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触れられないっ!

触れることができない女性の話。



私は、好きな人に触れることが出来ない。

触ると壊れることを知っているから、本当に大事なものは触るんじゃなくて見るだけにしている。

それがおかしい事だとは全く思っていない。

むしろ、正しいことをしていると思っている。

だから、友人たちの会話を聞いた時は心底驚いた。


「好きな人に触られるとドキッとするのにさ、マジで会社のジジイの指先だけでも触れたら虫唾が走る」


学生時代の友人たちと休日にランチをしていた時、夏野菜のカレーを頬張った歩美が、眉間に皺を寄せてスプーンを宙でクルクル回しながら言った。


「分かる。あの野郎、自分のキモさに気付いてないよね」


フォークを器用に使い、パスタの麺と具材を丁度よく巻き付けた絵里が頷きながら同意する。


「そんなにキモイの~?」


同じくパスタを頼んだ百合がスプーンを使いながら難しそうにフォークで麺を巻く。

そんな3人を眺め、私は熱くて手を付けられないグラタンをフォークでつつきながら、キモイオヤジの方が触れるなと思った。


「私は別に平気だよ」


そう言うと、最初のふたりが犬のようにキャンキャンと吠えた。


「ないないない!そんなこと絶対にない!」

「キモオヤジだよ?上司にベタベタ触られたら嫌でしょ?」


そのお触りに下心があるなら、少し嫌だなとは思うけど、若い女に触りたいのは男の性だと思うから笑ってあしらえる。


「智子はさ、人との距離が変わっているから」


百合がそう言った。


「まぁ確かに、ボディタッチとか平気だもんね」

「だから男が直ぐに隙をついてくるんだよ」


「ねぇ~」なんて3人で顔を見合わせている。


「でも、好きな人の方が触れられなくない?」


グラタンが食べれるかどうか、フォークで取った具材を少し唇に触れさせながら、慎重に口に運ぼうとしている時にそう言った。

よし、食べれる。そう思って口を開けた瞬間、3人の「えー!」という声が店内中に響いた。


「智子、それはないよ」

「好きな人がいたら触れたくなるよ」

「あれ、ともちゃん彼氏いたよね?」


そう、私には彼氏がいる。

1年前に告白されて付き合うことになった、飲み会という名前の合コンで出会った3歳年上の会社員。


「いるけど……」

「どうしてるの?」


百合が尋ねた「どうしてる」は、夜のことを言っているのだろう。


「まぁボチボチ……」


私の答えに3人は納得をしていないのか、顔を見合せながら私がグラタンを食べているを引いた目で見ていた。


「どうなのそれって」

「彼氏は何も言ってこないの」

「拒否られるってキツくない」


手を組んだり頬杖をついたり、まだ皿の中には料理が残っているのに、会議を始めた3人を見て私は、私がおかしいのだと知った。


「まぁ色んな愛の形があるわな」


歩美のその言葉を最後に、それ以上言及されることは無かった。

こんなに否定されると思っていなかったから、それ以降に彼女たちが話す言葉は耳に入ってこなくて、私はずっと熱いグラタンをフォークでつついてはいつ食べられるのかを考えたりした。

一生食べられないかと錯覚するくらいに。


「じゃあまた、月一で報告会でもしようね」


絵里の声が突然耳に入って来て驚いた。

いつの間にか我々4人は店を出て、電車の改札前に居た。


「智子ったら、途中から上の空だったよ」

「色々聞いちゃってごめんね」

「ちょっと心配になっちゃってさ」


25の女の闇に触れたからなのか、哀れみの視線を向けられ、私は慌てて手を振った。


「全然!今日は楽しかった!また報告会しようね」


精一杯の笑顔を見せると、3人は安心したように別々の所へと足を進め、別れた。

私は1人、電車が来るホームのベンチに座った。


「疲れた」


乗るはずの電車を見送り、誰もいなくなったホームで1人、そう呟いたのは口に出さないと彼氏と別れたくなると思ったから。


「もう貴方といることは出来ないの。貴方は悪くないわ。全部私の責任なの。ごめんなさい、やっぱり私は貴方を好きになれない」


マスクの下で、声には出さずに口を動かして言ってみる。

私の話を聞いた3人は、私が彼のことが好きだから触れられないのだと思い込んでいたけど、逆なのだ。

私は、彼のことが好きではないから、普通に触れることが出来る。

手を繋いで散歩とか、食べるみたいなキスとか、私の臓器に触れることも体を密着させることも、何でも出来てしまう。

しかしそれが出来るのは、私は彼のことを好きではないから。

そしてその事を、彼は知らない。

知らずに今日も、夜は彼の家で会う約束をしている。


「最低だな、私」


これはちゃんと、口に出して言ってみた。


彼氏である哲さんの家は私の家の3駅先にある。

私が住んでいる所は駅前なこともあって、飲み屋やスーパーが所々にあり、昼間はご婦人、夕方は子供たち、夜はサラリーマンなど、ある程度の人通りがある。しかし、彼の家周りは畑やら田んぼやらが多く、人より虫と動物の方が多く住んでいる気がする。

3駅しか変わらないはずなのに、その間には時空の変動でも起きてるんじゃないか、と毎回電車に乗りながら錯覚する。

そして彼が住んでいるのは彼の実家である。しかしご両親は数年前に亡くなり、今は彼しか住んでいない。木造建ての大きな平屋で、私は彼のことが好きではないけど、彼の家に行く事は好きだった。

夕方みたいに光るランプの照明、軋む廊下、立て付けの悪い磨りガラスの引き戸、干し草の匂いがする畳、などなど。あの家にあるもの全てが何故か懐かしい気持ちを誘い、いると穏やかな心を持てる。

そしていつも、私が遊びに行く時はおでんのように大きな具材の煮物を作って、彼が「おかえり」を言ってくれる。

その時、私は最高に幸せな女だと思うのと同時に、好きではない男の実家を好きでいることに罪悪感を覚えるのだ。


「おかえり」

「ただいま」


そう言って息を大きく吸うと、いつもの煮物の匂いが肺を満たす。


「いい香り」

「お腹空いてる?まだもう少しかかるんだけど、その間にこの間のゲームの続きをしようよ」


彼は30手前なのに、時々少年のような無邪気さを見せる。


「いいね」


そして私も、彼と同じ年齢の少女になるのだ。

2人でバタバタとテレビがある部屋に向かい、用意されていたゲームのコントローラーを操作する。

彼の父親が少年期の彼のために買ってくれたものだから、だいぶ年代ものらしいけど、今でも楽しく使える。物持ちが良いのだろう。彼の家にはそういった品物が沢山ある。


「今日こそ倒そうね!」


私は胡座をかき、前のめりになる。


「ともちゃんは力が入りすぎてるからなぁ」


私は彼と付き合うまでゲームをした事がなかった。厳しい家庭で育ったのではなく、ゲーム自体に興味がなかった。

でも彼の家で初めて触らせもらってからは楽しくて仕方がない。どハマりしている。


「だって楽しいんだもん!」


鼻息荒く私が言うと、彼はゲラゲラと仰け反りながら笑った。

私は、ヒッヒーッと引き笑いになる彼の笑い方が好きである。

好きな人に触れられない私だけど、好きになった人は何人かいて、私が初めて好きになった人がその引き笑いをしていた。


中学生の時。

同じクラスで図書委員を一緒にすることになった背の高い坊主の男の子がいた。

剣道部で色白の吊り目で寡黙な彼は、他の同い年の男子たちとは一線を画していて、自然と目が行ってしまう男の子。

かっこよかった。

でもそう思っていたのは私だけみたいで、彼と同じ委員になったことを嬉々として友人に話したら、


「あの子って冷たくて怖いよ。ともちゃん、代わってもらいなら言いなね」


なんて、可哀想な子を見る目で言われたっけ。

でも、私はもちろん誰にも「代わって」なんて言わなかった。

昼休みの30分だけ、私は彼と2人きりだった。

彼はその30分間、ずっと目を閉じていた。

寝ているわけでは無さそうで、だからといって暇そうでもなくて、毎日毎日、図書室のカウンターで静かに目を閉じていた。

だから、私は1冊の本を読みながら時折、彼の横顔をジッと見ていた。


「見すぎ」


いつもと変わらない昼休み、いや、図書室には誰もいなくて、本当に2人きりだった昼休み。

私はいつものように家から持参していたシリーズ物の物語を持って彼を見ていたら、そう言われた。


「え」

「なにかついてる?」


彼は目を閉じたまま言った。


「え、いや、え」

「視線をずっと感じるんだけど」


怒られる。


そう思った。

気持ちの悪い女だと思ったに違いない。


「ごめん」


持っていた本の形が変わるくらい握りしめ、消えてしまいたいと願っていると、ヒッヒーッという奇妙な声がした。

声の方をチラリと見ると、目を閉じた彼が笑っていた。


「ずっと、ずっと見るからさ、なんか、目を開けるタイミングを毎回無くしてて、花岡って俺の横顔しか知らないんじゃないかって」


肩を震わせ、笑う。


「同じクラスだし知ってるよ」

「だよな」


彼は目を開けた。

涙が出るほど笑ったのか、ヒーッと言いながら目の端を擦る。


「ねぇ、なんでずっと目を閉じていたの」


私はずっと気になっていたことを聞いてみた。


「あぁ……精神統一って言えたらカッコイイんだけど……」


彼はまた笑い出す。


「なに」


私は少し腹が立ってきた。

何も分からないまま笑われるのは不愉快なのだ。


「最初は暇だから目を閉じてたんだけどさ、目を閉じたら花岡の視線を感じて、それが面白くて閉じてたんだ」


ずっと前を見ていたのに、彼はそう言って笑いながら私を見た。


胸が痛くなった。


その顔が声が台詞が頬についた手が、全てがかっこよくて、それを全て私のものにしたくて、「好きだ」と思った。


「花岡はさ、何を読んでるの?」

「これはね」


それから私と彼は、昼休みが終わるまでの間、部活や授業や先生や友達や、話すことは止まらくて、私はずっと話し続けて、彼はずっと聞いていた。

次の日もその次の日も、目を閉じていた彼は私に目を開けて引き笑いをして、私は誰よりも女の子だった。

そしてある日、私は彼と手を繋いだ。

どうして手を繋ぐことになったのか、私から言ったのか、どこで手を繋いだのかとか何も覚えていないけど、彼の白くて大きな掌の厚さと、「冷たい」と言われていた彼の熱い温度と、その事実だけは覚えている。

手を繋いだ次の日だったか翌週だったか1ヶ月経ってからだったか、これも定かでは無いのだけど、ある日の朝礼で、彼は飛ばされたシャボン玉みたいにパチンッと消えた。

まるでいた事が嘘だったかのように、まるで元からいなかったのでは無いかと錯覚するほど、いとも簡単に消えた。

ずっと続くとは思っていなかった。

私は当時、何も知らない中学1年生で、図書室以外で彼と親しくした事はなかった、連絡先も家族構成も知らない。

彼といた期間なんて、半年もなかったのだ。

"好き”は思っていたけど、付き合うとか結婚とか、そんな事は何も考えてもいなかった。

でもあの環境が永遠に続くだろうと信じていたし願っていた。

その願いが消えたのだ。

それはまるで体のどこかからいつも隙間風が吹いているようだった。

何をしていても思い出す。

彼の手を。

声を。

顔を。

テレビを見て笑っていても、登下校中も、授業中も、ご飯を食べている時も。

毎日やずっとでは無くて、フッとした瞬間に、風が吹くように思い出すのだ。

思い出したら後悔しかしなくて、私の手でずっと温めていた何かが砂のように溶けていくのを感じることになる。そしてそれは、願っていたものが消える時、常に感じるようになった。

1番仲良くしていた友人(彼を「冷たい」と言った人ではない)が、海外へと転校。

私を猫可愛がりしていた祖母。

産まれてから姉妹のように一緒に過ごしてきた愛犬、ユキ。

そして、そして、そして……

触れられなくなってしまったのだ。


「どうかした?」


コントローラーを持ったまま動かなくなっていた私の肩を、哲さんが軽く触る。


「あぁ……ちょっと思い出していて」

「なにそれ」


クククッと笑う。


「どうする?疲れてるなら、先にご飯食べる?」


台所に行こうとした彼の腕を掴む。

今はあの美味しい煮物より、思い出を忘れる位の楽しみが欲しい。


「ゲーム、やろう」


私の答えに、彼は「よし来た!」と隣で胡座をかく。2人でテレビ画面に向き合い、「おりゃおりゃ」とか「うおぁー!」とか奇声を上げながら操作をする。

そして今日、初めて最終場面に来た。


「やったぁ!今日こそラスボス倒せるんじゃない?!」


興奮気味に哲さんを見た。


「ちょっとセーブしてさ、先にご飯食べない?」


彼は冷静に、セーブボタンを押して立ち上がった。


「腹が減ってはなんてやらってやつ?」


私も立ち上がって彼の後ろを着いて行く。


「そう、そんな感じ。温めてくるからくつろいでてよ」

「うん」


素直な犬みたいに私は元の部屋に戻って、2人が使うには些か大きすぎる分厚いテーブルの前に座る。しばらく部屋に飾られてある油絵を眺めていたが、お茶でも入れようか思ってテーブルに手をかけたとき、「くつろいでて」と言った彼を思い出す。なんだか近寄って欲しくないような気がして、私はもう一度腰を下ろした。


「お待たせー」


障子の後ろで声がして、建付けの悪い扉をガコガコッと言わせながら開ける。


「ありがとー」


彼の両手にはお盆が2つ。

1つには大皿の煮物とコップが2つ。

もう1つにはご飯茶碗が2つとお茶のポット。

彼の腕は震えていた。


「無理に持ってきちゃ駄目だよ!危ない」


小言を言いながら片手のお盆を受け取りテーブルに置く。

彼は「ごめんごめん」と笑う。


「もー」


なんて言いながら、もし彼と結婚をしたらこんな感じなんだろうなと思った。

悲しい事も辛い事もそこまで起きなくて、私も彼も相手を尊重しながら、支え合えるのではないかと思った。


ただ、私が彼を好きではないだけ。


でも好きではないだけで、嫌いでは無いのだ。

むしろ好き。

恋ではないけど。


「じゃあ食べようか」

「いっただっきまーす」


大根、人参、小松菜、里芋、豚バラ。甘辛く煮られたそれらはご飯に合っていて止まらなくなる。


「今日は楽しかった?」

「ん?」

「ほら、友達とのご飯」


ご飯を口に頬張り、首を縦に振る。


「たのひかった」


その様子を、また彼はヒッヒーッと笑った。


「よかったね」

「ふふふ」


美味しいものはあっという間に無くなってしまう。

お茶で一息ついたあと、私はゲームのことを思い出した。


「さっ!再開しよう」

「その前にさ、ケーキ食べない?」

「え?」


テーブルの皿をお盆に乗せて彼は言う。


「今日の買い物帰りにさ、美味しそうなケーキが売ってて。ともちゃんフルーツタルト好きだよね?」


好きだけど。


「今はお腹いっぱいだよ」

「じゃあ珈琲いれるよ」


お盆を持って立ち上がる。

私ももう1つお盆を持って立った。


「ねぇゲームの続き……」

「お腹いっぱいになってゲーム画面なんて見たら酔っちゃうよ」


そんな事はないと思う。


「でも……」

「明日も休みだしさ、気長にやろうよ。そうだ。この間テレビで面白そうな映画がやってて録画したんだ。それ見ない?」


矢継ぎ早に言葉を紡がれると分からなくなる。


「ゲーム嫌い?」

「好きだよ」


彼は皿を水につけ、新しいコップに珈琲粉を入れる。


「じゃあ続きしようよ。ようやく最終場面なんだし」

「それは今度にしよう」

「はぁ?」


訳が分からない。


「哲さん、何を言ってるの?ラスボスを一緒に倒すの楽しみにしてたじゃん」


私は親に約束を破られた子どもみたいに詰め寄った。


「ごめん」

「ごめんじゃないよ。訳わかんないよ」


珈琲を入れ終えた哲さんはコップをふたつ持って部屋に戻ろうとする。


「ラスボスは倒すよ。絶対に。でも、今じゃなくて良いかなって」


廊下を歩く後ろを着いていきながら「はぁ?」とか「なんで?」とかブツブツ言う。


「ねぇもう今日でいいじゃん。ラスボス倒せるのは今日しかないよ」


私は、楽しみをお預けされるのを我慢できない。


「だって、倒したら終わっちゃうじゃん」


テーブルの前に座った哲さんは真面目な顔をしてそう言った。


「そりゃあそうでしょ」

「そうしたら、ともちゃんはもう来てくれないでしょ」

「は?」


哲さんは、私がゲームをしたいが為に来ていると思っているらしい。


「そんな……小5じゃないんだから」


私が呆れて笑いながら言っても、哲さんの顔は変わらない。本気で言ってるのか。


「ラスボスを倒したら、ともちゃんがここに来る理由がないよ」


珈琲を一口飲む。


「なんで?私は哲さんの彼女だよ?理由がなくても会いに来るよ?」


そういった時、彼は優しく笑ってハッとした。

彼は、私が自分に恋をしていない事に気がついている。


「ラスボスを倒したら、もう今日は終わりにしようか」


珈琲を飲み終え、セーブデータを起動させた。


「はい、どうぞ」


彼から渡されたコントローラーを受け取り、私はテレビ画面の前に座る。

大きな敵の前に、男女のキャラクターが2人。

これが終わった時、私は彼と別れようと思った。

この愛しい空間を彼のために手放さないといけない。

とある詩人が言っていたっけ。


『愛とは何よりも傷つきやすいもので、それは強く握ってはいけない。離すときに痛むから』


って。

その通りだったんだ。

引き笑いの色白だった手を、ハイタッチをした友人の掌を、私の頭を撫でた祖母の優しさを、白く大きかったふわふわの毛を、私はいつも、少しだけ強く掴んでしまう。

ゆるく掴んでいないといけなかったのに、離れないぐらいの強さで、握ってしまったのだ。

好きではない人、恋ではない人。

そんな人に願ってはいけないことを、願ってしまった。

消えて欲しくない。

ずっとずっと、離したくはない。


「泣いてる?」


いつの間にか涙が出ていて、画面も彼も滲んでいた。


「ちょちょちょちょっと待って」


彼は違う部屋に行ってしまった。

私は1人、コントローラーを握りしめて泣いた。嗚咽や鼻水で顔中がグチャグチャになることも気にせずに泣いた。


「これ、使って」


差し出されたティッシュを無言で受け取り鼻をかむ。


「終わる間近が、1番悲しくなるんだ」


私の隣で正座をした彼が言った。


「一生なんて夢幻と思ってるから、終わりが見えると手放したくなくなる」


「ごめんね」を付け加えた。

血の繋がった家族がいない彼は、私よりも別れに敏感なのだ。


「哲さん……」

「うん」

「好き」


別れよう。

そう言わないといけないのに、出てくる言葉はそれだった。


「違う……違わないけど、違くて、えっと……」

「知ってるよ」


彼の方を向いた。

彼は、笑っているのか泣いているのか分からない顔をしている。


「ともちゃんが、僕のことを好きなのは知ってる。僕に恋をしていないことも、ちゃんと分かってる」


彼は、哲さんは私のティッシュを握りしめた手を両手で優しく覆った。


「あ」


哲さんの手から私の手へと血が巡ってくる。

私の頬が紅く染まる。

それ以上の事を沢山してきているはずなのに、その手の体温で私の胸は苦しくなった。


「僕はきっと、ともちゃんが嫌だと言っても、離すことが出来ないと思う」


彼はまた「ごめんね」を付け加えた。

私は首を小刻みに振る。


「違うゲームを買おうよ。録画した映画も観よう。買ってきてくれたケーキ、次はお店で食べようよ」


紅くなりながら言った私の提案を、哲さんは嬉しそうに頷いた。


「まずはラスボスを倒そうか」

「ふふ、そうだね」

「ほら、鼻水と涙を拭いて」


笑いながら袖で私の涙を拭う。

泣いていたおかげで、紅くなっていた事には気がついていないみたい。テレビ画面向き直った私達は、2人で並んで胡座をかいた。

向き合えない私達だけど、こうやって並んでなら、好きも恋も越えて、一生一緒に生きていけるかもしれないと思う。

私は懲りずにそうなってほしいと願ってしまう。


消えてしまったらどうしよう。


脳裏に不安が過ぎる。

でも、隣を見ると哲さんがいる。

その事実だけでどうしようもなく嬉しくて、強く握った痛みがあっても生きていける気がした。

このゲームが終わったら、哲さんを強く抱きしめる。

私は初めて、その痛みを感じたいと思った。








作中に出てきた詩はアメリカンゴッドタレントで優勝した、ブライドン・リークさんのものです。

彼の詩は衝撃で、優しくて綺麗で、儚く美しいので、是非。

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