浅はかな催眠術
昔からそうだった。
自分で何かを決めることができない。
だからこそ、今回の事も引き起こされてしまったのかもしれない。
私の家庭は、いわゆる『母子家庭』というやつで。
母さんの話によると、私の父が会社の人と浮気をして離婚。
おかしなことに、そんなことをされたにも関わらず、数年間は連絡を取り続けていたらしい。
母さんはまともな人だった。尊敬できる人だった。
母さんが変わり始めたのは2年前。
その日のことは鮮明に覚えている。
私が父と会うタイミングで、父にいわゆる宗教勧誘をされた。
お前らには悪いことをしたから、幸せになる方法を教えると。
とある日に、その宗教の集まりがあるから行ってほしいと。
甘美な罠だった。
深いことは教えてもらえなかったが、概要だけを聞いても魅力的な話だった。
流されてしまったと言うべきか。
しかし、母さんの幸せな顔が見たかった。
それだけで。母さんまで巻き込んでしまった。
「母さん。私たち、ようやく救われるかもしれない」
最初は、何を言ってるんだって顔をされた。
確かに、自分でも怪しすぎたと思う。
けどその反面、母さんの顔が幸せそうに笑っている感じがした。本当に救われるのではないのかとも考えてしまった。
思えば、それが始まりだった。
ここで私が言うのをやめていれば、正気に戻っていれば。
また違った結末になっていたのかもしれない。
「父さんに、教えてもらったんだ」
「あの人に?」
「うん、悪いことをしたお詫びに、いい事を教えるって。それがね…」
止めようと思った。けど、止められなかった。
母さんが幸せなら良いかって思ってしまった。
母さんが幸せなら、不幸続きだった私達も変われるって信じてしまった。
あとから知った。私がその日、父から聞いたのは無限連鎖講の一環だった。
その話をしてから随分経ったある日、先に母さんが宗教の集まりに行った。
その日のうちに、入信する事を決めたらしい。
私も入信していることになっていたのは驚いたが。
抜けたくなったら好きな時に抜ければいい。その時はそう思っていた。
次の日、学校を休んで私も集まりに行ってみた。
聖地というのか、総本家というのか。
それがかなり家の近くにあったのには驚いた。
こんな場所にこんなところが。
そこで。思っていたよりも優しそうな人達が出迎えてくださり、話を聞かせてくれた。
「絶対神であるハツネ様が──」
「不幸であるほど幸運になる──」
父さんから聞いた話より深い話を聞かせてくれた。
私はこういうのには騙されないと思っていた。
しかし、私はボロボロと泣いていた。
図星だったから。私がそうありたかったから。ずっと幸せを望んでいたから。
入信して良かった。心からそう思った。
今も正直、良かったと思っている。
「私たちは、今日から家族です」
そう信者の方に言われた。
かぞく、かぞく。家族。
その時の私は、嬉しかったのだろう。
心の中で噛み締めた。
涙が枯れるまで泣き、返事をした。
今日からよろしくお願いします、と。
母さんが変わり始めた。
幸せだと思えた。
辛いことも、ハツネ様の教えで報われていた。
私自身も変わっていっていたと思う。
母さんが幸せだから、私も幸せだった。
もちろんハツネ様の教えは大事にしている。
けどそれは母さんがハツネ様を信じているからで、自分の純粋な思いではなかった。
たまに怖くなる。
母さんが、ハツネ様が、家族と言ってくれた信者の人たちが。
どうしても、現実から目を背けているだけにしか思えなかったから。
思えば、この時からSOSを出していたのかもしれない。
誰にも悟られないように。
けど、こんな世界正気の沙汰じゃやっていけないんだ。
ハツネ様の教えが嘘だとしても。
身を任せていればそれが最適なんだと。
何度も自分に言い聞かせてきた。
───
──
─
ある日、娘が宗教勧誘をされました。
職場で浮気をされた元夫に会った時にされたそうです。
絶対神"ハツネ様"という方が、私たちを救ってくれるそうです。
最初はこの子を止めようと思いました。
しかし、こんなにも幸せそうな顔は見たことがなかったので、信じてみることにしました。
精一杯幸せそうな、喜んでいるような顔をして。
あまりに怪しかったので、私が最初にその集まりに行ってみました。
火を見るよりも明らかだと思ってました。
しかし、その方たちの話を聞くと、自然と惹き込まれていきました。
気付くと私は泣いていました。
その信者の方たちに、今日から私たちは家族です、と言われました。
かぞく、かぞく、家族。
その時の私は嬉しかったんだと思います。
「今日から、私たちをよろしくお願いします」
気づいた時、私は勝手に娘も入信させていました。
あの子にも将来はあったと思います。
しかし、幸せになってほしかったのです。
後日、娘も話を聞きに行かせました。
帰ってきて開口一番に「私も入ることにした」と聞き、今度は心の底から幸せな気分になりました。
私たちは救われる、辛い過去も報われると。
私はここから変わっていったのだと思います。
騙されていると少しは気付いていました。
しかし、幸せなら良いと思いました。
だから、矢鱈と煩い心臓の鼓動も、聞こえないふりをしました。
─
──
───
これまで、母さんと私の二人で辛い現実を生きてきた。
ハツネ様の教えによると、辛いことは少し見方を変えると幸せになるそうで。
確かにそうかもしれないと考えた。
そう考えないと生きるので手一杯になってしまうから。
心の底では誰かに助けてほしかった。
宗教に頼らなくても幸せになるために。
誰も助けてくれなかったのだから、宗教に縋ってもいいだろう。
定期的に教祖様がやって来て、私たちに教えを説いてくださります。
それが浅はかな催眠術だったのでしょうか。
しかし、それは頭から身体まで、煙に巻かれて何が正しいかを判断することを難しくするためだったのだと、今なら分かります。
この話を聞くと、なぜこんな大勢の信者がいるか納得できますから。
例えるならば、「あなたは段々と眠くなる」と硬貨を揺らして催眠術にかけるように、私は段々と動けなくなって、判断力がにぶって。
「これでいいんだ」と自分自身も騙してしまいました。
───
──
─
私たちの家に定期的に教祖がやってくる。
それは「あなたは段々と眠くなる」と硬貨を揺らして催眠をかけるような、浅はかな催眠術のためだった。
そんな教えを聞いても、私は心から信じられなかった。
ふと母さんの方を見てみると、狂信していた。
その顔を見て、ふと現実を見た。
鳥肌が立った。
なんでこんなことを信じているのかと。
吐き気もしてきた。
母さんを現実に戻さないと。
母さんに教えたのは自分だから。
母さんを現実に戻すのも自分の責任だと、そう思った。
教祖が家から出て行った直後、私は母さんに全て話した。
もう抜けようと。
現実を見て生きようと。
母さんはそれを拒否した。
それほどまでに幸せになりたかったのか。
現実を見たくなかったのか、わからない。
だけど、母さんは拒んだ。
謝った。心の底から、謝った。
泣きながら。自分がもたらした事だったから。
私も幸せになりたかった。
ただ、幸せになれる器ではなかった。
それだけのことなのに、現実は残酷だった。
─
──
───
娘から宗教を抜けようと言われました。
この子がここまで夢中になることもありませんでしたから、正直驚きました。
現実を見て生きようと、娘からそう言われました。
迷いました。
現実は見たくありませんでしたから。
そして、娘の申し出を断りました。
娘に謝罪され、泣かれて非常に困りました。
なので、少しづつ現実を見るようにしました。
現実は残酷でした。見たくありませんでした。
複数のサイレンの音が、遠く響いていました。
───
──
─
ある日、教祖や一部の幹部が逮捕されたと聞いた。
否が応でも現実を見なければいけなくなった。
母さんは、受け入れられないようで、虚ろな目をしていた。
言わば強制解除。
強制的に現実に連れ戻された。
また前のような世界で前のような生活をしていく、というのは簡単で。
実際、私だけであれば、前のような生活はできたと思う。
しかし母さんは、私が思っていたより狂ってしまっていた。
母さんがあの宗教にいくらつぎ込んだのか汁知らないが、目も当てられないほどになっているのは確かだ。
ここから私たちはどうなってしまうのか。
私たちは前を向いて歩いていけるのか。
現実を上手く見れるのか。不安要素は山ほど残っているが、母さんとならきっとまた乗り越えられるだろう。
前みたいに頑張っていこうと、母さんがいたからそう思えた。
随分経ったある日、また父に呼び出された。
良い機会だったので、父に話を聞くために会いに行った。
場所は近くのカフェ。古びたカフェだった。
開口一番に、私は父に聞いた。
なぜこんなことをしたのかと。
父は一瞬黙り、全てを覚悟したような目でこちらを見て、語りだした。
「お前を、あいつから助けるためだ」
聞き間違いではない。確かにそう言った。
頭の中がクエスチョンマークでいっぱいだった。
助ける?私を?母さんから?
何を言っているのか分からなかった。
父に助けてもらう道理なんてなかったから。
黙りこくっていると、また父は話し始めた。
「落ち着いて聞いてくれ。お前は、母さんから俺が浮気をして別れたと聞いているかもしれない。だが、俺が浮気をしたという事実はない」
彼は何を言っているんだ。
母さんをバカにしているのか。
つい頭に血が上り、席を立ってしまいそうになる衝動を抑え、父に新たな質問をする。
「ならなんで、裁判所は不貞行為を認めたの?」
「それは俺にもわからない。ただ、信じてくれ。俺は、浮気をしていない」
父は私をバカにしているのか。信じられるわけが無い。
私はお金だけ置いて席を立ち、その場をあとにした。
お店を出る直前、父は私に
「全てを知る覚悟ができたら、いつでも連絡をしてきて欲しい」
と言った。
嘘をついている人の話は聞きたくもない。
家に帰って、即ブロックをした。
その日の夜。
私が寝ている最中、お腹の上に何かが乗っているような感じがして目が覚めた。
母が私に馬乗りになっている。
息ができない!
なぜこんなことを?どうして?
いや、答えは簡単か。
泣いている母を見ながら、私は意識を手放した。
次に目を覚ましたのは病院のベッドの上だった。
どうやら死ななかったらしい。
ベッドから立ち上がり、周りを見回す。
母さんがいない。
思わず、ナースコールを押す。
「重音さん、起きてたんですね…」
病室に入った瞬間、先生にそう言われた。
雑談している暇はない。
「か、母さんは…」
驚いた。声が思ったように出ない。
「君のお母さんは、ほかの病室にいる。君を殺して自分も死のうとしてたんだよ。心中ってやつだね。もうすぐ、警察の人たちも来るだろうけど、この調子じゃ話せないだろうね…」
母さんは私を殺そうとした。
その理由は分からないが、ふと父の言葉を思い出した。
俺は浮気をしていない…
全てを知る覚悟ができたら連絡をしてくれ…
到底信じられなかったが、父の言葉に縋ることしかできなかった。
スマホに手を伸ばし、父の連絡先のブロックを解除。
電話をかける。
数コールの後、父に繋がる。
『テトか…掛かってくることはないと思ってたが…』
「気が変わった。母さんについて教えてほしい」
『お前、声…のことも後で詳しく聞く。今からいつものカフェに来れるか?』
「今すぐ行く」
そう電話越しの父に言い、電話を切る。
次の刹那、私は病室から抜け出し、指定された場所に向かっていた。
カフェに着き、父を探す。
いつもの席…入口から1番離れた窓際の席…に、いつものように背筋をピンと伸ばした父が待っていた。
「お待たせ。母さんについて、お父さんが知っていることを教えてほしい」
そう私が言い終わるより前か後か、父は語り始めた。
「単刀直入に言うけど、驚かないでほしい。母さんは、催眠術を使える。それも、無意識に。」
にわかには信じがたい話だった。
今すぐに母さんの元に帰りたかった。
しかし、私は母さんのことを知らなさすぎた。
それと同時に、私にも母さんのことを知る権利があるはずだ、とも考えた。
「母さんが催眠術って…いやまさか…」
使えるわけが無い。
そんなアニメや漫画みたいな話があるわけない。
そう思っていたが、次の父の言葉で一気に現実に連れ戻された。
「お前の腕。それはなんだ」
「腕…?これは自分で…」
「違うだろう?」
自分のストレスで叩いた痣…だと思い込んでいた。
「これは…母さんが…?」
「そう。お前はアイツに家庭内暴力を振るわれていた。催眠っていうのも完璧じゃないようで、外的圧力がかかると解けるみたいだ」
全てを思い出した。
確かにこれは、母さんにつけられたものだ。
だとしたら、父の浮気というのも…
「なるほど、って顔をしているね。そう、俺が浮気をしたっていうのもアイツの催眠。あの時は知らずに司法を恨んでたけど」
「いやけどそんな…何のために…」
父は一瞬戸惑い、語り始める。
「アイツの口癖は『幸せになりたい』だった。俺と付き合う前も、付き合った後も、結婚してからも。幸福に貪欲だったのか、あるいは本当に不幸せだったのか。お前が産まれて随分経ったある日、身体中に痣ができているのに気がついた。アイツはテトが自分でやったと言って聞かなかった。俺もそれを信じていた。」
私が母さんに抱いていた気持ちも催眠によるものだったのか、と思うと冷や汗が止まらなくなる。
「おかしいと思い始めたのは、同僚から変だと言われてからだった。私はそんなタイミングで、アイツから離婚を切り出された」
妙に納得してしまうが、やはり簡単には信じられない。
これまで一緒に過ごしてきた母さんがそんなことをするはずがないと、考えてしまう。
父がお冷を一気に飲み干し、続ける。
「疑惑が確信に変わった。していないことを、司法が認めるわけないと思っていたから。具体的にはまだ分からなかったが、司法の事とテトの事があったから、何かをしているって言うのは火を見るよりも明らかだった」
「そんなこと信じられない…」
私はそんなことを言い、唾を飲み込み、そして続ける。
「って思ってたけど。お父さんが言ってること、妙に納得できた。まだ全部を思い出した訳ではないけど、母さんに殴られたって言われてこの痣も納得できた」
「俺の話の全部を信じなくてもいい。けど、心の片隅には残しておいてほしい」
そう父は言い、ついさっき届いたコーヒーを一気に飲み干して、新しい話題を出す。
「ところでテト、その声は…」
「あー…母さんに、首を絞められた」
ありのままに伝えた。
父さんから教えてもらった宗教で、母さんと私がどのように変わっていったのか。
母さんが心酔していったこと。
月に何万も宗教に注ぎ込んでいたこと。
そして、心中のことも。
私が全てを語り終えると、父が席を立つ。
「あぁ…なるほど。今度、またアイツと話をさせてくれ」
「けど母さんは…」
言い終える前に私は悟る。
「母さんは捕まらない。きっと、催眠で逮捕を回避する」
母さんが本当に催眠術を使えるのなら、絶対に使わずに捕まるはずがない。
母さんの口癖のことを思い出していた。
幸せになりたいと願う人が、わざわざ自分の時間を使ってまで塀の中に居るとは思えなかった。
「きっと出てくるから、またその時に話す」
そう言い終え、父は帰宅した。
そこからさらに数日後、私の元に警察が来た。
まだ入院していたこともあり、病室で色々なことを聞かれた。
嘘はつかずに。母さんを庇ったりせずに。
一通り聴き終わった警察官に、嘘はついてないか、と聞かれた。
母さんと私の主張が全く違っており、しかし互いに一貫性はある。
嘘はついていないので、ついていない旨だけを話した。
催眠については、言えなかった。
信じてもらえないだろうから。
そして、出て行く間際の警察官の顔を見て、彼らは母さんのことを信じているんだろうな、と直感した。
ようやく、退院することができるそうで、即日退院させてもらった。
全てを知りたい。母さんのことも、父のことも、全て知りたい。
そう思った私は急ぎ足で母さんの病室に向かった。
会わせてもらえるか心配だったが、杞憂だった。
すぐに会わせてもらえた。
病室のドアを開け、久々に母さんと対面する。
開口一番、私は父に会ったことを謝罪した。
「母さん、ごめん。この前、お父さんに会ってきた。そして、全部聞いてきた」
「…そう」
予想通りというか、そっけない返事だった。
しかし、そんなことを話すために来たわけではない。
「母さん、催眠術が使えるんだってね。黙ってたのは良いとして、なんで家族に対して使ったの?」
返事はない。それはそうか。
家庭内暴力、浮気捏造。
母さんがやってきたのはそういう事だ。
あんなに輝いてた母さんの瞳は虚ろになっていて、焦点もあってないように思えた。
自分も催眠術のようなものをかけられて、自分がやってきたことを思い知ったというのかは分からないが、酷く辛そうな顔をしていた。
やめてよ母さん、母さんにそんな辛い顔をされると私まで辛くなってくる…
というのは、催眠をかけられているから思うのではなく、心の底から思っていることだ。
第一、もう母さんの催眠は効かないと思う。
「話せる覚悟ができたらまた連絡して」
そう言い、私は病室から出る。
病室から出ると同時に、入れ替わるように入っていったのは、母さんの元夫だった。
正直、2人の話を聞きたかった。
それとは逆に、邪魔はできないという気持ちもあった。
二つの気持ちを天秤にかけ、私は走り気味に病室から出ていった。
背後からは2人の言い争う声だけが聞こえてきた。
退院してから幾分か経ったが、あれ以来母さんにも父にも会えずにいた。
何をしているかもわからない。
2人に会いたい。そんなことを考えている時、携帯が震えた。
発信者は…父だ。
「もしもし」
「急に悪いな、いつものカフェに来れるか?」
「すぐ行く」
簡単な受け答えをし、急ぎ気味で家を出る。
何を話すのだろうか。
父さんひとりだろうか。母さんも居るのだろうか。
一人で過ごしていた時に聞きたいことが山ほどできた。
聞けるかは分からないが、とにかく二人と話がしたかった。
走って来たせいで、かなり早い時間に着いてしまった。
父はまだ居なさそうだったので、いつもの席に向かうと、そこには母がいた。
「母さん…」
「テト…」
お互いにそう呼び合い、向き合って座る。
久しぶりに向き合ってきちんと話すせいで、かなり気まずい時間が過ぎていく。
随分時間が経ち、口を開こうとしたその時、父が入店してきた。
辺りを見回した直後、こっちに近づいてくる。
「悪い、お待たせ」
そういって父は私の隣に座る。
そして父は座り、水を飲み干すと同時に口を開く。
「母さんな、催眠術を使ってたってのは前言っただろ。それについて俺には謝罪があったけど、テトにはまだしてないだろ」
「え、うん。されてない」
驚いた。母さんが父に謝罪するのなんて想像もつかなかったから。
「テト、ごめんね…あなたに催眠をかけて。あなたに離れてほしくなくて、かけてしまったの。嫌だったんだよね、ごめんなさい」
……?
この人は何を言っているんだろうか。
違う。違うだろ?
催眠をかけられていたのはたしかにそうだろう。
けどこの人は何に対して謝っているんだ?
目を見てわかった。
この人は、ただ自分に酔っているだけなんだ。
現実が見えた気がした。
母さんが好きだったのは、"私"自身ではなく、催眠にかかった"私"だったのだろう。
「違うでしょ?母さん…」
一呼吸置き、今より少しだけ大きな声で母さんに話しかける。
「自分に催眠をかけて自分に酔うんじゃなくて、一回目を覚まそうよ。現実を見てよ。素の私を見てよ。何が嫌だったか、ちゃんと考えてよ」
そう私が泣きながら伝える。
きっと、母さんにも伝わったのだろう。
母さんの頬には大粒の涙が伝っていた。
母さんは上手く現実と向き合うことができるのだろうか?
どれだけ前から自分に催眠をかけていたのかは知り得ない。
しかし、一人で過ごす時間が増え、次第に『母さんは自分に催眠をかけていたのではないか』と考えるようになった。
だからこそ、現実を見た時に失明をしてしまうのでは無いかと心配だった。
杞憂で済むのか、あるいは分からないが、とりあえず私たちと対等に話してほしかった。
自分自身への催眠を解きます、のようなことを母が言った、次の刹那。
母さんは声を上げて泣いた。
膝から崩れ落ち、人目をはばからず泣いた。
失敗だったのか、さっき以上に視線が定まって無いのがわかった。
どこを見ればいいのか分かっていないのか、あるいは現実を直視できていないのか。
それは分からないが、これ以上の会話は無理だろうと思い、救急車を呼ぶ。
「潜蠖薙?闐晏??〒鬨吶&繧後k」
と、言葉にならない叫びをあげた母さんを見て、私たちは顔を見合わせる。
母さんに一気に現実を見せつけすぎた。
果たして、ゆっくり現実を見せていても同じ結果になったのかは今となっては分からない。
父によると、母さんは精神病棟に幽閉されているらしく、あれ以来母さんとは会えていない。
また母さんと会えて話せる状態なら話したいが、会いに行ったら話せるのだろうか。
もしまた会えたら、追記しようと思う。
私が母さんを通して気付いたのは、
現実を直視しすぎると失明しちゃうから、
適度にね(^^♪
ってことだ。