契約の波乱
部長のデスクの上にはまだ、闇井義宗が置いていった高級万年筆が置かれていた。オフィスの蛍光灯に照らされて、その金色の装飾が妙に不気味に輝いている。
「この万年筆、どうも気になるんですよね」
私は部長の許可も得ずに手に取った。重厚な質感、そして触れた瞬間に指先がぴりっと痺れる感覚。
「おい粘田!勝手に触るな!」
間苧谷部長が怒鳴るが、いつもの迫力がない。彼もまた、この万年筆に何か感じているようだった。
「すみません…でも、なんか変なんです。スライムだった頃の感覚が…」
言葉を探していると、突然、万年筆からインクが溢れ出した。しかし、それは普通のインクではなく、まるで生きているかのように蠢く黒い液体。
「うわっ!」
驚いて万年筆を落としそうになったが、瞬間的に私の指が伸びて、万年筆を包み込んだ。いや、正確には指ではない。透明な粘液状の触手だ。
「粘田さん!また出てる!」
勇田花子が指差す先で、私の手は半透明のスライム状になっていた。前回の緊急時と違い、今回は意識せずとも出現している。
「これは…」
間苧谷部長が眉をひそめる。「闇井のヤツ、わざとこれを置いていったのか」
万年筆からは黒いインクが溢れ続け、私のスライム化した手に吸収されていく。不思議なことに、痛みはない。むしろ、体の中に力が満ちていくような感覚。
「粘田さん、大丈夫ですか?」小振田が心配そうに近づいてきた。
「うん、平気…というか、なんだか元気になる感じ」
私の言葉に、部長が急に立ち上がった。
「それは魔力だ!闇井のヤツ、月蝕に向けて我々の力を引き出そうとしている」
「どういうことですか?」花子が首を傾げる。
部長は窓際に歩み寄り、夜景を見つめながら説明を始めた。
「大いなる月蝕…あれは単なる天体ショーじゃない。異世界とこの世界の境界が最も薄くなる時だ」
「まさか…」
小振田が息を呑む。
「そう、転生者たちの力が最大限に発揮される時でもある」部長は振り返り、私たちを見た。「闇井グループは、その力を利用して何かを企んでいる」
スライム化した私の手は、すでに万年筆のインクをすべて吸収し終えていた。そして不思議なことに、手は元の人間の姿に戻りつつあった。
「でも、なぜ彼らは契約を白紙に戻したんですか?」
花子の質問に、部長は頭を振った。
「おそらく、あの契約は偽装だ。本当の目的は別にある」
その時、オフィスのドアが突然開いた。
「お疲れ様です〜」
明るい声と共に現れたのは、経理部の佐々木さん。彼女は手にいくつかの書類を持っていた。
「あ、まだみなさんいらしたんですね。これ、明日の朝会用の資料です」
佐々木さんは書類をテーブルに置くと、ふと私の方を見て目を丸くした。
「粘田さん、なんか…光ってません?」
「え?」
私は慌てて自分の体を見下ろした。確かに、かすかに青白い光が体から発されている。
「あ、いえ、これは新しいボディクリームの効果です!夜光タイプで…」
「へぇ〜、男性用もあるんですね」
佐々木さんは特に疑問を持たずに頷き、「では失礼します」と言って部屋を出ていった。
「危なかった…」
全員がため息をついた瞬間、部長のスマホが鳴った。画面には「闇井義宗」の名前。
部長は一瞬躊躇ったが、通話ボタンを押した。スピーカーモードにして、私たちにも聞こえるようにしている。
「間苧谷です」
「万年筆、受け取りましたか?」闇井の声が響く。「あれは特別なもので、元々の力を引き出す触媒になります」
「何が目的だ?」部長の声は低く、威圧感がある。
「目的?」闇井は笑った。「私たちは皆、この世界の異邦人。本来の姿を取り戻すだけです」
「本来の姿…」
「そう、間苧谷さん。あなたも魔王に戻りたいでしょう?この窮屈な人間社会から解放されて」
部長の表情が一瞬崩れた。確かに、彼は時々「滅びよ人間!」と叫ぶほど、人間社会に不満を持っているようだった。
「10日後の月蝕、新宿中央公園に集まってください。すべての転生者たちと共に」
通話は一方的に切れた。部屋に重い沈黙が流れる。
「部長…行くんですか?」私が恐る恐る尋ねた。
間苧谷部長はしばらく黙っていたが、やがて深いため息をついた。
「行かざるを得ないだろう。しかし…」
彼は私たちを見回した。
「我々は彼らの思惑通りに動くわけにはいかない。準備が必要だ」
「準備って?」
「粘田、お前のスライム能力を完全に目覚めさせる。花子は勇者としての剣技を思い出せ。小振田は…」
「はい!コンビニの裏ルートで情報収集します!」
小振田が元気よく返事をする。彼のコンビニ人脈は侮れない。
「よし、明日から特訓だ」
部長の言葉に、私たちは頷いた。しかし心の中では不安が渦巻いていた。私は本当に元のスライムの力を取り戻せるのか?そして、それが何の役に立つのか?
「あの、一つ質問していいですか?」
花子が手を挙げた。
「なんだ?」
「もし…私たちが本来の姿に戻ったら、この世界には住めなくなるんですか?」
誰も即答できない質問だった。確かに、魔王や勇者、スライムやゴブリンが普通に街を歩けば大騒ぎになるだろう。
「それを望む者もいるだろうな」部長はぽつりと言った。「異世界に帰りたいと思っている転生者も少なくない」
「でも私は…」花子は迷いながらも続けた。「この世界が好きです。パソコンは苦手だけど」
「僕もだよ」私も同意した。「スライムに戻るのは嫌だな。床に張り付くのは趣味程度でいい」
部長は複雑な表情を浮かべた。
「滅びよ人間…」
いつもの決め台詞だが、今日はどこか力がない。
「でも、この世界のコーヒーは美味いからな」
部長の意外な言葉に、私たちは思わず笑った。緊張が少し解けた瞬間だった。
窓の外では、月が雲に隠れ始めていた。10日後に迫る月蝕。私たちの運命を左右する時が、静かに近づいている。
会社の廊下を歩きながら、私は自分の手を見つめた。さっきまでスライム化していた手は、今は普通のサラリーマンの手。でも確かに、その中に眠る力を感じている。
「よし」
私は小さく決意を固めた。スライムだった自分を恥じる必要はない。それが今の自分につながっているのだから。
エレベーターに乗り込む前、一瞬だけ床に足が溶け込みそうになった。
「おっと」
慌てて体勢を立て直す。特訓は明日からだが、どうやら私の体は既に変化を始めているようだった。




