「推す」という言葉が好きじゃない。
その当事者意識、危なくないですか?
「推す」という言葉が流行っているようだ。推し活だの、推しメンだのといった言葉をよく耳にするし、目にもする。いつ頃から流行りだしのかは正直よく分からないが、流行というのはいつの間にか始まって、いつの間にか終わっているというのが歴史的な事実かと思う。それはなぜかというと、流行というのが供給する側によって作られているから、というのが持論。消費者はただ売り手の操り人形として時間やお金、そして精神的な財産を明け渡すだけだ。
そもそも何で「推す」っていうんのだろう。「好き」じゃダメなのか。意味するところは同じだと思うのだけれど、「推す」という言葉がウイルスのように広まったのは何故だろうか。消費者に当事者意識を植え付けることが出来からじゃないか、と考えた。「好き」というあくまでお客としての一方通行の感情。一方で、推すというのは自分がその対象を一緒に持ち上げているというニュアンスが含まれているのではないか。つまり、推す対象に関して、当事者として同じ土俵に立っているという気持ちになることができるということ。ただ、そういう気持ちになる、というより勘違いするというだけで、売り手と消費者は絶対に対等な立場になることはできない。力関係で言えば、間違いなく売り手が強者、消費者は弱者になるのだ。
強者である売り手が、より効率よく、より多くの搾取をするために世の中に広めたのが「推す」という言葉のように思える。そこで生まれる当事者意識は、売り手にとって都合の良い当事者意識というものであって、必ずしも本人にとって良い効果をもたらす当事者意識ではないという点に注意が必要だ。
昔から同じことは行われていたのかもしれないが、SNSが広く利用されるようになって特に怖いと思うのが、消費者に擬態した売り手が現れてくるということだ。ファンが自発的に始めたという体で始まった活動があったとして、実はそのファンを名乗る人は売り手の社員かもしれない。もしくは立場としては本当にファンだけれども、売り手側に頼まれて作品を持ち上げたり、宣伝をしたりしているのかもしれない。
それで楽しんでいるんだから良いじゃないかという意見もあると思うが、自分にはどうしても今の状況は受け入れ難いのは、物事を好きか嫌いかが自分の感性ではなくて、他人の言葉、他人の作った流行に支配されているように感じるからだ。何かを好きになる、嫌いになるというのは人間にとって最大の自由だと思う。今はまだよいかもしれないけれど、そういった支配に慣れてしまうと将来的に自分のことを自分では決められなくなるのではないか、という恐怖を感じている。
終わり