山羊はいるか?
「桜木さん、離れて……そう……あと3歩下がって、そこに居て。携帯持ってる? ……通報して」
聖は、白衣を脱ぎ、
倒れている人の太ももを、それで縛った。
身体に触る。
仰向けで両手は胸の上。
黒いニット帽を深く被り顔を隠している。
黒っぽい薄手のジャージの上下。
男性で
ヒューヒュー息をしていると知った。
「動いて無いです……足から、血が吹き出てます
神流剥製工房から山田動物霊園に行く途中の……。
誰か分かりません。自分が襲われたんです
……いえ、自分は何も
……犬かも知れないです……俺の犬……」
桜木の声が聞こえる。
しかし、
何が起こったのか聖には
全く見えてこなかった。
瀕死の男が金原ツトムだと、
気づきもしなかった。
頭の中は真っ白。
男のうえに覆い被さる姿勢で
息づかいと、脈を
監視する。
足の怪我のショックで
失神状態かと推測。
脈は弱い
救急車の到着を
サイレンが聞こえるのを、
今か今かと、
ただ、待った。
聖は心臓マッサージを続けた。
他にやるべき手当が思いつかない。
パニックって緊張して
時間感覚があやふや。
桜木の通報から
駆けつけた救急隊員に声を掛けられるまで
実際にはどれ程か知れない。
とてつもなく長い時間の経過だった。
一本のゲームをクリアするくらい
異世界に、とっぷり浸かった感じ。
怪我人は担架で(動物霊園前に駐車と思われる)救急車の方に運ばれていった
聖と桜木は、
一緒に来たらしい警察官に質問を受けた。
(当然だけど)
「で、桜木さんが突然、襲われたんやね?」
見た事のある初老の警察官だ。
「はい。事務所に向かってたら、木の間からガバッて、出てきて」
「そんで、犬が、そやつに跳びかかったと?」
「多分、そうです。自分の犬が……一瞬の出来事で……何か出てきたと思ったら
あっと言う間に、倒れてたんで」
桜木は犬を捜すように辺りを見遣る。
が、
話している間に
辺りに人の数は増え
サーチライトで事件現場を照らしている。
眩しくて、3メートル先は
見えはしない。
「あの……俺の犬かも知れないです」
聖は、シロかも知れないと思い当たった。
シロは、自分より先に異変に気づき、
先に行った。
そして……なんでだか
今、側に居ないじゃないか。
(包丁確保。刃渡り20センチ、血痕付着無し)
警察官の報告。
桜木を襲った男の凶器なのか。
「神流さんも、桜木さんも、自宅と事務所に戻ってください。
ほんでね、犬を確保して欲しいんです」
飼い主を守る為に
犬が暴漢に噛みついたかも知れない。
傷口を調べれば判明する。
犬の歯と照合になるかもと。
まったりした口調で話し、
「救急から顔写真、きましたよ。知ってはる?」
刑事は携帯の画像を桜木に見せた。
「あ……知ってます」
桜木は、聖を見た。
大きな目が全開。
恐怖と不安で
瞼がぴくぴくしてもいた。
「金原ツトムさんです。……霊園のお客様で、」
桜木が答え終える前に、
「なんやて? 金原ツトム、やて? おい、あの金原やて、
聞いたか、皆聞いたか?」
刑事はそこらで作業中の仲間に
1オクターブ高い声で
言い放つでは無いか。
「ツトム?……ホントに?……なんだよ、それ」
聖は身体から力が抜け、へなへなと座り込む。
なんで、ツトムが桜木を襲う?
考えられない。
「セイさん……間違い無く金原ツトムさん、でしたよ」
桜木が申し訳なさそうに、側に突っ立っている。
洗い立ての白衣は、真白なまま。
(セイさんに、なったみたいだ)
何気ない言葉が蘇る。
似たような背格好。
ヘアスタイルも近い。
……遠目には、俺に見えるかも。
「金原ツトムと、あんたと、トラブルがあったんでっか? 恨まれるような何かが?」
刑事は桜木に聴取。
「クレームとかは無かったです。自分は社長に教わった通りに応対しました。
……でも、
自分は金原さんが持って来た犬が、殺されたみたいだったんで
良い印象は無いです。
犬殺しの最低な奴だと思ってます。
態度に出ていたかもしれません」
自ら語らなければ露見しなかった
金原ツトムへの悪感情を
洗いざらい刑事に告白している。
(何て、素直すぎる奴なんだ)
と、聖は桜木の純真さに驚いた。
金原ツトムが桜木を襲う理由は
無さそうだ。
白衣を着た桜木を聖と見誤っての凶行ならば
どうか?
ツトムが自分を襲う?
理由は全く分からない。
でも、
ツトムとの関係は桜木より自分の方がずっと濃い。
その1点だけでも、
襲われるなら桜木より俺の方だろう。
「桜木さんは私と間違われて、金原ツトムに襲われたのでは?」
刑事に言ってみた。
こんな良い奴が、
自分と間違われて災難に遭ったのなら
とても、申し訳ない事だ。
「剥製屋さんとは関わりがあったんですな。まあ、本人に聞いたら、はっきり、しますやろ」
刑事はもう聖も桜木も
見ては居ない。
携帯に視線は固定。
集まって小声で情報共有中。
「セイさん、今、本人に聞くと、言ってましたね。それって命に別状無いってコトでしょうか?」
いつの間にやら桜木がすぐ側に居て
小声で耳元に囁く。
「多分。殺気立った雰囲気が、ちょっと変わってきてる。怪我の状態の連絡は受けてると思うし
……死なないで欲しいよな」
「はい。生きていて欲しいです……もう、こりごり、です」
そうか。
桜木は正当防衛で、なんか犬がらみで
事故死に関わった過去が、
あったっけ。
またこんな流血トラブルに巻き込まれて
気の毒。
自分と間違われたんなら、ホント申し訳ない。
「お2人さん、まだ居たはったんか。帰って下さいよ。
戻ってワンちゃんをな、確保してもらいましょうか」
刑事に、この場を立ち去るように促され、
2人反対方向に行き掛ける。
すると
「アンタの犬も紀州犬くらいの大きさか? 中型犬でっか?」
言って刑事は桜木の背中をぽんと叩いた。
「シロより小さいです。柴犬と何かの雑種です」
「何かって、そいつは日本犬?」
「多分」
「なるほど」
刑事は桜木に、
もう行って、と片手で合図し、
今度は聖を呼び止めた。
「ここらに野生動物、猪、狸、鹿、おりますなあ?」
「はい。居ます」
「人間を襲うような獣は、他には何がおります?」
「熊かな。……滅多に見ないけど」
「熊ねえ。ちなみに山羊は、おる?」
「は?……山羊、ですか。……見た事無い、ですよ」
なんで山羊?
森に山羊?
「確認してくれって、ドクターが。重症の可能性高いと判断し、救急車にドクター乗せて来たんです」
金原ツトムは
搬送中の救急車の中で医者の治療を受けているのだ。
その医者が
山羊は、いる?
と、
聞いてきた。