かつては大好きだったお兄様
三年前まで、スライ侯爵家には「この国一の美少女」「黒薔薇の乙女」等々と讃えられる女性が居ました。
リリーとヴァイオレットの姉で長女のローズです。
彼女は輝く黒髪にエメラルド色の瞳、小鳥のさえずりのような声を持ち、小さな頃から周りが見惚れるほどの美貌と気品が備わっていました。
彼女に夢中になる少年や男性は数知れず。ローズと同い年のジョージもその一人で、親戚関係である事を利用してしょっちゅう侯爵邸に遊びに来ていました。
彼はローズに何度となくアタックしつつ、妹のリリーやヴァイオレットにも優しく接しました。特に小さなヴァイオレットを家族同様にヴィオと呼び、妹のように可愛がったのです。
……が、そのジョージの努力の甲斐も虚しく、なみいるライバルを蹴落としてローズの心を射止めたのは隣国の公爵家の嫡男でした。
ローズが16歳の時、隣国との交流で招かれた公爵令息と互いに一目惚れで恋に落ち、あっという間に婚約が決まりその翌年には隣国へ嫁入りしてしまったのです。
「……でも、でも! ジョー兄様はローズ姉様に生涯の愛を誓ったのじゃなかったの!? あんなにボロボロになってたじゃない!」
ローズの婚約が決まった時のジョージの落胆ぶり、やつれぶりと言ったら、リリーの儚さにも負けず劣らずで、本当に儚くなってしまうのでは……と思うほどでした。
その後の四年間、つまり今日まで。彼は侯爵邸に殆ど近寄らなくなってしまったのです。
ですからヴァイオレットにとってのジョージは、16歳までの優しく一途な“親戚のお兄様”の思い出しかありません。
煌めく銀髪に澄んだ青い眼を持つその美貌は自慢の姉にも負けない存在でした。ローズとジョージが二人で並んだ麗しい姿は絵本に出てくる王子様とお姫様のようで、ヴァイオレットの心には二人を憧れの目で見ていた事が焼き付いているのです。
「それなのに、あちこちの女の人と仲良くするなんて……」
今の彼の軽薄な噂を聞くたびに憧れが汚されるような、切ない気持ちがヴァイオレットの胸をしめつけます。
そんな妹の意見を聞いたリリーは小さく息を吐いて言いました。
「ヴィオ、それはめちゃくちゃよ。ローズ姉様と結婚できなかった兄様に『生涯他の人を好きになるな』と言ってるのと同じじゃない」
「うっ……」
「それにね、兄様はラウリー家の次男でしょ。このままなら家を継ぐことはないのだから平民になるかもしれないのよ。そうならない様に婿入り先を探しているのかもしれないじゃないの?」
「えっ……それ、は」
かつては大好きだったお兄様が平民になる。ヴァイオレットはその可能性を考えたこともありませんでした。改めて想像してみます。
スライ家かラウリー家馴染みの商会に入り、極上の絹やレースを売るために貴族のお屋敷へ伺うジョージ。商売に行った先々のご婦人やご令嬢は彼を放っておかないでしょう。
それ以外に商会の付近では町娘達がキャアキャアと彼を囲み、取り合いでもしそうです。それはまさに。
「……ドロ沼! やっぱり『泥の貴公子』だわ!」
リリーは再びお茶を吹き出しそうになりました。
◆◇◆◇◆
身体が弱めのリリーを短時間で二度も咳き込ませたヴァイオレットは、これ以上ここにいては大好きな姉を死なせてしまうかもしれない!と焦り、姉とその侍女に深く謝罪して部屋を出ました。
「リリー姉様、大丈夫かしら……」
リリーは昨夜の舞踏会も楽しみにしていたのに、微熱が出てしまい欠席せざるを得なかったのです。今朝は調子が戻り食事も軽く取れていたようでしたが油断はなりません。
黒髪に緑の瞳が生命力の煌めきに溢れていた長女ローズに対し、次女のリリーは肌も髪も瞳の色さえも透けそうなほど色が薄く儚げで、まるで簡単に手折れそうな細く白い花のようです。
リリーが17歳になった今、その儚さが彼女の持つ美しさを一層際立たせていて、ローズとは正反対の魅力を醸し出しています。両親やリリーはハッキリとは話しませんが、色々なところから遣いや贈り物が来るところを見ると、姉に婚約を打診する人物は最低でも複数名いるのだとヴァイオレットにも推測がつきます。
「はぁ……」
ヴァイオレットは誰にも聞かれないようにため息をつきました。それは姉の体調を想ってのことと、自らの将来の不安から出たものです。
(……っ、だめだめ! 私は【鼠】の守護者として、この家を守るって決めたのよ! そのためには一生独身でもかまわないわ!)
彼女はそう自分を鼓舞し、そして自分に課した今日の訓練を行います。できるだけ足音を立てずに、気配を断って(いるつもりで)、屋敷の廊下を歩いていきました。
サササッ
(ふふふふ。【鼠】はあらゆる所に忍び込む……)
「まあ、お嬢様、こんなところにいらしたんですか。探したんですよ」
ヴァイオレットの今日の訓練は失敗のようです。侍女の1人に見つかってしまいました。内心がっかりしたヴァイオレットは気を取り直して愛想よく応えます。
「私を探していたってなぁぜ?」
侍女はニコニコして言います。自分の事のように嬉しそうです。
「お嬢様に贈り物が届いたんですよ!」
「……えっ!!」
急ぎ足で自室に戻ると、桃色の薔薇の花束とお菓子の小さな箱が置いてありました。箱には上品なカードも添えられています。
(ついに私にも……お姉様達のように贈り物が? どこの誰から?)
つい先ほどまでの「一生独身でも構わない」などという考えを放り出し、自分を見初めてくれた男性がいるかもしれない! と胸をときめかせたヴァイオレットは震える指でカードを開いて見ます。そこに書いてあった言葉は。
“可愛いヴィオへ。
この間の誤解を解きたい。これ以上変な噂をされるのはお互いにまずいし、仲直りしてくれないか。
あと【鼠】の真似は止めた方がいいと思うよ。
ジョージより”
「ぐ、ぐぬぅーっ!」
ヴァイオレットは長椅子に倒れこむように座りました。彼女が喜ぶだろうと思っていた侍女はこの様子に意外そうにしています。
「お嬢様? いかがなさいましたか?」
「……どうもしていないわ。相手がジョー兄様だったから、がっかりしただけ」
「さ、左様ですか……? あの、差し出がましいようですけれど……ラウリー家のジョージ様からでは、お気に召さないのでしょうか……」
「……別に。ジョー兄様は『可愛い妹』がむくれてると思って、お花とお菓子でご機嫌を取ろうとしただけだもの!」
カードを見るまでのヴァイオレットは薔薇と同じ桃色に頬を上気させ浮かれていましたが、今はその薔薇が一気に萎れて枯れかけているといった風情です。
「はぁ……バッカみたい。私なんかを気に入る殿方なんているわけないのにね」
「何を仰います。お嬢様はお可愛らしいですから、もう1~2年もすればお姉様方と同じように『お近づきになりたい』という殿方が列を成してやって来ますとも」
侍女の言葉にヴァイオレットは頬を膨らませました。
「もう! 私は現実をちゃんと知ったのよ! 私を可愛いと言うのは身内だけ! 私は姉様達と違って平々凡々な顔だちなんだから!」