謎の兆し
廃墟と化した会議室の中央で、間苧谷部長は肩を落としていた。先ほどまでの騒動で床には書類が散乱し、椅子は倒れ、コピー機はまるで戦場の生き残りのように黙り込んでいる。
「みなさん…今日はもう帰ってください」
間苧谷の声は疲れ切っていた。魔王の記憶体から解放されたとはいえ、あの騒動は彼の心に深い傷を残したようだ。
社員たちはお互いに顔を見合わせると、静かに片付けを始めた。誰も命令したわけではないのに、皆が自然と動き出す。これこそが本来の職場の姿だったのかもしれない。
私はコピー機から排出された「理想的な働き方改革プラン」を手に取り、読み返していた。スライムだった頃の記憶が蘇る。あの頃は単純に生きるだけで精一杯だったが、今は複雑な人間関係や会社の仕組みに囲まれている。どちらが幸せだったのだろう。
「粘田さん」
花子の声に顔を上げると、彼女は不思議そうな表情で私を見ていた。
「さっき、床に溶け込んだでしょ?あれって…」
「あ、あれは…特技です!体が柔らかくて…」
言い訳をしながら、私は自分の体が再び床に張り付きそうになるのを必死で抑えた。スライム時代の習性は、まだ完全には消えていないようだ。
「へぇ〜、すごいですね!私もコピー機を操れるようになったみたいだし、なんだか不思議な会社ですよね」
花子は明るく笑った。彼女の前世が勇者だということを、彼女自身はどこまで自覚しているのだろう。
会議室の片隅では、小振田緑朗が黙々と書類を集めていた。元ゴブリンの彼は、人間界での生活にも驚くほど順応している。
「よっしゃ、片付け完了っす!」
小振田が明るく宣言すると、間苧谷がぼんやりとした表情で彼を見た。
「ありがとう、小振田君。君は…いつからこの会社にいたんだっけ?」
「えっ?去年の春からっすよ。部長が面接してくれたじゃないっすか」
「そうだったな…記憶が混乱していて…」
間苧谷は頭を抱えた。魔王の記憶と自分の記憶が入り混じっているのだろう。
片付けが終わり、社員たちが帰り支度を始めたとき、会議室の扉が開いた。
「お疲れ様です」
声の主は、総務部の融解科郎だった。彼は普段はほとんど目立たない存在だが、会社の裏側を全て知っているとウワサされている謎の人物だ。
「融解さん…」
間苧谷は彼を見ると、なぜか表情を引き締めた。
「今日の騒動、聞きましたよ。大変でしたね」
融解科郎は穏やかに微笑みながら、会議室を見回した。その目が一瞬、コピー機に留まる。
「なあに、日常茶飯事さ」
間苧谷は強がったが、顔には疲労の色が濃かった。
融解科郎は何も言わず、会議室の窓際に歩み寄った。夕日が彼の横顔を赤く染めている。
「不思議な会社ですよね、ここは」
彼の言葉に、会議室の空気が一瞬凍りついた。
「どういう意味だ?」間苧谷が尋ねる。
「いえ、なんとなく」
融解科郎は窓の外を見たまま答えた。そして、ポケットから小さなメモ用紙を取り出すと、何かを書き始めた。
「皆さん、お先に失礼します」
彼はメモを会議室のテーブルに置くと、誰にも目を合わせずに部屋を出て行った。
残された私たちは、互いに顔を見合わせた後、そのメモに目を向けた。
「これは…」
間苧谷が手に取ったメモには、奇妙な文字で何かが書かれていた。一見すると日本語のようでいて、どこか異質な雰囲気を漂わせている。
「読めますか?」と花子が尋ねた。
間苧谷は顔をしかめて首を振った。「なんだこれは…」
私はそのメモを覗き込み、息を呑んだ。その文字は、スライム時代に見た異世界の文字とどこか似ていた。そして、なぜか私にはその意味が理解できた。
『俺がこの会社の本当の姿を知ってしまった。近いうちに明らかにしよう』
「どうしました?粘田さん」
花子の声に我に返る。
「いえ、なんでもないです」
私は動揺を隠しながら答えた。融解科郎は何を知ったのだろう?そして、なぜ彼はスライムの言語で書いたのか?
「もう遅いし、今日はこれで解散しましょう」
間苧谷の提案に、全員が頷いた。しかし、誰もが何か言いようのない不安を抱えているようだった。
会社を出る時、空を見上げると、夕焼けの中に微かな亀裂のようなものが見えた気がした。あれは…異世界との境界線なのだろうか?
「粘田さん、一緒に帰りましょう」
振り返ると、花子が笑顔で手を振っていた。彼女の手には、先ほどまで聖なる武器と化していたホチキスが普通のオフィス用品に戻っている。
「はい」
私は彼女に駆け寄った。人間の体に転生して良かったことの一つは、こうして誰かと一緒に帰れることかもしれない。
帰り道、私は考えていた。この会社には、まだ知らない謎がたくさんある。融解科郎の言う「会社の本当の姿」とは何なのか。そして、なぜ異世界の住人たちがこの会社に集まっているのか。
夜空に浮かぶ月を見上げながら、私はふと思った。
もしかしたら、この転生には何か特別な意味があるのかもしれない。
そのとき、ポケットの中で、融解科郎のメモが微かに光ったような気がした。