいた。
「行ってみましょう」
三人で出雷課長に近づくと、彼はゆっくりと振り返った。普段のクレーマー対応時の鋭い目つきはなく、どこか虚ろな表情をしている。
「粘田君…勇田さん…小振田君…」
出雷課長は私たちの名前を一人ずつ呼んだ。その声には、いつもの威圧感がない。
「課長、大丈夫ですか?」
私が尋ねると、出雷課長はふっと微笑んだ。それは今まで見たことのない、穏やかな笑顔だった。
「私は…大丈夫だ。むしろ、君たちこそ大丈夫かい?」
「はい、なんとか…」
「そうか…よかった」
出雷課長は空を見上げた。体育館の天井には、魔法陣が壊れた後の痕跡がかすかに残っている。
「あれは…部長の仕業だったんですか?」
花子が恐る恐る尋ねた。
出雷課長は首を横に振った。
「部長だけじゃない。もっと大きな力が働いている」
「大きな力?」
「この会社には、表向きには見えない闇がある。部長はその一部に過ぎない」
出雷課長の言葉に、私たちは息を呑んだ。
「課長も…その闇の一部なんですか?」
私の質問に、出雷課長は苦笑した。
「かつてはな。だが今は…」
彼は言葉を切り、私たちを見つめた。
「また会おう、粘田君。その時は、全てを話そう」
出雷課長はそう言うと、不思議な光に包まれ始めた。
「課長!」
私が声をかけたが、彼の姿は徐々に透明になっていく。最後に残ったのは、彼の穏やかな笑顔だけだった。
「出雷課長…消えた」
花子が呆然と言った。
小振田が床に落ちていた名刺を拾い上げた。出雷課長の名刺だが、裏面には見たことのない文字が書かれている。
「これは…異世界の言葉だ」
小振田が驚いた声で言った。
「何て書いてあるの?」
「『真実は闇の中に隠されている。光を求めるなら、影を追え』…こんな感じかな」
「影を追え…?」
私は首をかしげた。出雷課長の言葉と名刺の謎めいたメッセージ。何か大きな陰謀が渦巻いているようだ。
体育館から出ると、すでに夕暮れだった。社員たちは疲れた様子で三々五々帰路についている。明日からの出社を考えると気が重い。
「明日、部長はどんな顔で出てくるんだろう」
花子が不安そうに言った。
「さあ…でも、何事もなかったかのように振る舞うんじゃないかな」
私の予想に、小振田も頷いた。
「魔王だからね。こんなことで動揺したりしないよ」
三人で会社の前に立ち、沈む夕日を見つめた。
「粘田さん、今日のこと…調べてみない?」
花子の提案に、私は少し迷った。好奇心と恐怖が入り混じる。
「調べるって…どうやって?」
「会社の資料室とか…あと、部長の机の中とか」
「ちょっと、それは危険すぎるよ!」
小振田が慌てて制止した。
「でも、何か大きな陰謀があるなら、私たちも巻き込まれているんじゃ…」
花子の言葉に、私は考え込んだ。確かに、このまま何も知らずにいるのも危険かもしれない。
「わかった。少しずつ調べてみよう。でも、あまり目立たないように」
帰り道、私たちは作戦を練った。まずは会社の歴史を調べること。そして、部長の素性について情報を集めること。出雷課長の言っていた「闇」の正体を探ること。
家に着くと、疲労感が一気に押し寄せてきた。今日は早く寝て、明日に備えよう。ベッドに横になりながら、私は天井を見つめた。
スライムだった頃の記憶が、断片的によみがえる。あの時も、何か大きな力に翻弄されていた気がする。転生して人間になったのは偶然なのか、それとも誰かの計画なのか。
窓の外から月明かりが差し込み、部屋に淡い光を投げかけている。その光に照らされた壁に、私はふと違和感を覚えた。
壁に、人影のようなものが映っている。
「誰…?」
私が声をかけると、影はゆっくりと動き、窓の方へと移動していった。慌てて窓に駆け寄ると、そこには誰もいなかった。
しかし、窓ガラスには何かが書かれていた。結露でにじんだ文字。
『準備はいいか、ぷる男』
私の旧名を知る者は、この世界にはいないはずだ。
背筋に冷たいものが走った。明日からの日常は、もう二度と同じではないだろう。
スライムとして生きていた頃の本能が、私の中で目覚め始めていた。