魔界昇進の夜
新橋の高層ビル、十八階。窓から見える夜景は美しいのに、どこか不穏な空気が漂っていた。
透は壁に身体を寄せ、ほとんど呼吸を止めて立っていた。スライム時代の習性が出るとき、こうして物陰に溶け込むのは得意だった。
「来た…」
闇の会議室へと続く廊下に、黒ずくめの人影が次々と現れる。一見すると普通のスーツ姿だが、歩き方がどこか不自然で、時折赤い光が目に宿る。
「魔界の下級悪魔だ…」
天丼丸の言葉が脳裏に浮かぶ。昨日の偵察で見た光景が、今夜本格的に展開しようとしていた。
透は身を屈め、会議室のドアの隙間から中を覗き込んだ。
会議室内は昨日と打って変わり、赤黒い光に満ちていた。床の魔法陣はより鮮明になり、中央には間苧谷部長が立っている。彼の周りには十数人の「社員」が円を描くように並んでいた。
「諸君、我々が待ち望んだ時が来た」
間苧谷の声は、普段の上司の声とは明らかに違っていた。低く、響くような声色で、聞いているだけで背筋が凍りつく。
「今宵、満月の力を借りて『魔王昇進プログラム』を発動する。これにより、我々は人間界での地位を確固たるものとし、やがては世界征服への第一歩とする!」
集まった「社員」たちから、異様な歓声が上がった。
透は小さく息を呑む。花子に連絡を入れるべきか迷ったが、携帯を取り出す余裕はなかった。
「まずは、この会社の不要な人間どもを魔界へ強制転移させる」
間苧谷が手を翳すと、テーブルの上に置かれた書類が浮かび上がった。それは透にも見覚えがある書類だった。
「先月の営業成績表…」
最下位の名前から順に、赤い光が灯っていく。その中に自分の名前も見えた。
「粘田透…成績不振につき、魔界行き決定」
間苧谷の言葉に、透の全身から冷や汗が噴き出した。
「魔界送りって、そんな…」
かつてスライムだった自分は、魔界の最底辺で辛酸をなめてきた。人間になって漸く普通の生活を手に入れたのに、また魔界に戻されるなんて。
「儀式を始める!」
間苧谷が両手を広げると、会議室の床から赤黒い霧が立ち上り始めた。魔法陣の線が炎のように燃え上がる。
透は恐怖で足がすくみ、動けなくなった。そのとき—
「待ってください!」
勇ましい声とともに、会議室のドアが勢いよく開いた。
「勇田…花子?」
透が驚きの声を上げる。花子は普段のOL姿ではなく、軽装の鎧に身を包み、腰には短剣を下げていた。
「間苧谷部長!あなたの魔王としての野望は、ここで終わりです!」
花子は右手を掲げると、そこに小さな光の球が現れた。
「な、何だと?お前は…勇者か!」
間苧谷の顔が驚愕に歪む。
「そうよ。私は異世界『エクセリア』の勇者、勇田花子!」
花子が一歩踏み出すと、魔法陣の光が少し弱まった。
「くっ…まさか勇者までこの会社にいるとは」
間苧谷は歯ぎしりしながら、周囲の部下たちに指示を出す。
「彼女を止めろ!儀式を続行する!」
黒服の社員たちが一斉に花子に向かって動き出した。花子は短剣を構え、身構える。
「花子さん!」
透は思わず声を上げた。一人で十数人と戦うのは無理だ。
その時、思いがけない援軍が現れた。
「てんぷら天国、出陣!」
会議室の窓が開き、天丼丸が華麗に飛び込んできた。彼の手には奇妙な筒状の武器がある。
「天丼丸!」
「粘田くん、援軍を連れてきたよ!」
天丼丸の後ろから、コンビニのユニフォームを着た小柄な男性が飛び込んできた。
「小振田緑朗!」
透は目を見開いた。コンビニ店員の正体は、元ゴブリンの小振田だった。
「おっす!久しぶりだな、ぷる男!」
小振田はニヤリと笑うと、ポケットから何かを取り出した。それは小さな緑色の石だった。
「魔界の力を封印する翡翠だ!」
小振田が石を床に投げつけると、魔法陣の一部が消えた。
「な、何をする!」
間苧谷が怒鳴る。
「天丼丸、今だ!」
花子の合図で、天丼丸は手の武器を構えた。
「聖なるインク弾、発射!」
武器から白い液体が噴射され、魔法陣に降り注ぐ。魔法陣の線が溶け始めた。
「バカな…あれは聖なるインクランチャー!」
間苧谷が驚愕の声を上げる。
「そう、てんぷら天国の秘宝よ!」
花子が得意げに言った。
混乱の中、透はドアの陰から会議室に忍び込み、壁に沿って移動した。スライムの習性を活かし、ほとんど気配を消して進む。
間苧谷は怒りに震えながら、儀式の続行を試みていた。
「滅びよ人間ども!この儀式は止められん!」
彼の手から黒い炎が立ち上る。その炎は透の方向へと向かってきた。
「粘田くん、危ない!」
天丼丸の警告に、透は反射的に床に伏せた。が、その瞬間—
「あっ」
透の体が床に張り付いてしまった。スライム時代の粘着性が出てしまったのだ。
「動けない!」
透が床からはがれようともがいていると、間苧谷の黒い炎が透の上を通り過ぎ、壁に命中した。壁に大きな穴が開く。
「ちっ、外したか」
間苧谷が舌打ちする間に、花子が短剣を手に間苧谷に迫っていた。
「間苧谷部長、降参なさい!」
「降参だと?笑わせるな、勇者風情が!」
間苧谷は黒い霧に包まれ始めた。その姿が徐々に変わっていく。背が伸び、角が生え、肌は赤黒く変色していった。
「これが魔王の真の姿…!」
花子が息を呑む。
変身した間苧谷は、もはや人間の姿ではなかった。二メートルを超える巨体に、鋭い角と牙、そして背中には黒い翼が生えている。
「我が名はサタン・マオダ!魔界第七層の支配者なり!」
その声は会議室全体に響き渡った。
「さあ、人間どもよ、我が前にひれ伏すがいい!」
間苧谷…いや、サタン・マオダの姿に、在りし日の恐怖が蘇る。透はかつてスライムだった頃、この存在を遠くから恐れていた。
「ひれ伏すのはあなたの方よ!」
花子が短剣を構え、サタン・マオダに向かって突進した。
「天丼丸、小振田さん!援護を!」
花子の掛け声に、二人が応じる。
「了解!」
天丼丸はインクランチャーを再び構え、小振田は別の魔法石を取り出した。
透は必死に床から体をはがそうとしていた。
「僕だって…何かしなきゃ…」
ようやく体が床から離れたとき、透は決意した。
「僕だって…戦える!」
透は立ち上がると、スライム時代の本能を呼び覚ました。体が少し透明になり、粘度が増す感覚。
「これが…僕の力」
透は自分の手が半透明の粘液状になるのを見た。
サタン・マオダと花子たちの戦いは激しさを増していた。魔法と剣が交錯し、会議室は魔力の嵐に包まれている。
「粘田くん!成績表を奪って!」
天丼丸の声に、透は我に返った。テーブルの上に浮かぶ成績表が、儀式の鍵だったのだ。
透は粘液化した腕を伸ばし、テーブルに向かって飛びついた。
「させるか!」
サタン・マオダが炎の玉を放つ。透は咄嗟にスライムの柔軟性を活かして身をくねらせ、炎をかわした。
「取った!」
透は成績表を掴み取った。その瞬間、魔法陣の光が弱まり始めた。
「バカな…儀式が!」
サタン・マオダの叫びに、花子が短剣を振りかぶる。
「部長、残業代請求します!」
花子の短剣がサタン・マオダの胸に突き刺さった。しかし、それは致命傷ではなく、彼の魔力を封じる効果があった。
「ぐああっ!力が…抜ける…」
サタン・マオダの姿が徐々に人間の姿に戻っていく。
「やったわ!」
花子が勝利の笑みを浮かべた。
魔法陣は完全に消え、会議室の異様な雰囲気も薄れていった。黒服の社員たちも、混乱したように立ち尽くしている。
「間苧谷部長、あなたの計画は失敗しました」
花子が宣言した。
間苧谷は膝をつき、苦しそうに息をしていた。
「くっ…今回は負けたか…」
「もう諦めなさい。この会社は魔界の支配下には置かせないわ」
花子の言葉に、間苧谷は悔しそうな表情を浮かべた。
透は成績表を握りしめたまま、安堵のため息をついた。
「危なかった…」
天丼丸と小振田が透の元に駆け寄ってきた。
「やったね、粘田くん!」
「さすがぷる男!スライムの本能、健在だな!」
三人が喜び合っていると、間苧谷がゆっくりと立ち上がった。
「…諦めたとは言っていない」
その声に、全員が振り向く。
「今回の儀式は失敗した。だが、我が野望は終わらん」
間苧谷の目に、再び赤い光が宿る。
「次回こそは、必ず成功させる。覚えておけ、人間どもよ」
そう言うと、間苧谷は黒い霧に包まれ、姿を消した。
会議室に残されたのは、透たちと混乱する黒服の社員たちだけだった。
「逃げたわ…」
花子が短剣を下ろした。
「でも、今回の計画は阻止できたわね」
天丼丸はインクランチャーを肩に担ぎ、満足げな表情を浮かべた。
「うん、当面の危機は去ったよ」
小振田は緑の石を再びポケットにしまいながら言った。
「でも間苧谷部長…いや、サタン・マオダはまた戻ってくるだろうな」
透は成績表を見つめながら、静かに言った。
「僕たち、これからどうすればいいんだろう」
花子が透の肩に手を置いた。
「一緒に戦いましょう。あなたもスライムの力を取り戻しつつあるわ」
天丼丸と小振田も頷いた。
「てんぷら天国の力も、君たちに貸そう」
「俺もコンビニの仕事の合間に協力するぜ」
透は三人の顔を見回し、微笑んだ。
「ありがとう…みんな」
会議室の窓から、満月の光が差し込んでいた。魔界との戦いは始まったばかり。だが、透はもう一人ではない。
「よし、帰ろう。明日も仕事だし」
花子の言葉に、全員が笑った。
異世界からの転生者たちが集まるこの不思議な会社で、透の新たな冒険は続いていく。