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深夜の呼び出し

会社のパソコンから「緊急」の件名つきメールが届いた瞬間、職場全体の空気が凍りついた。


「全社員各位」


差出人は間苧谷部長。時刻は午後10時23分。


「本日深夜まで全社員残業。退社は許可しない。理由は問うな。以上」


メールを読んだ瞬間、透の背筋に冷たいものが走った。スライムだった頃の記憶が蘇る。魔物に追われる恐怖と似ている。


「ねえ、これって…」


隣の席の花子が青ざめた顔で話しかけてきた。


「間苧谷部長、また始まったんじゃ…」


言葉を最後まで言い切れないほど、彼女の手は震えていた。元勇者の彼女が恐れるほどの事態。透は不安を抱えながらも、自分の仕事を続けた。


「粘田!」


突然、背後から怒声が飛んできた。振り返ると、間苧谷部長が立っていた。その目は異様に赤く光っている気がした。


「はい、部長…」


「コピー機の前に立て。今から渡す書類を100部ずつコピーしろ」


そう言うと、間苧谷は厚さ10センチほどの書類の山を透の机に叩きつけた。


「これ全部ですか?」


「当然だ。午前3時までに終わらせろ」


間苧谷は不敵な笑みを浮かべると、次のターゲットを求めて歩き去った。


透はため息をつきながら書類の山を抱え、コピー機コーナーへと向かった。すでに何人かの社員が機械の前で青ざめた顔をしていた。


「粘田さんも来たの?」


経理部の山下さんが疲れた声で話しかけてきた。


「間苧谷部長、今日はどうかしてますよ。『滅びよ人間どもの労働基準法』って独り言言ってました」


透は黙って頷いた。コピー機の前に立ち、最初の書類をセットする。スタートボタンを押すと、機械が唸りを上げて動き始めた。


「あの…粘田さん?」


山下さんが不思議そうな顔で透を見ていた。


「なにか?」


「あなた、コピー機に…くっついてません?」


透は自分の左手を見た。確かに手のひらがコピー機のパネルに完全に密着している。スライム時代の粘着性が出てしまったのだ。


「あ、これは…」


慌てて手を引き離そうとするが、なかなか離れない。むしろ引っ張れば引っ張るほど、手が伸びていく。


「ちょっと、手が…」


「大丈夫ですか?」


山下さんが心配そうに近づいてきた瞬間、コピー機が異音を立て始めた。紙詰まりのアラームが鳴り、液晶画面にエラーコードが表示される。


「やばい…壊した…」


透が焦っていると、別のフロアから悲鳴が聞こえてきた。


「誰か助けてーっ!」


声の主は花子だった。透は何とか手を引き剥がすと、声のする方へ駆け出した。


フロアの奥、花子はパソコンの前で困り果てた表情を浮かべていた。モニターには意味不明な文字列が無限に流れている。


「透くん!パソコンが変なの!間苧谷部長用の資料作ってたら、突然…」


花子の手元を見ると、キーボードから青白い光が漏れていた。


「これ、異世界の魔法文字じゃない?」透は驚いて言った。


「そうなの!でも私、魔法なんて使ってないのに…」


花子がパニックになりかけたその時、エレベーターのドアが開き、間苧谷部長が姿を現した。


「勇田!資料はできたか?」


間苧谷の声は通常より低く、どこか反響しているように聞こえた。花子は震える手でマウスを操作しながら答えた。


「あ、あと少しで…」


「時間がない!」


間苧谷が近づくにつれ、部屋の温度が下がっていくのを透は感じた。窓ガラスが結露し始め、蛍光灯がちらつく。


「部長、一体何が起きているんですか?」透は勇気を振り絞って質問した。


間苧谷は透をじっと見つめ、不気味な笑みを浮かべた。


「粘田…お前はわかっているはずだ。この世界と異世界の境界が薄れている」


「え?」


「今夜、特別な満月の夜に、我々は真の姿を取り戻す…」


間苧谷の背後に、一瞬だけ巨大な影が浮かび上がったように見えた。翼のような形をした影。


「部長…あなた本当に…」


言葉を続けられないまま、突然社内の電気が全て消えた。非常灯だけが赤く空間を照らす中、間苧谷の姿が闇に溶けていった。


「みんな、自分の持ち場に戻れ!指示があるまで動くな!」


間苧谷の声だけが残り、その後は静寂が訪れた。


「どうしよう…」花子が小声で言った。


透は窓の外を見た。満月が異様に大きく、赤みがかって見える。


「花子さん、あの部長…本当に魔王なんだと思います」


「うん…私も勇者だった頃の感覚が戻ってきた。あれは間違いなく魔力の波動」


二人が話している間にも、オフィス内の空気がどんどん変わっていくのを感じた。壁や床がわずかに歪み、現実と異世界の境界が溶け始めているかのようだ。


「透くん、あなたも何か…力、戻ってきてない?」


透は自分の手を見つめた。確かに、スライムだった頃の感覚が少しずつ蘇ってきている。指先から青い粘液がにじみ出ていた。


「僕も…なんか変です」


その時、オフィスの奥から物音がした。誰かが近づいてくる足音。


「誰…?」


闇の中から現れたのは、コンビニ店員の制服を着た緑朗だった。


「よう、大変そうだな」


「緑朗さん!どうしてここに?」


緑朗はおにぎりを片手に持ちながら答えた。


「コンビニの裏口から異世界へのポータルが開いててさ。なんか変だなと思ったら、ここに出たんだ」


「ポータルが開いてる…?」


三人が顔を見合わせたその時、間苧谷の声が社内放送から響き渡った。


「全社員に告ぐ。今夜、我が社は新たなステージへと進化する。君たちの真の姿を取り戻す時が来た。会議室に集合せよ!」


放送が終わると同時に、オフィス内の空気がさらに歪み始めた。壁から青白い光が漏れ、床が揺れる。


「行くしかないみたいだね」緑朗は淡々と言った。


透は花子と目を合わせ、小さく頷いた。三人は暗闇の中、会議室へと向かい始めた。


「透くん…私たち、本当に元の世界に戻れるのかな」


花子の不安げな声に、透は答えられなかった。スライムとして生きた記憶と、人間として生きる現在。二つの世界の狭間で、彼は何を選ぶべきなのか。


会議室のドアが見えてきた。そこからは強い光が漏れ、不思議な唱和のような音が聞こえる。


「さあ、行こう」


透は深呼吸すると、ドアに手をかけた。新たな異世界の冒険が、今まさに始まろうとしていた。

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