浮遊の迷宮
研修二日目、体育館に入るなり「ちょっと用事で」と退散しようとした。スライム時代の特技を活かせば、壁にくっついて天井まで這い上がれるはずだ。そっと壁に背中を押し当てると、ゆっくりと体が壁に吸着していく。
「よし、いける…」
じわじわと上昇し始めたその時だった。
「粘田さん、何してるんですか?」
声に驚いて集中が切れ、ぺたりと床に落下。尻もちをついた姿を見て、勇田花子が小さく笑った。
「いやー、ちょっと壁の様子を…」
「壁の様子って…」花子は首を傾げた。「私も実は逃げ出そうと思ってたんです。昨日の研修、あれは絶対におかしいですよ」
「ですよね!やっぱり…」
会話の途中、花子が突然立ち止まった。彼女は体育館の入り口に向かって歩き出したが、見えない壁にぶつかったように前に進めない。
「あれ?」
彼女は手を前に伸ばし、空中を触る。まるで透明な壁があるかのように、手が一定の位置で止まっていた。
「結界…?」花子が呟いた。「これは勇者でも突破できない高位結界です」
「まさか、閉じ込められた?」
周囲を見回すと、同僚たちも続々と体育館に集まってきていた。みな昨日の不可解な出来事を話し合っている。
「昨日の部長、絶対魔王の姿だったよね」
「あの星空、マジで異世界だったわ」
「私だけかと思ってた!」
職場のあちこちで、普段は言わないような会話が交わされている。まるで全員が何かの呪縛から解放されたかのように。
そこへ遅れて小振田緑朗が駆け込んできた。彼の制服はコンビニのものだ。
「遅れてすみません!シフト交代がギリギリで…」
彼も入り口で立ち止まり、不思議そうに空間を探った。
「これは…ゴブリンの洞窟でよく使われる閉じ込め魔法と同じ構造です」
「小振田さん、あなたもわかるの?」花子が驚いた様子で聞いた。
「え?あ、いや…ゲームで見たことあるだけで…」彼は慌てて誤魔化した。
その時、体育館の中央に突如として人影が現れた。間苧谷部長だ。昨日と同じ黒と赤の異様な衣装を身にまとっている。
「諸君!本日の研修を始める!」
部長の声が響き渡った瞬間、体育館の空気が凍りついた。
「昨日は『恐怖』について学んだ。今日は『浮遊』だ!」
「浮遊?」思わず声に出してしまった。
部長がニヤリと笑い、手を上げた。すると、体育館の床から小さな机が浮き上がり始めた。続いて椅子、パソコン、書類…次々とオフィス用品が宙に浮かび始める。
「おいおい、マジかよ…」
「これってCGとか?」
「いや、完全にリアルだ…」
社員たちから驚きの声が上がる。
その時、体育館の扉が勢いよく開き、一人の男が怒鳴り込んできた。
「どこにいる!責任者はどこだ!」
スーツ姿の中年男性。明らかにクレーマーだ。
「こちらは社内研修中ですが…」受付の女性が制止しようとする。
「黙れ!お前らの会社の製品で大怪我したんだぞ!賠償しろ!」
男は体育館の中に入り込み、周囲を威圧するように歩き回る。しかし、宙に浮かぶオフィス用品群を見て、一瞬で言葉を失った。
「な…何だこれは…」
部長は男を一瞥すると、「邪魔だ」と呟いた。そして指をパチンと鳴らすと、クレーマーの男も宙に浮き始めた。
「うわぁぁっ!な、何だこれ!降ろせ!」
男は空中で足をバタつかせながら叫ぶ。しかし、どんどん天井に近づいていく。
「ちょっと、それは…」花子が制止しようとした瞬間、彼女の体も浮き始めた。
「きゃっ!」
続いて小振田も、そして私も。
「うわっ!」
体が軽くなり、床から離れていく感覚。スライム時代は浮遊できなかったので、この感覚は初めてだ。周囲を見渡すと、全社員が次々と宙に浮かんでいた。
「諸君!これが『浮遊』だ!重力から解放され、自由になる感覚を味わえ!」
部長の声が響く中、体育館内は完全にカオスと化していた。人々は空中でくるくると回転し、互いにぶつかり合い、悲鳴を上げている。
「粘田さん、手を!」
花子が手を伸ばしてきた。何とか彼女の手を掴み、二人で空中に留まる。
「どうすればいいんですか?」慌てて聞く。
「私にもわかりません…勇者の世界でもこんな魔法は…」
突然、空中に浮かんでいた壁の一部が私たちの方向に流れてきた。
「危ない!」
反射的に体を丸め、壁に向かって背中を押し付けた。すると、スライム時代の本能が目覚め、壁にぴったりと吸着した。
「できた!」
「粘田さん、すごい!」花子が驚いた顔で見つめてくる。「その能力、便利ですね」
「ありがとう…でも、これってヤバくないですか?部長、完全におかしいです」
体育館内は今や、人も物も壁も天井も、すべてが無秩序に浮遊する奇妙な空間と化していた。まるで重力の概念そのものが崩壊したかのようだ。
「滅びよ人間!いや、浮遊せよ人間!」
部長の狂気じみた笑い声が響く中、クレーマーの男は恐怖で青ざめていた。
「も、もう二度と文句言いません!降ろしてください!」
その叫びも虚しく、男は天井近くでぐるぐると回転し続けていた。
「粘田さん」壁にしがみついた私に、花子が真剣な表情で言った。「部長の正体、絶対に魔王ですよ。しかも、かなり強力な」
「そう思います。でも、なぜ会社で研修なんて…」
「わかりません。でも、これは明らかに人間界の常識を超えています」
その時、小振田が必死に泳ぐようにして私たちの方へ近づいてきた。
「粘田さん!勇田さん!これはマズイです!」
「どうしたの?」
「あの…」彼は周囲を警戒するように声を潜めた。「これは空間歪曲魔法です。このまま進むと、この体育館ごと異空間に飛ばされる可能性があります」
「え?」
「どうして小振田さんがそんなこと…」花子が疑問を投げかける。
「あ、いや…ゴ、ゴブリ…じゃなくて、ゲームの知識です!」彼は慌てて言い訳した。
体育館の天井が徐々に歪み始め、まるで渦を巻くように変形していく。部長は両手を天井に向かって広げ、何かの呪文を唱えているようだ。
「皆さん、このままだと本当にマズイことになります!」
私は壁から手を離し、部長に向かって泳ぎ始めた。
「粘田さん、危ないです!」花子が制止しようとする。
しかし、このままでは全員が危険だ。部長に何とか話しかけなければ。
「部長!やめてください!」
私の声に、部長はゆっくりと振り返った。その目は赤く光り、人間離れした鋭さを持っていた。
「粘田くん…お前もスライムだったな?」
その言葉に背筋が凍った。なぜ部長が私の正体を…?
「どうして…」
「私は全てを見通す。お前も、勇田も、小振田も…皆の正体がわかる」
部長の声は低く、響くような音色を帯びていた。
「でも、なぜこんなことを…」
「理由は明日知ることになる。今日はただ、準備段階だ」
そう言うと、部長は再び両手を天井に向け、声高らかに叫んだ。
「浮遊の迷宮、完成せよ!」
天井の渦が一気に広がり、体育館全体を包み込み始めた。視界が歪み、まるで万華鏡の中にいるような感覚に襲われる。
「粘田さん!」花子の声が遠のいていく。
意識が遠のく中、最後に見たのは部長の異様な笑みだった。
「明日は…『魂の契約』だ」
その言葉を最後に、私の意識は完全に闇に落ちていった。