そんなものしか持ち合わせない、平々凡々な……
◆◇◆◇◆
翌日。
ヴァイオレットは自宅のサロンに居ました。スライ侯爵邸はきらびやかな装飾はそれほどありませんが、来客や家人がゆったりと寛げるように落ち着いた空間を作り上げています。
フランス窓からは明るい陽射しと、心地の良いそよ風が入ってきますし、室内はふかふかのソファーやクッション、美しくて足触りの良い絨毯にしっかりとしたテーブルが設えてあります。
しかしそのどれも、今の彼女の心を落ち着かせてはくれません。
今、彼女は壁にかけられた大きな絵を眺めるためにこのサロンに来たのです。
それはスライ侯爵一家の肖像画でした。長女ローズの婚約が決まった時、スライ侯爵は彼女が遠い隣国に旅立ってしまう前に家族が揃った肖像画を描かせる事を思いついたのです。
中央に厳めしく立っているのは父親であるスライ侯爵。その横の椅子に腰かけているのは母親である侯爵夫人。夫人の斜め後ろにリリーが、侯爵の真横にはローズが立っています。
微笑んだローズは16歳の頃のまま、時を止めて絵の中に塗り込められていました。
「ローズ姉様……」
ローズの美しく波打つ黒髪が白い顔の横を河のように流れ、名前通りの薔薇色の頬や唇との強いコントラストを生んでいます。宝石と見紛う緑色の瞳は、その奥に炎のような光が煌めいていました。
この絵を描いた画家は非常に腕が良く、ローズを美の女神だと讃えながらその美しさを寸分の違いもなく写し取っていました。
……そう、非常に腕が良かったのです。画家はローズだけでなく、家族全員の姿を鏡のように写し取り絵に描きました。
ヴァイオレットは内側から輝くような美しさを持つローズから目を移し、反対側の、母の真横に立つ小さな人物像を眺めました。
ローズとは違う、茶色い髪に深緑の瞳。無邪気な笑顔は愛らしさに溢れてはいても「美」とは大きくかけはなれた、子供特有の庇護欲をそそるもの。
そんなものしか持ち合わせない、平々凡々な容姿の10歳の少女の図。
「ヴィオ、こんなところにいたの? 探したのよ」
いつの間にかサロンに来ていたリリーに気づかなかったヴァイオレットはびくりと振り向き、そのはずみで頬に小さな水の粒が飛び散ります。
「……泣いているの?」
「いいえ!」
ヴァイオレットは顔を背け否定しますが、リリーは妹に近づいてそっと両手で顔を挟み、優しく自分の方を向かせます。
「どうしたの? 私の可愛い妹さん」
「……っ! 可愛いって言わないで!!」
ヴァイオレットの唇がわななき、最後の言葉と一緒に両の目から涙がこぼれ落ちます。
「私、私、知ってるもの……! 皆が、侯爵家の皆が私のことを可愛いっていうげど……ひっく、本当は違うっでええええ……」
「そんなことないわよ」
「あるもん! わだじ、わだじ、ねえざまだぢみだいにギレイじゃないもんんん……!」
ヴァイオレットが壁の肖像画を……自信満々の笑顔でいた10歳の自分の姿を指差します。
この絵が完成するまでのヴァイオレットは無敵でした。天真爛漫な末っ子を家族も、使用人も、親戚のお兄様も皆「可愛いヴィオ」と呼び、可愛がり慈しんでくれていました。美しいローズやジョージさえもそう言うのだから、自分は本当に可愛いのだと信じて疑わなかったのです。
彼女が信じていたものを打ち砕いたのは、ありのままの事実を写し取った肖像画でした。
姉達と同じ鏡に一緒に映ったことのなかったヴァイオレットは、絵が完成して始めて自分が姉達とは違うと気付き、絶望にうちひしがれました。
だからこそ「エドガー王子と十二人の守護獣」を読んだ時に、平凡な容姿で人々の間に紛れ秘密を暴く【鼠】の活躍に強く憧れたのです。
顔を挟まれたまま、真っ赤な顔でポロポロと涙を溢す妹の姿に、リリーは困惑しながらも優しく語りかけます。
「ヴィオ、わかったわ。でも貴女には貴女の魅力があって、それを好きな人もきっといるのよ」
「ぐすっ……いないもん……。わだじには、姉様だぢみだいに、手紙や贈り物なんて来ないもん……!」
「ジョージ兄様がいるじゃないの」
「……」
その言葉を聞いて、ほんの一瞬押し黙ったヴァイオレットの目から堰を切ったように涙が次々と溢れだし、口からは嗚咽が漏れたのでリリーは自分が地雷を踏んでしまったことに今さら気づきました。
「ヴィオ、ヴィオごめんなさい。どうしたの?」
「うえぇぇぇん……だってジョー兄様は、兄様だもんんんん!!」
「えっ?」
「兄様は、ローズ姉様がまだ好きなんだもん! 私の本当の兄様になりたいだけ!! 私の事なんて……うわぁぁぁん!」
「……」
リリーは大声で泣くヴァイオレットの顔から手を離し、その胸に妹を抱いて「よしよし」と頭と背中を撫でてやりました。しかし、さてどうしたものやら? と言わんばかりにサロンの入口に目をやります。
今の会話とリリーのアクションにつられて、サロンの扉の外に潜んでいた人物が中に入って来ました。しかしヴァイオレットは泣くのに夢中でその足音に気づいていません。
「まいったな……そうきたか。本当にヴィオは僕の想定外のことをしてくれる」
優しく懐かしい声にヴァイオレットは顔をあげました。傍に立つ男性と視線が絡まり、そのアイスブルーの瞳が困ったように笑っているのが目に入ります。
「!? ジョー兄様!? なんでここに……!!」
驚きで涙も引っ込んだヴァイオレットは次の瞬間、先ほどまでの会話をジョージに聞かれていた事に気づき、一気に顔を青くし、そしてすぐに真っ赤になりました。
思わず後ずさって逃げようとしますがリリーの腕に優しく絡めとられて逃げる事は叶いません。身体の弱い姉を突き飛ばすことなどできず、ヴァイオレットはなんとか逃げられないかとモジモジくるくると身をよじります。
「あら、ヴィオったらコマネズミのマネ? 可愛いわね?」
「ああ、すごく可愛いな」
「可愛いって言わないでー! あと離してー!!」
じたばたする妹を抱きながら、リリーは鈴を転がすような声で笑いました。
「ジョージ兄様、この子、この間までは兄様がローズ姉様以外の女性に気があるのを許せないとか言っていたのよ。それで今度は姉様の事がまだ好きだと誤解して泣くなんて矛盾しているわよね? ふふふっ」
リリーの言葉にジョージは片眉を上げた後、一気に両眉を下げて嬉しそうにします。
「流石にこれは、期待しても良いのかな?」
「良いんじゃないかしら……あら、どうしましょう。今後はジョージ兄様って呼べなくなるわね」
「まだ早いよ。ちゃんと確かめてからじゃないと」
二人の会話の意味がわからず身も心もグルグルしているヴァイオレットにジョージが近づき、その手を取りました。
ジョージがひざまずくと同時にリリーがヴァイオレットを解放し、パッと離れます。ヴァイオレットは何が起きるのか理解できず、棒立ちでジョージを唯々見つめていました。
彼女が逃げない事にジョージはにっこりと微笑みます。舞踏会の時と同じ微笑みでしたが、それはヴァイオレットの心を大きく揺さぶります。
と、ジョージが彼女の手の甲にくちづけました。
「!!」
それはトリクル侯爵夫人の時とは違う、心のこもった接吻。
かつて一度だけ、小さなヴァイオレットの前でジョージがローズにして見せた求婚の儀式。
ヴァイオレットの手からジョージの体温が伝わり、それは彼女の心臓を一気にぎゅうぎゅうと絞ります。
「な、な、なんで……」
「なんでって?」
真っ赤になって震えるヴァイオレットを見つめながら、ジョージがかつてないほど優しい瞳で甘く微笑みました。
「君が僕に先にプロポーズしたんじゃないか。僕の可愛いヴィオ」