消えた先輩と怪しき影
残業は死ぬほど嫌いだが、今日に限っては仕方ない。四半期の営業報告書の提出期限が明日に迫っていた。オフィスの蛍光灯だけが頼りの暗がりの中、私はキーボードを叩き続けていた。
「粘田さん、まだいたんですね」
振り返ると、勇田花子が手に缶コーヒーを二つ持って立っていた。
「花子さんこそ。もう9時過ぎてますよ」
「はい、どうぞ。お疲れ様です」
彼女が差し出したコーヒーを受け取ると、指先が一瞬透明になった。最近、緊張したり驚いたりすると、体の一部がスライム化する頻度が増えている。
「あ、また出てる」花子が小声で言った。
「すみません」私は慌てて指を元に戻した。「特訓の成果が出すぎちゃって」
花子は苦笑いしながら隣のデスクに座った。「私も剣を振る練習してたら、マウスが真っ二つになっちゃって…」
「それ、経費で落とせますかね」
二人で笑っていると、オフィスの空気が突然変わった。冷たい風が吹き抜けたような感覚。花子も同時に体を強張らせた。
「なんか…変」
言葉にするなり、廊下から物音が聞こえた。重い足音と、何かを引きずるような音。私たちは無言で顔を見合わせ、音の方向へ向かった。
廊下の照明は間引きされ、薄暗い。奥の非常口付近に人影が見える。
「誰…ですか?」
花子が声をかけると、影は一瞬動きを止めた。そして振り向きもせずに非常口から消えていった。
「ちょっと待ってください!」
私たちが駆け寄ると、床に何かが落ちていた。営業部の佐伯さんの社員証だ。
「佐伯さんの…」
花子が拾い上げると、裏面に何かが書かれていた。「月に還れ」
「これは…」
その時、非常階段から小振田の悲鳴が聞こえた。
「小振田さん!」
駆け下りると、壁に背を押し付けて震える小振田がいた。
「あ、粘田さん…花子さん…」彼の顔は青ざめていた。「佐伯さんが…黒い影に…」
「落ち着いて、何があったの?」
小振田は深呼吸して話し始めた。「コンビニから戻る途中、佐伯さんが会社から出てくるのを見たんです。でも様子がおかしくて…」
彼の話によると、佐伯さんの周りには黒いローブを着た5〜6人の人影がいて、彼を取り囲むように歩いていたという。不審に思って声をかけようとしたところ、一人が振り返り、フードの下から人間とは思えない目が光ったという。
「それで僕、怖くなって会社に逃げ込んだんです。でも追いかけられて…」
「で、佐伯さんは?」
「わかりません。連れて行かれたみたいで…」
私たちは急いでオフィスに戻り、間苧谷部長に連絡した。
「何だと?佐伯が消えた?」
スピーカーから部長の声が響く。
「はい、黒いローブの集団に連れ去られたみたいです」
「くそっ…予想より早い」
「部長、ご存じなんですか?」
「ああ…闇井のヤツらの仕業だ。月蝕に向けて転生者を集めている」
「でも佐伯さんも転生者だったんですか?」
「おそらくな。気づいていなかっただけだろう」
部長の言葉に、私たちは顔を見合わせた。身近にいた同僚が実は異世界からの転生者だったなんて。
「すぐに警察に連絡します」
「待て」部長の声が鋭くなった。「警察は無駄だ。奴らには通常の手段は通用しない」
「じゃあどうすれば…」
「俺がすぐに戻る。それまで誰にも連絡するな。特に闇井関連の人間には」
通話が切れた後、オフィスには重苦しい沈黙が流れた。
「他にも…消えた人いるかも」花子がつぶやいた。
私たちは急いで社内を見回った。この時間、残業している社員は数人のはずだ。しかし、営業部のフロアは既に無人。経理部にも誰もいなかった。
「おかしい…さっきまで経理の山下さんがいたはずなのに」
私の言葉に、小振田が震える声で答えた。「みんな連れ去られたんじゃ…」
突然、エレベーターの到着音が鳴り、私たちは息を飲んだ。扉が開くと、そこには間苧谷部長が立っていた。
「部長!」
安堵したのも束の間、部長の表情が普段と違うことに気づいた。いつもの鋭い眼光ではなく、どこか虚ろな目をしている。
「粘田…花子…小振田…」
部長はゆっくりと歩み寄ってきた。「お前たちも…来るんだ…」
「部長?」
彼の手が伸び、私の肩を掴んだ。その瞬間、私の体が反応した。肩がスライム化し、部長の手が沈み込む。
「うっ!」
部長が手を引っ込めた瞬間、その目の色が変わった。「粘田!何をしている!」
いつもの部長の声だ。
「部長、今のは…」
「すまん…一瞬、意識が…」部長は頭を振った。「奴らの術にかかりかけたようだ」
「術?」
「ああ、月の呪術だ。転生者の意識を操る」
部長はポケットから何かを取り出した。小さな石のような物体だ。
「これを持っていろ。月の力を遮断する」
私たちは一人一つ受け取った。冷たく、重い石。
「で、どうするんですか?」花子が尋ねた。
「佐伯を追う。だが…」部長は窓の外を見た。「月が出ている今は危険すぎる」
「でも放っておけないですよ!」
「わかっている」部長は深く息を吸った。「だが無謀な行動は避けろ。お前たちはまだ力を完全に取り戻していない」
その時、私のスマホが鳴った。画面には「不明」の表示。恐る恐る出ると、佐伯さんの声が聞こえた。
「粘…田さん…助け…」
「佐伯さん!どこにいるんですか?」
「新宿…中央…」
通話は突然切れた。
「新宿中央公園か」部長が眉をひそめた。「闇井のヤツ、予定を早めたな」
「行きましょう!」
「待て」部長が私たちを制した。「これは罠かもしれない」
「でも佐伯さんが危険です!」
部長は苦悩の表情を浮かべた。「わかった。だが俺の指示に従え」
私たちは頷いた。部長はデスクの引き出しから何かを取り出した。それは古びた短剣だった。
「花子、これを持て。勇者の剣の代わりにはならんが、力の一部を呼び覚ますだろう」
花子が剣を受け取ると、一瞬、彼女の周りに金色の光が走った。
「小振田、お前はこれだ」
部長が渡したのは小さな角のような物体。小振田がそれを手に取ると、彼の額に同じ形の突起が現れた。
「ゴブリンの角…」小振田は感動したように呟いた。
「粘田、お前には…」
部長は私を見て、少し考え込んだ。「お前の力は既に目覚めつつある。必要な時、自然と出るだろう」
「はい…」
不安はあったが、確かに最近はスライム化が自分の意志で少しずつコントロールできるようになっていた。
「よし、行くぞ」
部長がリーダーシップを取り、私たちは会社を出た。夜の新宿へと向かう車の中、窓から見える月が不気味に大きく感じられた。
「月に還れ…」私は佐伯さんの社員証に書かれた言葉を思い出した。「これはどういう意味なんでしょう?」
部長は運転しながら答えた。「転生者に本来の姿を思い出させる呪文だ。闇井のヤツら、月蝕を待たずに強引に力を引き出そうとしている」
「危険なんですか?」
「ああ、最悪の場合、魂が壊れる」
その言葉に、車内が静まり返った。佐伯さんだけでなく、他の同僚たちも危険な状態にあるかもしれない。
新宿中央公園に近づくにつれ、空気が重くなっていくのを感じた。そして、遠くから奇妙な光が見えてきた。
「あれは…」
公園の中央に、黒いローブの集団が円陣を組み、その中心に私たちの同僚たちが横たわっていた。
「間に合ったようだな」部長が車を止めた。「聞け、無理はするな。まずは状況確認だ」
私たちは頷き、静かに公園へと足を踏み入れた。月明かりの下、これから始まる戦いに向けて、それぞれの心の準備をしていた。




