表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/4

乗れないっ!




会社の帰り道、最寄りのコンビニに寄って缶ビールとさきいかを買い、公園に向かう。暖かくなってきてからの最近の楽しみは、アパート近くの公園で晩酌をすることだ。

その公園にはドッチボールが出来るほどの広場と、ブランコや滑り台などの遊具があり、結構広い。

昼は子供や年寄りの遊び場になっているが、夜になると顔が変わり、酔った大学生や俺のような疲れたサラリーマンの憩いの場となる。

俺は定位置である遊具の近くのベンチに腰をかけた。


星がよく見える。


缶ビールを開けて1口飲み、一息ついてから広場に目をやると 、ジャージを着た女が自転車に乗っていた。

正確に言うと、乗ろうとしていた。

この公園には広場と遊具で出入口が2つあって俺は遊具の方から入ったから、来た時には気が付かなった。

他に人はいるのかと思って当たりを見渡すが、俺とジャージ女しかいない。女は1人、自転車に乗る練習をしているようだ。

俺は一度缶ビールを脇に置いて、その女を観察した。

頭の高い位置でポニーテールをしている女は、自転車のサドルに跨ると、ペダルに足をかけた瞬間、時間が止まったかのように停止をし、そのまま自転車ごと横転した。見ているこちらの方が痛くなるような、派手な転け方だ。

自転車に挟まった女は、ガシャガシャと音を立てながらもがき、挟まった体と自転車を剥がすと、自転車の前で正座をしたまま動かなくなった。

手を貸してやろうか。

俺がベンチから立ち上がろうとした時、女はゆっくりと立つと膝と腕についたである土を叩き、意を決したように寝ている自転車を起こした。そしてまた、自転車に股がってペダルに足をかけて転ぶ。


ガシャン。

ガシャン。

ガシャン。


何度やっても転ぶ。

結んだポニーテールが遠目からでも分かるくらいに荒れ、女のゼェゼェという息遣いが、夜の静かな公園に響いて俺の耳にも届いた。


大変だ。


自転車に乗れなくて困ることなんて、ほとんどないのに、どうしてそんなに乗りたいのだろうか。通勤に使いたいのだろうか。全く乗れない自転車を練習してまで、通勤代を浮かせたいケチな女なのだろうか。

俺にはよく分からなかった。

その女をツマミに、缶ビールを呑んでさきいかを食べていると、息の切れた女が自転車を押しながら近づいてきた。


え、なんで。


見ていたのがバレたのか焦ったが、ふと、2mほど離れたベンチに目をやると、女の荷物だと思われる、水筒とタオルがあった。

ベンチの近くには街灯があるから、自転車と共に近づく女の姿形が明らかなった。

その女を見て、俺は目を見開いた。


マドンナだ。


同じ会社の経理部で働いている先輩で、美人・長身・スレンダーの三拍子が揃い、おまけに人に優しく自分に厳しく、後輩にも同期にも御局様にも社長にも、全ての会社の人間から好かれている、マドンナだ。ちなみにマドンナというのは陰口とかではなく、全員が尊敬の意を評してつけられた名誉あるあだ名だ。

さっきまでのジャージ女はどこに行ったのか。水筒のお茶をゴクンッゴクンッと飲むマドンナ、周防七海はモデルみたいで、その姿も雑誌の1ページかのようだった。

空いた口と見開いた目が閉じなかった。


「あれ?町田くん?」


マドンナが俺に気付き、話しかけてきた。


「あ、どうも……」

「やだぁ!いるなら声かけてよ!」


荒れていた髪を結び直しながら、マドンナは俺のベンチに腰をかけ、「あっちぃ」と首にかけたタオルで汗を拭いているが、全く汗の匂いがしないのは、何かの魔法だろうか。


「ね、いつから見てたの?」

「え?」

「ビールもさきいかも減ってるってことは、ついさっきじゃないよね?私が何をしていたか、見てたの?」


マドンナは俺が持っている袋を指さした。


「いやぁ……」


こういう時、茶化していいのか迷う。でも、嘘を言うのは絶対に違うから、正直に答えた。


「周防さんが自転車の練習をしているの、見てました」


ちらりとマドンナを見ると、顔が紅くなっていた。


「やっぱり見られてたかぁ。恥ずかしいね」


手で顔を仰ぎ、マドンナは公園を見渡した。


「ここ、夜はほとんど人が来ないから、誰にも見られないって思ったんだけどな。まさか町田くんがいるとは思わなかったよ。同じ電車だから家が近いことは知ってたけど。あ、私と町田くんって同じ電車なんだよ?知ってた?」


マドンナを照れ隠しなのか早口でそう言った。


「知ってましたよ。何度か声をかけようとは思ったんですが……」

「声、かけてくれたら良かったのに」

「いやぁ、俺みたいなのが声かけたら顰蹙ものですよ」


へへへと笑うと、マドンナは「えぇ~?」なんて言いながら、きっとこういう会話を何十回もしてきたのだろう、余裕のある笑みを浮かべた。


「町田くんはここの常連さん?」

「常連……えぇ、まぁここ最近ですけど」

「そっかそっかぁ。じゃあ私の方が常連かもね」


と、いうことは、俺がここに来る以前から練習しているということか。


「一体どうして……」


マドンナは今日も電車で通勤していて、帰りも定時に上がって最寄り駅に向かう姿を見た。ということは、通勤代を浮かせるために自転車の練習をしている訳では無いのだ。

ならば、何故に大人の女がわざわざ自転車の練習をするのだろうか。俺には検討もつかなかった。

マドンナは「うーん」と暫く唸ると、口を開いた。


「姪……姉の娘がね、自転車に乗れるようになったのよ」

「はぁ」

「なーんにも出来ない子なの」


缶ビールを1口飲む。マドンナは背筋良くベンチに座っているが、視線だけが下にあった。


「私はね、結構何でも出来るの。特別な努力をしなくても平均点プラスαくらい簡単なのよ」

「周防さん、会社でも凄いですもんね」


マドンナは「ふふふ」と笑う。


「会社の皆が私を"マドンナ”って呼んでること、知ってるよ」


突然の告白に、持っていたビールを落としそうになった。「なにそれ……えぇ~」なんて笑ってみたが、マドンナは菩薩のような微笑みで俺を見るだけだった。


「別にいいのよ。悪口じゃないって分かってる。それに事実だし」

「そうでしたか……」

「うん。まぁなんせ、そんなあだ名が付いちゃうくらい、私はなんでも出来るのよ」


まさか自覚があるとは思わなかったから、拍子抜けした。

缶ビールを握り直してもう一口飲む。マドンナも同じように水筒に口をつけた。


「姉も私みたいに……私より何でも出来る。だから、姉の子どもが本当に何も出来ない子って分かった時は、ビックリしちゃった」


マドンナの姪は、小学3年生になるらしいが、勉強も運動も苦手で、同級生はおろか先生とコミュニケーションを取るのにも苦労をしている人見知りで、友達はできたことなく、いつも学校から泣いて帰ってくるそうだ。


「なんでなんだろうって思った。なんでそんな簡単なことが出来ないんだろうって。勉強は授業を聞いてたら分かるし、運動は遊びで身につけるものだし、コミュニケーションなんて会話の延長じゃない?営業部の新人エース君にはよく分かるでしょ?」


酔っていないのに、まるで酔ったかのようなテンションで詰め寄って来た。


「まぁ、コミュニケーションに関して言えば慣れじゃないですかね?少しずつ出来るようになりますよ」


俺が在り来りなことを言って笑顔を見せると、マドンナの切れ長な眼と眉の間にうっすらと線が見えた。

どうも怒っているようだ。


「そうね……私もそう思う。慣れなんだって。でもね、子供に慣れなさいって言うの、なんか違うな~とも思ったわけよ」


マドンナは俺が持っていた缶ビールをひったくると、全部飲みほしてしまった。


「あぁ……」

「姉と母と義理の兄さんと、悩みに悩んだよ。ナントカ学級に入れた方が良いとか病院で検査とか。根本的な問題を忘れるくらい悩んだのよ」


ゲェーッフッ


マドンナは大きなゲップをした後、「ごめんね」と言って空き缶を渡してきた。

おいおい、どうしたこの人。


「そんな時だったのよ。あの子が、乗れなかった自転車に乗れたのは」

「突然っすね」

「そう突然。スィーッて乗れるようになったの。そうしたらね、まるで今までのことが嘘だったみたいに、全部上手くいったのよ」

「え?」


その姪は、たった1人で、誰の力を借りることなく、ある日突然、自転車に乗れたそうだ。


「風を感じてみたかったかんだって」


自転車に乗れてからというもの、友人ができてコミュニケーションは改善され、友達ができたから自然に遊ぶようになって運動神経が活発になり、先生に分からない問題を聞けるようになって勉強はついていけるようになった。



「多分なんだけど、あの子もどうしたらいいのか分からなかっただけなの。でも自転車に乗れたことで、扉が開いたのね」


マドンナはクククッと肩を震わせる。


「羨ましかったわ」

「え?」


ため息をついて空を見上げた。

俺も同じように空を眺める。さっき見た時より、星が多く見えるのは、暗闇に目が慣れてきたからだろうか。


「彼女の出来ないことが出来るようになる体験って、私、したこと無いから」


普通に生きているだけで何でも出来すぎて、"頑張る”というのが分からないんだそうだ。


「だから、私が唯一出来ない"コレ”を克服しようと思って」


マドンナは立ち上がると、近くに停めていた自転車に手を置いた。


「乗れなくても別に困ったことなんて無いけど、乗れたらさ、きっと楽しいと思うし、私は姪と一緒にサイクリングに行きたいの」


その言葉に「確かにそれは楽しそうだ」と笑顔を見せた。マドンナも満足気に笑っている。


「まぁ、練習を初めてから2ヶ月経ってるのにあの有り様だけど」

「マジですか?!」

「ちょっ……そんなに驚かないでよ……」


2ヶ月も練習して一漕ぎも出来ていないなんて、信じられなかった。


「だって分からないんだもの。でも人の手は借りないわよ。あの子も1人で乗ったんだもん。乗れたんだもん。何年かかっても良いから、私はコレに1人で乗ってみせるわ」

「そ……そうですか」


決意の硬いマドンナに、それ以上は何も言えなかった。


「じゃあ、私はもう帰るから。話を聞いてくれてありがとうね、ビールご馳走様!」


マドンナは前の籠に水筒やタオルなどが入った鞄と、俺が持っていた空き缶を「私が捨てとくね」と籠の中に入れると、ビールを一気飲みしたから自転車には乗らず、押しながら「じゃあね」と言った。


「あ、そうだ」


マドンナが振り返る。


「町田くんもさ、通常に生きてるだけで平均点でプラスα出来る子でしょ?」

「え」

「同じだろうなって思ったからベラベラと色々喋っちゃった。私の話を引かないで聞いてくれるって思ったんだ」


マドンナは片手で「ごめんね」と謝ると、自転車を押した。

その姿を見て、俺は立ち上がって叫んだ。


「待ってくださいっ!」

「え?」


驚いたマドンナが振り返る。


「えっと……」


俺も自分に驚いた。マドンナに何かを言わないと行けないと思ったのだが、言葉は一向に出てこない。


「どうしたの?」


困ったように首を傾げる。


「えっと……自転車、頑張ってください」


それを伝えるのが精一杯だった。


「ありがとう!じゃあ、また会社で」

「はい……」


手を振ったマドンナに手を振り返すと、彼女は一度もこちらを振り返ることは無く、そのまま公園を出ていった。

それを見送ってからベンチに座り、ため息がでる。 マドンナに指摘されたことは、図星であった。

俺は、彼女と同じく平均点プラスαの人間だ。人に嫌われた事も怒られた事も何も無い。

ただ生きてるだけで、努力をしなくても「まぁまぁいい人生」を歩んでいた。

それで良いと思っているし、変えるつもりはない。

でも、本当にこのまま何も成し遂げることが無いままに死んでいくんだろうか。

そうやって不安になるから、酒を摂取して夜の公園で何も考えずに居たかったのに、マドンナに会ってしまった。

何かを成し遂げようと奮起する、土臭い女。


「同じじゃないよな」


独り言を呟き、さきいかの入った袋を持って、公園を後にする。もう二度と、ここで晩酌をすることは無いだろう。


次の日、マドンナはいつもの香水の匂いがする綺麗な姿で出勤した。俺に少しだけ微笑んでくれたような気がするけど、気の所為だと思う。

そして仕事が終わって 帰路に着くのだが、公園の前を通らないとアパートには着けないから、仕方なく五分ほどの遠回りをして帰ることになった。

それから半年が経った。

何も変わったことはなく、いつものような平穏な日々が続いていたから、俺は久しぶりに公園で晩酌をしようと思った。夜は肌寒いから肉まんを買って公園に近づくと、何故か賑やかだった。公園を囲むようにして、人が沢山いる。


「諦めるな!」

「ほら、立ち上がって!」

「大丈夫!次は出来るから!」


何事かと人混みに近寄ると、公園内でただ1人、マドンナがあの日の時のように、泥だらけになりながら自転車を漕いでは転けていた。 それを大量の人が見ては声を飛ばしていた。

まだやっていたのかと呆れ、恥ずかしくなってきた。

もう半年以上もやって乗れないなら、才能がないんだよ。大人なのに見苦しい。そんなことをしなくてもモテるし仕事できるし、別に良いじゃないか。

そう思って舌打ちをした。

その時だった。


「あ」


サドルにかけた左足と右足が、交互に動く。そしてそのまま、前へ前へ前へ前へと進み、公園の広場を円を描きながら、自転車が進み続けている。


「乗れた!」

「おめでとう!」

「やっとだ!」

「おめでとう!」


夜なのに大人なのに他人なのに、大勢の人間が泣いて跳ねてその様子を喜んだ。

マドンナは「これどうやって止まるの」と不安な顔をして、でもやっぱり嬉しそうに笑いながら、ひたすらに自転車を漕ぎ続けていた。

俺は楽しく自転車に乗るマドンナを、人と人の間からこっそりと眺め、羨ましいと思った。

自転車に乗れることではなく、土臭いジャージ女が成し遂げる瞬間を間近で見てしまったからだ。

俺の中で何かがフツフツと燃え上がる。

それが何か、俺にはまだ分からない。





久しく自転車に乗っていません。

駄菓子を買い、汗をかきながら海まで友達と遊びに出かけた、あの夏が恋しいです。

自転車には思い出が沢山あります。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ