真夜中の空中散歩
月明かりに照らされた木々がザワザワと波打つ様は海原のようだった。マナが風に乗って流れているのか、それともマナの流れで風が生まれているのか。
湿度と濃いマナとを感じるものの、鉱山周辺の空気が淀んでいないのはマナの流れが外部から完全に遮断されているわけではないからだ。マナを留める結界はあってもザルみたいにとても目が粗い。その粗い結界の縁あたりで、ノードが空を見上げてあたしたちを待っていた。
「サラさん、ジゼル殿、ふたりとも無事で良かったです」
にこやかな表情はちっとも心配していたように見えないけど、彼のそばに降り立つと存在を確認するようにあたしの髪と頬に右手で触れる。ジゼルはパーカーからひょいと身を乗り出し、ノードの左手にあるマナ石に顔を近づけてフンフンと鼻をひくつかせた。
「薄情者の魔塔主が持ってるのは結界石か?」
ええ、とノードがうなずく。ジゼルはパーカーから抜け出してノードの肩に飛び乗った。
楔形をしたエメラルド色のマナ石。文字が刻まれているけど、この世界の一般的な文字ではなく魔法陣や詠唱のときに見かける文字だ。
「採掘現場を囲うように結界石が埋められていました。マナを留めるものですが、周囲の環境と馴染ませるためか意図的に本数を少なくしてあるようです」
「完全な結界だと内部のマナ濃度に耐えられる者がほとんどいなくなるだろうし、野生の魔獣への対処も大変そうだからな」
そうだ、野生の魔獣といえば、
「ノード、森にいる魔獣は捕まえたんですか?」
魔獣? とジゼルが首をかしげた。
「結界を解いたら麓に獣害が広がるんだって」
あたしはかなりザックリした説明で済ませたけれど、それで理解したらしくジゼルは「ああ」とわかったふうにうなずく。
「魔塔主は結界を解くつもりなのか? 解いたら解いたで面倒なことになると思うぞ」
「目についた魔獣はハンターが仕掛けた罠に掛けておきましたが、ジゼル殿の言う通り今はまだ結界を解くわけにはいきません。バルヒェット辺境伯を刺激するようなことはしたくありませんから」
もし結界が解かれたことを知ればバルヒェット辺境伯は焦ってシドに縋りつきそうだ。冷静な判断ができるようなタイプには見えなかったし、そうなれば完全にシドとバンラード大公の思うつぼ。でもルケーツク鉱山をこのままにしておくのは危険過ぎる。
「ノード、結界は張ったままにするんですか?」
「応急処置ですが、マナが尾根側に流れ出るよう東側の結界石の力を気づかれない程度に弱めました。麓への被害は出ないはずですが、根本的な解決にはなりません。本当に危険な魔獣は坑道の中にいるのですから」
でしょう? とノードはあたしとジゼルを見る。
「よくわかったな、魔塔主。結界に閉じ込められた魔獣の気配も感知できるのか」
「いえ、入ってみました」
「えっ?」とあたしとジゼルの間抜けな声が重なった。
「さっきサラさんたちが出てきた穴があるでしょう? あれと同じような穴を他にふたつ見つけたのでちょっとお邪魔してみたんです」
ちょっとお邪魔って……。
「そっちにも黒龍がいたか?」とジゼル。
「穴のひとつには尻尾が七本の子ぎつねがいました。もうひとつは空でしたが、何かが繋がれていた形跡がありました。ジゼル殿のところには龍がいたようですね」
「羽の生えたトカゲだ。他の魔獣もいたが、トカゲの孵化のための部屋があったからあの坑道では龍を作ろうとしているのだろう」
「ギュッ」
タイムリーにチビトカゲが鳴いた。ノードはその子の気配にまったく気づいていなかったらしく、あたしがポケットから出して手のひらに乗せると、「おや」と破顔する。
「かわいい子を連れてきましたね。黒龍ではなく白龍のようです」
たまに見せる菩薩スマイル。ノードが指先で触れようとすると、トカゲちゃんは逃げるように袖口から服の中に潜り込み、あたしはくすぐったさに身をよじる。
「サラさんは羽の生えた白い魔獣に懐かれやすいようです。ねえ、ジゼル殿」
「そうだな。魔塔主も白いローブを着て羽を生やしたらいいんじゃないか?」
ジゼルの他愛ない冗談に、ノードはフッと意味深な笑みを浮かべた。
「イブナリア王国では白いローブは精霊師が身につけるものでした。わたしは魔術師ですから白は似合いません。羽は生やせないこともないですが」
気になる情報満載。
とりあえずノードは黒だろうが白だろうが何でも似合うに決まってる。そして、あたしが何度か着た白いローブは精霊師のものってことだ。ミラニアが実は精霊師だったか、それともミラニア以外の誰かのローブなのか。
それにしても、羽が生やせるってどういうこと?
「そういえば羽みたいな魔術があったな。たしか……風翼」
「正解です、ジゼル殿」
ノードは詠唱し、紡がれた青白い光の文字が彼の背に緻密な翼を描いていった。肩甲骨あたりから生えた左右の翼はノード自身と同じくらいの大きさで、詠唱し終えると光の文字はスウッと闇に溶けて見えなくなる。
そこにいるのはいつも通りのノード。羽が生えたようには見えない。
「せっかくなので夜の空中散歩でもしながら帰りましょう。ゲートよりも気づかれにくいですし」
ファサッと風が起こり、リボンでくくったあたしのポニーテールがゆらっと揺れた。ノードの背に生えた透明な翼は、まったく見えないわけではなく水の翼を背負っているように景色をゆがませる。
「風翼術で飛ぶのは子どものころ以来かもしれません」
ふふっと無邪気な笑みを浮かべる二百三十才の魔塔主。
「帰りましょう、サラさん」
風が木の葉を巻き上げ、ノードはタタッと助走して地面を蹴った。ふわっと濃紺のローブがなびく。あたしはその後ろ姿を追って森の上に出た。
「主ぃ」
ジゼルはパタパタと羽を羽ばたかせて一生懸命ついて来たけど、あまりに情けない声を出すのでパーカーのフードの中に入れてあげた。
「ぼくが遅いんじゃなくて羽の大きさが違いすぎるんだ」
地団駄踏んでるのか、ジゼルはあたしの肩をフミフミする。
「遠回りですが結界を避けて山を下りましょう。シドはまだ採掘現場にいるようです」
「ノードはシドと顔を合わせてないですよね。イブナリアの魔術師のシドであってるんですか?」
「遠目ですが姿を見ました。あの体格と魔力の気配はシドでほぼ間違いないと思います。サラさんたちは先ほど接触したでしょう? 魔術で攻撃されたということは、彼にはサラさんが見えたようですね」
「顔もばっちり見られたぞ。だが、主がぼくを連れ去ったかどうか確信を持っていないはずだ。主の服の中に隠れていたからな」
なるほど、とうなずいたあと、ノードは「サラさん」と手を差し出した。握り返すと方向転換してルケーツク鉱山から離れていく。
「シドの魔力量は上級魔術師レベル。バンラード王国に出入りしているだけあって完全に魔力抑制できる魔法具も持っているのでしょう。月光の庭園の事件のとき彼が近くにいたはずですが、魔力は感知できませんでした」
「たしかに平民街で遭遇したときも雑魚としか思わなかったな」とジゼル。
ずうっと向こうの山の端にひとつ目の月が沈みかかっていた。
「わたしは夜が明けたらトッツィ領に向かうことにします」
「ユーリックに会いに行くんですか?」
はい、と厳かな声で返事が返ってきた。
「ルケーツク鉱山と蝶西閣での獣人の不当な扱い、銃の使用、それに違法な魔獣飼育。魔法具と魔獣が絡んでいるので魔塔の案件ではあるのですが、バルヒェット辺境伯がすでに帝国法に従うつもりがない以上、わたしが魔塔主だと明かして詰め寄ったところで簡単に片付くとは思えません。バルヒェットがグブリア帝国に反旗を翻すのはすでに時間の問題のようですし」
そして、そのタイミングを計っているのはバルヒェット辺境伯ではなくシドかバンラード大公。
「クラリッサは一足先にアルヘンソ辺境伯領へ立ちました。バルヒェット辺境伯領とアルヘンソ辺境伯領は陸続きのため、独立となると領境にも動きがあるはずです」
「なあ、サーカスなどやってる場合か?」
ジゼルの声は心配しているふうではなく単に疑問を口にしただけのようだ。
「ジゼル殿の言う通りですが、サーカス公演を中止したりバルヒェット港から離れたりすればいつ何を仕掛けてくるか分かりません。とりあえず今は時間稼ぎが必要です」
あたしが知っている獣人虐殺エピソードとはずいぶん展開が変わってしまったけど、ユーリックとナリッサはトッツィ領に向かい、おそらくその後バルヒェットを目指すはず。小説と違って、彼らにバルヒェットの状況を伝えるのは下っ端の騎士ではなく魔塔主だ。
「ノード、なるべく早くユーリックを連れて来てください。東部騎士団の軍船じゃなくてザルリス商会の商船で」
商船という言葉を聞いて「ふむ」とノードが漏らす。
「たしかに商船の方が警戒されないでしょうが、バルヒェット側に魔術師がいるので商船では標的になるだけです。ユーリックが命じれば協力するとは思いますが」
「商船でもノードが乗れば軍船です。それに、あたしの読んだ獣人虐殺エピソードでは東部騎士団の水軍にザルリス商会の商船が帝国旗を掲げて加わっていました。被害にあってるのは獣人だから」
背中でケケッと笑い声がし、ノードも観念したというように苦笑を浮かべた。
「スクルース殿が最前線にいるわけですし、かわいい孫娘のためならザルリス商会の会長も二つ返事で協力してくれるでしょう」
意味不明の発言にあたしが首をかしげると、ノードの口から思わぬ言葉が飛び出した。
「ルースとマリーは両家公認の恋人同士らしいですよ」
「えっ?」
そんなにサラッと言われても、あたしの知ってるツーショットは無謀な青い鳥を見てため息を吐く皇女殿下の護衛騎士。
「正式に婚約してるわけではないようですし、騎士団では秘密にしているようです。聞いた話によるとサーカス公演の最中に舞台上でプロポーズしたとか。興味があったらゼンに尋ねてみるといいですよ」
小説では名前も出てこなかった二人の騎士にそんな面白……じゃない、素敵なエピソードがあったなんて。マリアンナのためにもスクルースのうっかりはあたしがきっちりフォローしないといけない。決意を新たに、あたしは「ノード」と声をかけた。
「シドはサーカス公演の最終日に仕掛けるつもりみたいでした。スクルースに舞台の結界を解かせてコトラを魔術で使役しようとしてるんだと思います」
「コトラを?」
不思議そうにノードが問い返すのも当然。コトラには使役魔法なんて効かないんだから。
「一番大きい魔獣は何だってシドが聞いたから、スクルースが白虎って答えたんです」
クッ、ケケッとノードとジゼルが笑う。
「それはちょうどいい。コトラに一芝居うってもらいましょう」
ですが、と笑みを引っ込めてノードは真面目な顔であたしを見る。
「サラさん、スクルース殿が連れて行かれた先にシドがいたらすぐ報告を、と言いませんでしたか?」
あっ、墓穴。
「きっ、緊急事態だったんです」
あたしは辺境伯がいたことや魔獣とスクルースとやりあったことを早口でバババッと説明した。もちろん数秒移動でシドの目の前を駆け抜けたことは内緒。スクルースは自力で魔獣をやっつけたことにした(信じてくれたかどうか怪しいけど)。
「まあ無事だったんだからいいじゃないか」
ジゼルはそう言ったけどノードの顔は険しいままだ。
「スクルース殿は意図的に自分がラビの代わりになるように仕向けたのでしょう。ですが、もう少し慎重になってもらわないと困りますね」
「自ら危険に飛び込んだのだから死んでも自業自得だろう? それに、魔塔主がその場にいたとしても余計面倒なことになっていたとしか思えんが?」
ウケケッという笑い声はノードのひと睨みでピタと止まる。
「公演最終日まで猶予があるとは限りません。正体不明の女性が鉱山に侵入し、捕まえた魔獣がいなくなったのですから」
シドと出くわしたときジゼルは服の中に隠れていたけど、タイミング的にはどう考えてもあたしが仔猫強奪犯だ。せめてあたしとサーカス船が無関係だと思ってくれたらいいけど。
「エドにジゼルの捜索願を出してもらったらどうですか? ジゼルは行方不明、サーカス船は魔獣を奪われた被害者ってことで。スクルースは明日の夜中に蠢桜に来るよう言われてたし、あたしとグルだと思われたら何されるか。小説とは展開が変わったから追手に矢を射かけられることはないだろうけど、地下闘技場で銃を向けられるほうがよっぽど危険……」
ふと視線を感じて隣に目をやるとノードがあたしを見つめていた。魔塔主様の風翼術は前方確認する必要もなく自動運転機能付きらしい。きっと景色を頼りにするのではなくサーカス船の魔力を目印に飛んでいるのだろう。
「スクルース殿のことがずいぶん心配のようですね」
ん? これはもしかしてやきもち?
スクルースにはマリアンナがいるって自分が教えたくせに。
「ノードのことも心配ですよ」
「それなら一緒にトッツィ領に行きますか? 数日は戻って来れないかもしれませんが」
「数日……」
一緒に行きたいのはやまやまだけど明日の夜にはスクルースが蠢桜に行くことになっている。一人で行かせるのは心配だし、かといって行方不明のジゼルを連れて行かせるわけにいかない。
「魔塔主、主を試すようなことをするな。連れて行く気などないくせに」
「えっ?」そうなの?
「魔塔主について行ったところで堂々と隣にいるわけにはいかないだろう。主はずっと隠れていないといけないぞ」
「そうなんですか?」
「ジゼル殿の言う通りです。ユーリック殿下にサラさんが一緒だと知られるわけにはいきません。殿下はサラさんを客人として扱おうとするでしょうが、その客人は他の人には見えないのですから」
連れてくつもりがないなら思わせぶりなことは言わなくていいのに、ちょっと浮かれた分だけ気持ちが落ち込む。だって、トッツィ領まで行ってしまったらおそらくノードの位置は感知できなくなる。
「サラさん、そんな顔しないで下さい」
あたしはどんな顔をしてたんだろう。
「サラさんがスクルース殿を心配する気持ちはわかります。何をやらかすかわからないのはサラさんといい勝負ですから」
「……あたしが心配ですか?」
あたしと離れるのは不安ですか?
いなくなったら寂しいですか?
「シドはサラさんを魔術師だと思っているはずです。サーカス船との関与を確かめようとするでしょうから船への出入りは慎重に。港周辺でも周囲には警戒するようにして下さい。シドの気配を感知したら近づかないように。感知しなくても魔力抑制具があるので注意は怠らないで下さい」
「……蠢桜には?」
あたしがおずおず口にすると、ノードはハァとため息を吐いた。
「行くなと言ってもどうせ行くのでしょう? それなら舞踏会の時のように天井裏にいて下さい。シドに見られた服は着ないように」
さっきから注文が多すぎて、なんだか……
「ノード、お母さんみたい」
流れていた景色がピタと止まって、「あれ?」と思う間もなくグイッと引き寄せられて唇が重なった。キスされたのはわかるけどロマンチックな気分になる前に疑問符が頭を埋め尽くしていく。
「サラさんの世界の母親はこういうことをしますか?」
「しません」
「そうですか」
ニコッとほほ笑んだノードの背後の夜景がゆらんゆらんと揺れて見えるのは風翼でホバリングしてるから。耳元で聞こえた「まったく」という呆れ声はジゼル。
ノードは何事もなかったように飛行を再開し、その頃にはあたしにもサーカス船の魔力がかすかに感知できた。しばらくすると夜空を映したニラライ河の水面が見えてくる。こっそりと埠頭の塀を飛び越えたときには街明かりはほとんど消えて月はふたつとも沈んでいたけれど、船底では団長が不機嫌な顔で魔塔主を待っていた。
「バンラード大公が来るんだと。公演最終日に辺境伯と一緒に観覧するから一番いい席を用意しろだってさ」
干し肉にかぶりつこうとしていたジゼルが顔をあげてケケッと笑った。
「コトラとバンラード大公の対決とは見ものだな」
「どういうことだ?」と眉をひそめるエド。予想外に大胆な謀略に唖然とするあたしの横で、珍しくノードが舌打ちした。




