戦いのあと
「魔塔主殿、来るのが少々遅くはないか?」
黒に近い濃紺のローブをはおった魔塔主は、手に持っていたマナ石ランプを地面に置いて恭しく頭を下げる。
「オーラを発現されたようで何よりです。ユーリック殿下」
血だらけの皇太子を前に笑顔でいられるこの男は明らかにおかしい。魔塔主は三百年生きていると聞いたことはあるが。
「魔術師が逃げたぞ、魔塔主殿。この責任はどうとる?」
「すでに追手を」
その言葉に、少年はフッと肩の力を抜いたようだった。
「早いな。見ていたのだろう」
「さて、気配は感じておりましたが。皇太子殿下のいつもの戯れかと思って様子見しておりました」
「ああ、やはり気づいていたか」
「殿下が獰猛な魔獣ばかり狩ってしまうので、魔塔の林は生態系が崩れてしまいます」
「適当に連れて来ればいいだろう?」
「それは皇室から正式に許可いただけたと思ってよいのですか?」
「おれが殺した分の補充ならな。父上にはあまり知られたくない」
「承知しました」
「おれの練習相手になりそうな魔獣を入れたら教えてくれ。狩りに来る」
「それでは元の木阿弥ではありませんか」
少年はそれにクッと笑い声で答えた。
魔塔主は会話のあいまに詠唱し、光の文字が中空に表れて少年の傷を包み込む。信頼しているのか少年は彼にすべてを委ね、林の闇を見つめていた。
「さっきの魔術師は口が軽い奴だった。おそらく密入国者だろう。雇い主は貴族だろうが、お前に皇太子殺しの罪を着せる気でいたぞ」
「表では魔術を否定しながら裏で魔術師を雇うとは、貴族たちの自己矛盾には呆れますね」
「捕まえられそうか?」
「あまり期待されませんよう」
「わかっている。国外に逃れられてはどうしようもないからな」
「ところでユーリック殿下、この獣人は?」
魔塔主は少年の傍らで立ち上がり、隣の木にもたれかかるおれに目をくれた。マナ石ランプの頼りない明かりでも彼の瞳が紺碧だと分かる。正直、おれはこの男と関わり合いたくない。
「少年がいなければこの場から逃げ去りたいくらいだ」
おれが言うと、魔塔主ははだけていたローブの前を銀ボタンで留めた。体を圧していた魔力がわずかに弱まり、おれはホッと息を吐く。
「すいません。逃げた魔術師にちょっと脅しをかけていました。後は他の者に任せることにしましょう。あなたはどうして殿下と一緒に?」
「恩人だ」
少年はおれが答える前に言う。
「花街で斬られたおれを、その獣人がここまで運んだ。運動神経がいいし、こいつは役に立つ。なによりおれを殺そうとしない」
最後の一言は元採掘工には意味不明だ。
「それで殿下、傍に置かれるつもりですか?」
「ああ。どうやら剣を握ったことはないらしいが、あの運動神経なら上達はすぐだろう」
「では、後々は紫蘭騎士団に?」
「そのつもりだ。平民だと色々面倒事がありそうだから、アルヘンソ辺境伯を一枚噛ませようと考えている」
「アルヘンソ辺境伯様といえば、リリアンヌ様の」
「ああ。母上の弟だ。叔父上には令嬢が二人いるが子息はいないと以前お会いしたときにこぼしていた。おれが引き立てると分かっていれば養子縁組を拒むこともあるまい」
――一体、こいつらは何の話をしているんだ?
ポカンと口を開けているおれを見て少年は苦笑とともに肩をすくめ、魔塔主は幼子に向けるような慈悲の笑みを浮かべる。
「あなたをアルヘンソ辺境伯様の養子にし、ここにいらっしゃる皇太子殿下直属の紫蘭騎士団に入れようという話をしていたんですよ」
あまりのことに頭がついていかない。この間まで辺境地の採掘工で、ついさっきまで奴隷として売られようとしていたおれが、皇太子の騎士だと?
「頭がおかしいのか?」
思わずこぼれたおれの言葉に、二人は顔を見合わせて笑った。
「強制するつもりはない。他人の言いなりは嫌いなようだからな。だが、おれとしてはお前を手放すのは惜しい」
「おれは高値で売れるらしいぞ」
「だろうな。奴隷商にしてはいい見立てだ。だが、おまえはおれにかわれたいわけではないだろう?」
かわれたい、は「買われたい」か「飼われたい」か、どっちだ。おれはなぜこいつになら飼われてもいいと思っている。
「返事はすぐ必要か? 皇太子殿下」
「いや、とりあえず帰って眠ろう。さすがに疲れた」
疲れたと言うわりに、少年は身軽な動作で立ち上がる。そして、おれがグルグル巻きにした布も、血だらけのシャツも脱ぎ捨てて、「さすが魔塔主だな」と左肩をさすった。肌は血で汚れているが、傷はすっかり塞がれたようだ。
「そういえば獣人、おまえの名前は?」
名を問われ、一瞬言葉に詰まった。名乗るときはいつも警戒して偽名を使っていたから、あの女すらおれの本当の名前を知らない。だが、
「ランド」
この名を口にしたのはいつ以来だろうか。
犬として生まれたからにはいつか命を賭けて忠義を尽くそうと思える主君に出会いたい、そう夢見ていた少年の頃。あの夢はまだおれの中にくすぶっていたのかもしれない。
「ランドか。これからよろしく頼む」
頼むと言いながらの命令口調も、まあ悪くない。
「ランド殿、目の上に怪我をされたようですね。治しておきましょう」
魔塔主がかざした手をおれが屈んで避けると、彼は不思議そうに首をかしげた。
「皇太子殿下の命を助けた名誉の負傷ってやつだ。自慢できるようとっておく」
その言葉に少年はなぜか照れくさそうに目を伏せた。「少年」と何度も呼んだが、目の前にいるのは少年と呼んでいい年頃のやつなのだと実感する。
花街で襲われ、死にかけ、家に戻るまでにも刺客に狙われかねない、そんな壮絶な人生を送っている少年。おれが守ってやらねば、と思うのは犬の性か。
「帰るぞ、ランド」
「はいはい、皇太子殿下」
今後の人生どう転んだとしても、この少年以上のやつに仕える機会はなさそうだ。なんと言ってもグブリア帝国の皇太子殿下。むしろこの機会を逃せば再び奴隷商に捕まる可能性も低くない。素直にこいつの言うことを聞いておけば衣食に困らず生きていけるのだし――と、おれの頭は少年に仕える理由を探し続けている。もうそろそろ観念した方がよさそうだ。
魔塔主が無造作に手をかざし、青と黒の光の渦のようなものが現れた。〝ゲート〟という、場所を移動するやつだとすぐに分かったが、実際に見るのは初めてだった。
「ランド殿はあまり魔術に驚きませんね」
魔塔主がつまらなそうに言う。
「辺境地にいたからな」
「やはり国境付近には魔術師がいるようですね。アルヘンソ辺境伯領ではなく?」
「この前までいたのはバルヒェットだ。あそこら辺は特に魔術師が多い気がする」
「バルヒェットですか」
「おれを捕まえたのも魔術師だ。帝都に入る前にどこかに消えたし、それほど強そうには見えなかったが」
ふむ、と魔塔主はゲートを開きっぱなしで考え込む。バルヒェット辺境伯領が国境を挟んで接しているのは広大な魔獣生息域を抱えるバンラード王国。
「モリーヌ皇妃がバルヒェットで静養中のはずだが、おそらく国境から離れた場所だろう。魔獣の出現頻度はどれくらいだ?」
魔塔主に問いかける少年は皇族らしい顔つきになる。
「魔塔に戻ってから詳細を確認いたします。報告は明日。夜もずいぶん更けましたので、そろそろ戻っておやすみください」
有無を言わせぬ物言いは、少年も魔塔主もいい勝負のようだった。「そうだな」と急に疲労を思い出したように少年は長い息を吐く。
「今度こそ帰るぞ、ランド」
「はい、殿下」
皮肉もからかいもなく「殿下」とおれが口にしたことに、少年はわずかに目を見開き、そのあとまた照れたように顔をそらして光の中に入っていく。おれが後をついて行こうとすると、「ランド殿」と呼び止められた。
「主君を盲信するだけの犬にはならないように」
魔塔主のその言葉にどんな意図が込められているのか、おれにわかるはずがない。
「おれを助けるために銀色のオーラ? とかいうやつを発現したって言うし、まあ、恩に報いるだけだ」
何気なく口にしただけだったが、おれは初めて魔塔主の人間らしい表情を見た。彼の目は見開かれ、紺碧の瞳がおれを見据えている。
「それは本当ですか? ユーリック殿下自身が身の危険を感じてオーラを発現したわけでなく?」
「あのとき魔術師が狙ったのはおれだ」
「そう、……ですか」と、魔塔主は顎に手をあてて何か思案している。
「何か問題が?」
おれが問うと、魔塔主は少しのあいだ話すかどうか迷ったようだったが、小さくため息をついて口を開いた。
「皇族のオーラは生命の危機を感じたときに発現すると言われています。そのため、オーラの発現が遅れていたユーリック殿下はこの魔塔の林で魔獣を相手に戦い、自らその状況を作ろうとしていました」
「それで魔獣が狩りつくされた」と、おれが口を挟むと、「ええ」と彼は苦笑する。
「彼の剣が上達するばかりで一向にオーラは発現せず、むしろ強くなったことで命の危険を覚えるほどの状況を作ることが難しくなり、最近はいろいろ思い悩んでいたようですが」
「それで花街に?」と、おれが再び口を挟むと、「それはどうだか」と今度は肩をすくめる。
「ですが、ランド殿の話を聞く限り、殿下にとっては自分の命よりも優先するものがあるようです。逆に言えば自分の命を軽んじているとも言えますが」
「それは良くない」
幼いころから暗殺者に狙われ過ぎて、感覚がおかしくなってしまったのだろう。どれだけ剣が強かろうが、そんなことでは一瞬の油断が命取りになる。花街で、おそらく彼は油断したのだ。
「ランド殿の存在はちょうど良いかもしれません。ユーリック殿下を主君と思うなら、しばらくは彼の傍から離れないことをお勧めします。まあ、彼を主君と認めるならば、ですが」
魔塔主の含みのある言い方に、おれは肩をすくめるだけにしておいた。十才ほども年下の少年を、出会った数時間後に「主君」と認めるのはあまりにも軽率な感じがして主君にも少々申し訳ない。数日ほどおいて、熟慮の末に主君と認めることにした、くらいがいいだろう。これが大人の判断というやつだ。
「ランド!」
突然の声に思わず一歩跳び退ると、ゲートから顔と手だけ出した主君がクッとおれを見て笑った。
「いつまでも何やってるんだ。ゲートが怖いなら手を引いてやるから来い」
いや、そういうわけじゃないんだが。思わず「お手」に反応する犬になってしまったおれを、魔塔主は穏やかな微笑で見守っている。やはりこの男は苦手だ。
「獣人は感覚が鋭敏だからゲートにも過剰反応するのかもな」
主君はそんなことを言いながらおれの手を引く。おれは青と黒の光の渦に飲みこまれ、船酔いのような吐き気を覚えて突っ伏したら、手のひらがフカフカの絨毯を捉えた。
顔をあげると、豪華絢爛な金の額縁に大きな絵画。紫の花が描かれているが、おれにはその絵よりも額縁の方が高価に見える。薄暗い部屋にはマナ石ランプがひとつだけ灯っていた。
「ここは?」
「おれの寝室だ。寝るのはソファで構わんか?」
「絨毯の上でも十分だ。おれの知ってる布団より柔らかい」
好きにしろ、と主君は服を脱ぎ捨ててそのままベッドに潜り込む。
「なあ、誰か来たらおれが侵入者だと思わないか?」
「武器も持たずにいびきをかく侵入者がいたらお笑いだ。気になるなら服を脱いでおけ。おれが男色に走ったとでも思うだろう」
「そんな噂が立ってもいいのか」
「構わん。どんな噂でもおれに注目が集まるのは歓迎だ」
とんだ目立ちたがりの皇太子だとこの時は思ったが、それに別の意図があったと知ったのはずいぶん経ってからのことだ。
それはおれが死ぬほど努力して剣術だけでなく礼儀作法や政情に関する知識も詰め込んだ後のことで、その頃には主君は十七才になり、紫蘭騎士団に密かに所属する獣人もおれ以外に四人加わっていた。




