(最終話)奥さんは18歳になっても"十二病"が治らない
「ひいいっ! だ、だれか! 侯爵が毒を飲まされた!」
ワインを給仕したメイドが叫んだのをきっかけに、フランス窓の脇のカーテンから男性客のひとりが飛び出します。
彼はジョージ・スライ侯爵とその義姉である公爵夫人の禁断の逢瀬の場面を期待していた下世話な来賓のひとりでした。隠れてこっそりとバルコニーの様子を伺っていたのですが、彼が見たものは期待したような甘い世界ではなく、二人がワインを飲んだ直後に苦しみだすという恐ろしい情景でした。
彼ほどあからさまではないにせよバルコニーの様子を気にかけていた者は多く、現場が騒然となりかけたその時。
「スライ侯爵!! ローズ殿!」
「ローズ!!」
「ご無事ですか!」
ボーンズ辺境伯とローズの夫である公爵、会場の警備にあたっていた国境警備隊の騎士達、公爵夫妻の護衛騎士等がバルコニー前に駆けつけます。
「この女! ワインに毒を入れたのか!?」
護衛騎士のひとりがメイドを拘束しようとしましたが、彼女はその動きを予測していたのかサッとかわします。そして高らかにこう宣言したのです。
「あーら、ワインが毒入りだとご存知なのね? 私は貴方の指示でワインを侯爵様に飲ませたのに!」
「なっ、嘘だ! お前のような下働きの女ごときの言うことを誰が信じるものか!!」
護衛騎士は鋭い眼光でメイドを睨み付けました。しかし先程まで地味に慎ましくしていた筈のメイドは怯むこともなく、ソバカスだらけの顔に不気味なほどの余裕の笑みを浮かべます。
「ふふふふ。下働きの女ごとき、ね。公爵様の護衛騎士様となら確かに信用の度合いは違うでしょう。でもね、悪事を嗅ぎ取り、暴く【鼠】はどこにでも潜んでいるものよ」
彼女の笑みと口調。そして苦しんではいるものの、何故か咳き込むばかりで一向に倒れないジョージとローズ。想定外だらけの状況に男は内心焦り、声を荒げました。
「いいから来い! 言い訳は後で聞く!」
男が再度メイドを捕まえようとしますが、またもや彼女は俊敏にサササッと身を翻し避けます。それにカッとなった男は拳を振り上げました。
「このっ……!」
ドッ!!
「うッ……」
メイドはほんの少しだけ苦しみました。それは男に殴りつけられたからではありません。その暴力から彼女をかばうため、間に割って入ったジョージが息もできないほど彼女をきつく抱き締めたからです。
「……ぷはっ。ジョー! 大丈夫!?」
「ああ……君は? ケガは?」
ジョージにもギリギリのところで男の拳は届かなかったようです。二人が男の方に目をやると、既にディノが後ろから彼を羽交い締めにしていました。
「離せ! 俺を誰だと思っている! こんなことをして我が国との関係はただではすまんぞ!」
ディノはフンと鼻で笑います。
「誰って、うちの国と平和に交流している公爵様が気にくわない反対派でしょ? 義姉上様が狙われているとはわかっていたけど、まさか護衛の騎士に紛れていたとはね」
「……クソッ、スライ侯爵、そのメイドはお前の手の者だったのか。俺を罠に嵌めたんだな!」
メイドはジョージから離れ、スカートの左ポケットに手を突っ込みました。ポケットから出した拳を開くと、それまで小さく縮んでいた海綿がモコモコと膨らみます。彼女は護衛騎士に向かいこう言いました。
「私が彼の手の者ですって? 違うわ、逆よ。ジョーはね……」
彼女が海綿で顔を拭うと、描いていたソバカスが取れ、つるりとした特徴のない顔が現れます。
「どこにでもいる、普通の私の虜なの!」
そう言うと、右のポケットからメイク道具を取りだして素早く目蓋にすみれ色のアイシャドウを乗せ、唇に紅を差しました。
そして頭を覆っていたお仕着せのキャップを外すと、その下に隠されていた大ぶりの銀の髪飾りが月明かりを受けてキラリと光ります。
「お、お前は……」
「ふふふふ、さっきぶりね護衛騎士様。さあ、これで逆転よ。貴方と私、この場でどちらが信用されるかしら?」
灰色のお仕着せを身に付け、月を背にしてバルコニーに立つ、ヴァイオレット・スライ侯爵夫人は派手なメイクの顔でにっこりと貴族女性らしい笑みを見せました。
「ディノ兄様、彼のポケットを全て確認して! 毒の証拠がある筈よ!」
「いやいや、全て確認する必要はない。俺はちゃんと見ていたよ」
ディノは男を押さえつけたまま、器用に彼のポケットのひとつから小瓶を取り出します。
「ワインの盆を持った君がバルコニーの方を見ている隙に、この男がワインにこれを滴したのをね」
「もう! 兄様ったら! 見ていたのなら止めてよ!」
「いやいや、その時点なら何とでも言い逃れできるさ。ヴァイオレットだって証拠を掴みたかったからこそ、そのままバルコニーの方へ進んで見せたんだろ。途中でちゃんとワインもすり替えていたし」
「……あっ、すり替えたワイン! 誰かが飲んだら大変!!」
「それも俺の部下がもう抑えてるから安心しな。おい! コイツを拘束しろ!」
ディノの部下と他の護衛騎士が抵抗する男を拘束し、ボーンズ辺境伯と公爵に引き渡します。
「ああっ! ディノ兄様に美味しいところを持っていかれた! まだ犯人に決め台詞を言ってないのに!! ぐぬぬぬ……」
「……決め台詞って?」
「知ってるでしょ!? 『わが王と精霊の名にかけて! 悪は成敗する』って……」
言いながら振り返ったヴァイオレットは思わず口をつぐみます。なぜならそこには、周りを震え上がらせるような冷たさを青い瞳に宿したジョージがいたからです。
「……ヴィオ。それを言いたい為だけに僕との約束を破ったのか」
「や、約束って……?」
「危ないことは絶対にしない、と君が約束したから僕は君が変装するのを許したし、そのメイド服の上に着られるドレスをファーズ夫人に特注で作らせた」
静かに、冷たく。それでいて青く燃える炎のように恐ろしい熱量を持って。ジョージがとてつもなく怒っているのが伝わり、ヴァイオレットは顔をひきつらせながら返答します。
「そ、そうね。お陰であっという間に変装できたわ」
「それが何だ!? あの護衛騎士がバルコニーに来たらすぐに捕まえてもらえば良かったじゃないか! ギリギリまで自分で対決しようとして!!」
「!!」
氷の冷たさを纏っていたジョージの顔が怒りを吐き出した途端、少年のようにくしゃりと歪み、その美しいアイスブルーの瞳からポロリと一滴の涙が落ちます。
「あのとき、咳き込んですぐに動けなかったから……君が本当にあの男に捕まるんじゃないかと、気が気じゃなかった……」
「ああ、あの、私が悪かったわ……」
驚き慌て、夫に詫びようと近づいたヴァイオレットの手を強く引き、ジョージは強く抱き締めます。
「あっ……」
「君が傷つけられるなんて耐えられない。頼むからこんな無茶をもうしないでくれ。君は世界で一番大切な存在なんだ。僕の可愛いヴィオ」
ジョージの言葉に心を動かされたヴァイオレットは、そっと彼の背中に手を添えました。
「……ごめんなさい。ジョー。私も貴方が、世界で一番大切よ」
「……」
「ジョー?」
「……本当に?」
「本当よ!」
「本当に本当かい?」
「本当だったら!」
何せ、ジョージにだけは「可愛い」と言われても疑ったり怒ったりしなくなったぐらいなのに……と彼の腕の中で考えていたヴァイオレットに降ってきた言葉は。
「『エドガー王子と十二人の守護獣』よりも?」
「……は?」
「「ブフッ」」
ディノと、いつの間にかその横にいたリリーが同時に吹き出しました。
「やっべぇー! 物語に嫉妬するとか! ははははっ!!」
「ふっ……ディノ、わ、笑っちゃかわいそ……ふふふっ」
とても楽しそうに笑う二人に、憮然とした顔を向けるジョージ。
「ディノ、君も物語のせいでリリーがこんな無茶をしたら、と考えてみろ。笑う気にはなれないはずだよ」
「ははっ、うちの素敵な奥さんは18歳になっても"十二病"が治らない重症患者とは違うんでね」
「ディノ!」
「おっと失礼致しました。スライ侯爵夫妻、ご機嫌よう」
ディノはおどけながら二人に礼をしてみせ、リリーの手を取って再びダンスフロアへ向かっていきます。
そこへ入れ替わりにローズと公爵がやってきました。
「ジョージ、ヴィオ、ありがとう」
「ローズ姉様!」
抱き合い、喜びを分かち合う姉妹。それを優しい目で見る公爵が口を開きます。
「俺からも礼を言わせてくれ。世話になった。妻を狙うならこの国側の仕業と思わせるよう、国境を越えてから仕掛けるだろうと思っていたが……まさか護衛に裏切り者がいるとは」
「ええ、流石にそれは予想できませんでしたわ。護衛騎士様に声をかけられた時には驚きましたもの」
ヴァイオレットの言葉に面白そうに片眉をあげた公爵。
「ほう……? では毒殺は予想していた、と。すり替えたワインに代わりに何か入れたのか?」
「ああ、予想していたのは私ではありませんわ。【蛇】の奥様が、敵はきっと心中に見せかけて毒を使うだろうからと、これを分けてくださったんです」
ヴァイオレットは隠しポケットから小瓶を取り出して見せます。
「……それは?」
「トウガラシのエキスですわ。一滴でどんなものでも辛くなります」
「ははは、なるほど!」
屈託無く笑う公爵の横で、少しだけむすっとするローズ。
「もう、ヴィオったら、先に教えておいてほしかったわ! 知らずに飲んだから本当にビックリしたのよ」
「ごめんなさい。でもその方が敵も騙されると思って……」
ジョージがそれを受けて思わず苦笑します。
「悔しいけれど、確かに効果覿面だったな」
ローズもつられて笑顔になりました。
「そうね。あの男、完全に毒を飲んだと信じきっていたもの!」
話を終えた公爵とローズも楽しそうに手を組み、フロアの中心へ戻ってゆきます。ジョージはそれを見送ってから自分の妻へ語りかけました。
「ヴィオ、僕たちも戻ろうか」
「ええ。でもこの顔で人前に出るのはちょっと……お化粧をちゃんと直さないと」
ヴァイオレットは扇子を取り出し、顔を隠します。
「どんな顔でも君は可愛いのに」
「その言葉が許されるのは貴方だけよ。侯爵様」
二人は軽く笑い、そして扇子の陰でキスをしました。