残業開始の闇
「今日も一日お疲れ様でした~」
営業部のフロアに、勇田花子の明るい声が響いた。
時計はちょうど午後五時を指している。定時だ。
「お疲れ様です…」
私こと粘田透は、デスクに張り付いたままの状態でぼんやりと返事をした。
そう、文字通り「張り付いた」状態だ。
「あれ?粘田さん、また机にくっついてますよ?」
勇田が不思議そうな顔で近づいてきた。彼女の制服の裾からは、なぜかうっすらと聖なる輝きが漏れている。まるで勇者のような…いや、気のせいだろう。
「あ、すみません…癖で」
慌てて体を起こす。
スライムだった前世の習性がどうしても抜けない。プルプルとした感覚が体の奥底に残っていて、つい平面に張り付きたくなるのだ。
「みんな~!ちょっと集合~!」
突然、間苧谷部長の声が響き渡った。
「今日はな、全員残業だ!」
フロア全体から悲鳴が上がる。
「滅びよ、定時退社!」
間苧谷部長は両手を広げ、なぜか赤黒いオーラを纏いながら高らかに宣言した。
この人、絶対に前世で魔王か何かだったんじゃないだろうか。
「えー、今日カラオケ行く約束してたのに…」
「私、子供のお迎えが…」
悲痛な声が各所から聞こえてくる。
「異議は認めん!今から緊急プレゼン資料を作る!納期は今夜中だ!」
間苧谷部長の目が赤く光った。気のせいじゃない。マジで光った。
「…やっぱり魔王だったんだ」
思わず呟いてしまった。
「何か言ったか、粘田くん?」
部長の鋭い視線が刺さる。
「い、いえ!何も!」
慌てて首を振ると、少し力を入れすぎて首がグニャリと曲がった。スライム時代の柔軟性が出てしまう。
「粘田さん、大丈夫ですか?首、変な方向に曲がってますよ?」
勇田が心配そうに声をかけてくる。
「あ、はい。大丈夫です」
こっそり首を元に戻す。
「じゃあ、粘田くん。君はコピー取りを担当してくれ。A4で500枚な!」
「え、何のコピーですか?」
「何でもいい!とにかく500枚だ!」
完全に意味不明だが、魔王の命令には逆らえない。
重い足取りでコピー機に向かう私。
コピー機の前では勇田が悪戦苦闘していた。
「もう!この魔導器、どうやって使うんでしたっけ…」
彼女はコピー機のボタンを無作為に押している。
「魔導器…じゃなくて、コピー機ですよ」
「あ、粘田さん!助かります!この…コピー機、私の天敵なんです」
勇田の手には何やら光る剣のような…いや、ただのシャープペンシルだ。気のせいだ。
「どれどれ…」
コピー機のエラーを直そうとしゃがみ込むと、私の体が思わずコピー機に張り付いてしまった。
「あっ」
「粘田さん?なんで機械に溶け込もうとしてるんですか?」
「いえ、ただの…癖です」
慌てて体を引き剥がす。痛い。
何とかコピー機を起動させ、意味もなく白紙をコピーし始める私。
「はぁ…」
ため息をつきながら、できあがった紙を抱えて戻ろうとした時だった。
「おい、粘田!」
間苧谷部長が再び声を荒げる。
「コピーなんかやってる場合じゃない!緊急で資料作成だ!」
「え?でも先ほど500枚コピーするように…」
「そんなこと言ったか?言ってない!早く席に戻れ!」
完全に言った。でも反論できない。
「はい…」
コピー機の前に積み上げた無意味な白紙の山を見て、また一つため息をついた。
席に戻ると、PCがフリーズしていた。
「なんでだよ…」
再起動しようとしたその時、PCの画面から緑色の液体が滲み出てきた。
「え?」
ビックリして後ずさると、液体はどんどん増えていき、やがて人の形に変形していった。
「久しぶりだな、ぷる男」
「え?」
目の前に現れたのは、コンビニの制服を着た小振りな男性。小振田緑朗だ。彼は私がよく立ち寄るコンビニの店員で、いつも妙に親しげに接してくる。
「どうやって…PCから?」
「俺はお前を探していたんだ」
「え?何のことですか?」
「お前、本当に覚えてないのか?」
小振田の目がギラリと光る。
「あの時、お前は俺たちゴブリン族の村を…」
「ちょっと!何やってるんですか!」
突然、勇田が割って入ってきた。
「あ、すみません。ちょっと知り合いが…」
振り返ると、そこにはもう小振田の姿はなく、PCの画面は普通に起動画面を表示していた。
「えっ?」
「粘田さん、また空想してましたね?早く資料作らないと部長に怒られますよ!」
「はい…」
幻覚だったのか?いや、あれは確かに…
「お前、覚えてるな?」
耳元で小振田の声がした気がした。振り返るが、誰もいない。
不安を抱えながらも、私は資料作成に取り掛かった。
今夜の残業は、どうやら長くなりそうだ…。
そして、この異世界転生者たちが集まる職場で、これからどんな騒動が巻き起こるのか、想像もつかない。
ただ一つ確かなのは、明日も出社しなければならないということだけだ。




