再生の兆し
会議室の照明が突如として明るく輝き、社員たちの顔に安堵の表情が広がった。窓から差し込む自然光と蛍光灯の光が混ざり合い、さっきまでの異様な雰囲気が嘘のように消え去っていく。
「あー、なんだか疲れたな」
私は床から立ち上がり、ほこりを払いながら呟いた。スライム時代の「床這い」の姿勢から人間の立ち姿に戻るのは、いつもより少し恥ずかしい。
「粘田さん、大丈夫ですか?」
勇田花子が心配そうに私の肩に手を置いた。彼女の手からは、さっきまで放っていた眩い光の残り香のような温かさを感じる。
「ああ、大丈夫です。ちょっと転んだだけで…」
「床に張り付いてましたよね?」彼女は小声で耳打ちした。「スライムの習性、抜けないんですね」
思わず息を飲む。彼女は私の正体を知っているのか?
その時、会議室のドアが再び開き、全員の視線がそちらに集まった。
ブラッド社長が、先ほどとは打って変わって穏やかな笑顔で入ってきた。赤いスーツはきちんと整えられ、背後の闇のオーラも消えている。まるで別人のようだ。
「皆さん、素晴らしい対応でした」
社長の声は温かく、先ほどの不気味さは微塵も感じられない。
「あの…社長?」間苧谷部長が恐る恐る声をかけた。「先ほどは申し訳ありませんでした。古い配線が原因で…」
「いや、むしろ感謝しているんだ」ブラッド社長は手を振った。「こうした予期せぬ事態に、皆さんが見事な連携を見せてくれた。特に粘田くん、君の…柔軟な対応は見事だった」
社長が私に向けてウインクした気がした。
「え?あ、はい…ありがとうございます」
「今日の会議は中止にしよう。皆さん、通常業務に戻ってください」
社長はそう言うと、秘書たちを連れて再び出ていった。秘書たちは全員無表情で、まるで何事もなかったかのように社長の後ろに続いていく。
会議室に残された私たちは、しばらく言葉を失っていた。
「なんだったんだ、今の…」
小振田緑朗がニンニクの首飾りを首から外しながら呟いた。
「気のせいじゃない?」間苧谷部長が急に明るい声で言った。「ただの停電だよ!さ、仕事に戻ろう!滅びよ人…じゃなくて、頑張ろう人間!」
部長は慌てて会議室を出ていった。
私と花子と緑朗が残された会議室で、互いの顔を見合わせる。
「粘田さん」花子が真剣な表情で私に近づいてきた。「あなた、本当は何者なんですか?」
「え?普通の営業マンですけど…」
「本当に?」彼女の目が鋭く光る。「私、あなたが壁に張り付いているの、前にも見たことあるんです。トイレの個室で」
「それは違います!」思わず声が上ずる。「トイレットペーパーを取ろうとして滑っただけです!」
花子は少し考え込むような表情をしたが、すぐに笑顔に戻った。
「まあいいです。みんな秘密がありますからね」
そう言うと、彼女はハンドバッグから何かを取り出した。一瞬だけ見えたのは、複雑な図形が描かれた紙切れ。
「これ、刃須川さんが落としたんです。拾っておこうと思って」
「刃須川?あの経理部の?」
花子はうなずきながら、紙をバッグに戻した。
「変な図が描いてあって…なんだか召喚陣みたいでした」
「召喚陣?」
緑朗が突然割り込んできた。「召喚陣って、あれですか?魔法の世界の!」
「ただの落書きでしょ」花子は軽く笑った。「でも念のため、預かっておこうかなって」
彼女の表情には、何か企んでいるような影が見えた。元勇者の直感が働いているのかもしれない。
「とにかく、今日はもう十分変な日でした」私は話題を変えようとした。「仕事に戻りましょう」
オフィスに戻る途中、不思議な緊張感が漂っていた。社員たちは普段通り仕事をしているように見えるが、皆どこか上の空だ。特に経理部の刃須川キリヲは、異様に落ち着かない様子で机の引き出しを探している。
「何か探し物ですか?」
私が声をかけると、彼は驚いたように顔を上げた。
「あ、いや…大したものじゃないんだ」
彼の目は泳いでいた。その視線の先には、花子のハンドバッグがあった。
「粘田さん」
花子が私のデスクに近づいてきた。彼女は小声で言った。
「私、調べてみます。この紙、ただの落書きじゃないと思うんです」
「でも、それって…」
「大丈夫です」彼女は自信に満ちた笑顔を見せた。「私、こういうの得意なんです」
その瞬間、オフィスの照明が一瞬だけちらついた。みんなが一斉に顔を上げ、また停電かと身構えたが、すぐに元に戻った。
「粘田くん」
間苧谷部長の声が背後から聞こえた。振り返ると、部長は普段とは違う真剣な表情をしていた。
「今度の週末、ちょっと付き合ってほしい場所があるんだ」
「はい?」
「ブラッド社長も来る。君の…特殊な能力が必要なんだ」
部長の言葉に、背筋に冷たいものが走った。彼らは確実に私がスライムだったことを知っている。でも、なぜそれが必要なのか?
「わかりました」
私は頷いた。断る選択肢はなさそうだ。
「よし、詳細は後で連絡する」
部長は満足そうに頷き、自分のデスクに戻っていった。
その日の午後、仕事を終えて帰ろうとした時、小振田緑朗が私を呼び止めた。
「粘田さん、これ持ってってください」
彼はニンニクの首飾りを私に渡そうとした。
「いや、いらないよ…」
「いいんですって」彼は真剣な表情で言った。「粘田さん、危険な匂いがするんです。ゴブリン…じゃなくて、私の直感です」
彼の目には、普段の明るさとは違う何かがあった。私は渋々首飾りを受け取った。
「ありがとう」
「あと、これも」
彼はコンビニの袋を渡してきた。中には特製おにぎりが入っていた。
「ニンニク入りです。効きますよ」
「何に効くの?」
「悪いものから身を守るんです」
彼はそう言うと、にっこり笑って去っていった。
エレベーターで下りる時、鏡に映った自分の姿を見て愕然とした。顔色が悪く、目の下にクマができている。そして何より驚いたのは、鏡に映った私の姿が、ほんの一瞬だけ透明になったことだ。
「まさか…」
スライムの性質が戻ってきているのか?それとも、今日の騒動で疲れているだけなのか?
エレベーターを出ると、ロビーにブラッド社長が立っていた。彼は私を見ると、ゆっくりと頷いた。
「粘田くん、また会おう」
その言葉には、単なる挨拶以上の意味が込められているように感じた。
外に出ると、空は既に暗くなり始めていた。街灯の明かりが徐々に灯り始める中、私は首からニンニクの首飾りをぶら下げ、特製おにぎりを持って帰路についた。
振り返ると、会社のビルの最上階の窓から、何者かが私を見下ろしているような気がした。
これは始まりではなく、次の段階への移行なのかもしれない。