雪
「こ、こわいよ、それ」
初めて聞く
祖父とハルのエピソード。
えらく動揺し、ガラスのコップを持つ手が震える。
「殺した犬が生き返ったんだ。
ハルさんが正気を無くしても無理は無い、」
な、カオル、
同意を求めてみれば
薫は涼しい顔で
興奮状態の聖を観察する目つき。
「あ、……もしかして」
知っていたの?
待てよ、確か……
(ハルが、なんで狂ったか、誰も3代目の耳には入れてないんやな)
(セイちゃんは聞いてなかかったんや。神流とハルちゃんの因縁やなあ)
「そっか。皆知ってたんだ」
「うん、そやで」
薫がニカリと笑う。
「ここいらで語り継がれてきた怪奇談やで」
誰も、わざわざ聖に喋らなかっただけの事、らしい。
「セイの爺ちゃんは、ハルが持ち込んだ子犬の亡骸を見て、
ハルが殺したと分かった。……おぞましい行為の理由も」
剥製屋は犬殺しに罰を与えたに違いない。
つまり、そっくりな犬をハルに見せたのだ。
ハルは驚き、怯えるだろう。
そうしてもう剥製の客では無い。
これが薫の推理。
「成る程。……だけどさあ、もしかしたら死んでなかっただけかも」
ハルの犬は気絶してただけ。
聖は祖父が自分に似た性分であったなら
面倒臭いカラクリしないだろ、と思ってしまう。
「ほんまのところは分からん。1代目が何したか、分からんが、
ハルちゃんは1代目が死んだ犬を生き返らせたと、言いふらしたんやで」
楠本の婆さんは 遠い日を顧みる
「恋しい男は、人では無い、魔物やったとな、村中に喋って回ったな。
あれは悪魔や、皆の衆で家を焼き払ってしまおう、と言うかと思えば
有り難い生き神様や、祭らんと罰が当たると、言うたり」
ハルは隣村までも行った。
そのうちに、その隣の村までも。
「行った先でな、1代目の写真の回収もしてたんやで。持っていたら罰が当たる、自分が預かると、言うてたわ」
ハルの奇行が知れ渡り
誰も相手をしなくなっても、<徘徊>は続いた。
「ほんでな、親が途方にくれて、離れに閉じ込めたんや。そうや……1回尋ねた。心配でな。それが生きてる間に顔見た最後や」
部屋の一角に
祭壇のような棚が会った。
剥製屋の写真が数枚飾られ
花と酒が備えられていた。
「ハルちゃんは振り袖着て、べったりおしろい塗って、唇真っ赤にして」
姿は異様だが、
会いに来てくれて嬉しい、と言い。
子供は幾つになったと、まともな会話で始まった。
「穏やかな顔で喋ってたんや。ソレが急に立ち上がって、両手を挙げて天井見上げるねん」
どうしたのかと、
当然聞いた。
「ほんなら、ユキマル様のお声が聞こえないのか、と怖い声で」
「ユキマル様?」
セイは犬の名が雪丸だったと、思い出す。
「ユキマル様やで。それがハルちゃんの神様の名前や。
セイちゃんのお祖父さんにハルちゃんが付けた名前やと思うで」
ハルにはユキマル様の声が聞こえた。
「幻聴やな。解離症状もあったな。病気やってんで。何で医者に診せんかったんやろ。
入院させといたら良かったのに」
薫がため息をつく。
「カオルちゃん、昔のことやからな。精神病院の敷居は高かってん。
人様に迷惑かけんように、家で面倒みるのは珍しい事や無い
寝たきりの年寄りも昔は家で看取るのが普通やったようにな」
「ユキマル様と、どんな会話してたのかな」
聖はちょっと気になる。
「それは聞いてないな。いや、聞いたらハルちゃん怒ったんや。怒ってな、帰れと」
「最後がそれか。残念な別れ方やんか。なんと、まあ寂しい話やで」
薫はかなり飲んでナーバスになってきた。
「それっきりにする気は無かった。あんな、……ハルちゃんを訪ねた後で、
長男が川で死んでん」
その子なら
聖には、今も見えていた。
婆ちゃんの首に幼児の小さい顔がくっついてる。
「ユキマル様なんか、おらんで、と言うてん。ハルちゃん怒ってな。罰が当たると」
ユキマル様を侮辱した。
祟りを恐れないのか
お前は宝を失うぞ
「狂人の戯言と聞き流してた。けど、あの言葉がな、長男を亡くした後では、呪いに思えた」
夫や義両親には
ハルと関わるなと止められていた。
それでもハルに情があり尋ねていった結果、
思いも寄らぬ不運に見舞われた。
「婆ちゃん、それは偶然や。ハルの呪いちゃう。
長男は無くしたけど、次男三男長女は順調やんか。
次男は大阪で開業医やろ。孫も跡継ぎや。婆ちゃん、ハルに勝つてる」
薫は随分楠本家に詳しい。
「まあ、そうやな」
婆ちゃんが微笑んだ。
「結局、ハルちゃんが先に逝ったもんな」
勝ち誇ったような笑顔。
聖は通夜に送っていった時に
婆ちゃんが嬉しそうだったのを思い出した。
「セイちゃん、写真みてや。ハルちゃんが持っていかんかった写真や」
言い終わる前にテーブルの上に
モノクロ写真が一枚出現。
背の高い男と
両脇に二人の女。
盆踊りなのか
女2人は浴衣姿。
男は白衣を着ている。
顔は聖にそっくり。
「セイは父ちゃんより爺ちゃんに似てるんやな」
薫が写真を手に取った。
「こっちが婆ちゃんか。丸いちっこい顔で可愛らしいやん。ベビーフェイスやな」
目も鼻も唇も小さいくて
確かに愛らしい。
では、もう一人のアヤメ柄の浴衣の女がハルか。
可愛らしいツトムにちっとも似ていない。
大きな顎は拝屋ススムに似ている。
幅の狭い目は落ちくぼんで老婆のよう。
大きなかぎ鼻が目立つ
男性のような顔立ちだった。
「なんや婆ちゃん、この時点で婆ちゃんの勝ちやで。ハルより百倍可愛いやんか」
薫はさらに酒が回りこぼれ出る言葉に
フィルター無し。
思ったまんま、喋ってる。
「何を言うねん。この時は子供2人産んだあとやで。娘やない」
「そうか。独身のハルより若く見えるで」
「同じ年やで。30近いな。昔でゆうたら、おばはんや」
「30か。セイの爺ちゃんは若々しいで」
「そら、六つ年下やもん」
「へえ、そうか。つまりこういうことか。ハルは昔の言葉で言うオールドミスや。
それが年下で妻帯者の男前に一目惚れしてしもたんやな」
2人の酔っ払いの会話が
聖には随分遠く感じる。
写真の、
祖父から目が離せない。
中年以降の顔写真は、多分家に有る。
だが若い顔を見るのは初めてだ。
祖父の上半身を見るのも初めてだった。
祖父、
神流雪は
神流聖に似ているというレベルでは無い。
全く同じ顔だと
聖本人は驚愕していた。
そして
これも、
父も誰も教えてくれなかったのだが、
祖父、雪は
左の手が無かった。
白衣から出ている左の腕は
つるんとしていて
先が欠如していた。