伊藤美咲28歳
修二さんと再会した翌日、私は修二さんと駅前の喫茶店に来ていた。
昨日は変な事を言ってしまい、結局そのまま別れてしまった。
その日の夜に栞からの電話で修二さんと会った事を話したら、なぜか今日喫茶店で再び会う運びとなった。
「改めて久し振りだね」
コートを脱ぎながら修二さんは注文を済ませるとゆっくりした態度で私を見た。
大人の余裕とでも言ったらいいのか、私が昨日言ってしまった事を気にしてない様子だった。
「すみません、栞が無理言って」
マフラーを外しながら修二さんに微笑む。
修二さんは相変わらずだ。
優しい瞳、包み込まれるような雰囲気を漂わせていた。
なんでこんな人が二回も婚約者に裏切られてしまったんだろう?
「そんな事ないよ、俺も美咲ちゃん...美咲さんが気になったし」
「気になった?」
それってどういう意味かな?
「元気無かったみたいだし」
「そうでしたか...」
そういう意味か、私は何を考えてるんだ。
「まあ確かに、いきなりあんな事言われたら驚きますよね」
「まあ...確かに」
どうしてあんな事を言ってしまったんだろう?
恋人に捨てられた話なんか修二さんにとって最大のトラウマなのに。
「しかし美咲さんが居ながら浮気なんて男も見る目が無いな」
「そうですか?」
元婚約者は会社の同僚だった。
23歳から付き合って25歳で婚約、直後に新入社員の女に浮気されて破局、呆気ないものだった。
「そうだよ、こんなに素敵な人を」
「ありがとうございます」
私は婚約者と別れて一人ぼっちになった。
婚約者は最後まで別れたくないと言っていたが、もう彼を信じる事は出来なかった。
「きっとその人も後悔してると思うよ」
「それは無いですね」
「そうかな?」
「だって半年後にその浮気相手と結婚したんですから」
「本当かよ?」
驚くよね、でも本当の事なの。
「そっか...」
修二さんは言葉を失っている。
でも、元婚約者の結婚は1年間後に破綻したそうだ。
理由はお互いの浮気、結局はそんな人間同士は結婚しても上手く行かないって事か。
お互いが既婚者の浮気相手W不倫、凄まじい慰謝料を請求されて姿を消した。
「まあ、そうだよな」
「修二さん?」
「いや何でもない」
慌てた様子で修二さんは首を振る。
ひょっとしたら修二さんの婚約者だった人もそうだったのかな。
『最初の人?それとも二回目の?』
当然聞けない。
「すっかり雰囲気変わったね」
話を変えようと思ったのか修二さんが私を見た。
雰囲気が変わった?それってやっぱり...
「オバサンになったと思ったんでしょ?」
「そんな事ないよ、綺麗になったって事さ」
「冗談ばっかり!」
そんな訳ないに決まってる。
本当なら怒りを感じるところなのに、どうしてかそんな気持ちになれなかった。
「冗談は言わないさ、本当に」
「30前の女を揶揄ないで下さい」
「まだ28歳でしょ?」
どうして私の年齢を?
「覚えててくれたんですか?」
「栞と同い年だからね」
「...当たり前でしたね」
当然か。
「でも修二さんは変わらないですね」
「そうか?もう中年の仲間入りだぞ?」
「まだ32歳でしょ?」
「どうして...あ、そうか伊織と同い年だからな」
「そういう事です」
伊織って確か栞の旦那さんの名前だ。
修二さんの高校の同級生だったな、でもそんな事で覚えてた訳じゃないのに。
私って素直じゃないな、だからあの人を許せなかったのかもしれない。
「どうしたの?」
「いいえ」
運ばれて来た紅茶に口を付ける。
熱いホットミルクティーが口内を潤した。
「美咲ちゃんはずっと家に?」
「ええ、結婚したら家を出るつもりだったんですけど」
「は?」
「え?」
修二さんが驚いた顔で私を見た。
変な事言ったかな?
「いや...その俺みたいに帰省して来たのかと思ってさ」
「あぁ...」
しまった、私は何を考えてる?
私はずっと実家暮らしだ。
「なんか、ごめん」
「どうして?」
「うん?」
「どうして修二さんが謝るんですか?
私が勝手に勘違いしただけなのに」
「それもそうか」
気まずそうに頭を掻く修二さん。
そういえば、昔から栞に絡まれた時は頭を掻いていた、癖なんだろう。
「でも本当に久し振りですね」
「そうだな、確か俺が大学で家を出て以来だから14年振りになるのかな」
「そうですよ」
私は当時中二だった。
『兄貴が家を出て行っちゃう』
栞が寂しそうに言った。
あの時は気づかなかった、私が実は修二さんの事を好きだったなんて。
「まあ...色々あったし」
「そうですね、修二さん色々ありましたから」
「...確かに」
東京の名門大学に通っていた修二さん。
優秀な成績を修め、校内でもかなり有名だったそうだ。
そんな修二さんを周りが放っておく筈もなく、彼は大学二年の時に婚約をした。
相手は同じ大学に通う女性、修二さんの評判を聞いた女性の両親からの後押しもあったそうだ。
その事を栞から聞いた私はようやく気がついた。
修二さんを好きだった事を。
あの時は泣いた。
でもたった二年後に修二さんの婚約者が浮気をして別れる事になるなんて考えもしなかった。
その話を栞から聞いた時は驚いたものだ。
でも私はただ聞いただけだった。
なぜなら私はその時に恋人が居たからだ。
決して失恋の痛手を忘れる為に付き合った訳じゃない。
でも、その人とは結局二年で別れた。
誰が悪い訳でも無かった。
ただ、すれ違いから別れを選択しただけの事、高校生の恋愛なんてそんな物だから。
「美咲ちゃん?」
「あ...何でもありません」
いけない、つい昔を思い出してしまった。
せっかくの修二さんと過ごす時間が勿体無い。
「でも帰って良かったよ、母さんも喜んでくれたしね」
「ですよね」
それは間違いなくそうだろう。
何しろ修二さんはおばさん自慢の息子だった。
それがあんな酷い目に二回もあったんだ。
気にしない筈が無い。
家のお母さんも見習って欲しい、
二言目には『もう結婚しないのか』って、大体結婚してなかったよ、婚約中だったっての!
「栞もすっかりお母さんだしな」
「本当にね」
小学校からの親友が今や立派な母親。
それに引き換え私ときたら...
「...ところで」
「何ですか?」
「こんな事俺が言うのも変だけど傷は癒えた?」
「はい?」
一体何を言うの?
「まだ美咲さんは俺と違ってまだ二十代でしょ、人生諦めるのは早いかなって」
「それを言うなら修二さんだって」
「俺は...もう無理だ」
「...修二さん」
修二さんはうつむきながら冷めてしまったコーヒーに手を伸ばした。
「俺も忘れようとしたさ。
裏切られ、苦しんで、そして5年後にようやく立ち直ったと思ったら、また...。
つくづく俺には魅力が無いらしい」
「そんな事...」
『無い』と言いたい。
しかし激しく傷ついた人に慰めの言葉なんか意味を成さない。
それは自分自身、身に沁みて分かっている。
「私だって...」
「美咲さん」
「私だってそう。別れてから仕事、趣味、沢山のしたい事に打ち込みました。
当然恋もです、でも駄目でした」
「駄目?」
少し恥ずかしいけど打ち明けよう、修二さんなら構わない。
不思議と抵抗は感じないから。
「もう何も感じないんです、どれだけ甘い言葉を言われても、旅行に誘われても、泊まっても、です。過去に縛られてるのは分かってる。
でも...どうしても」
『抱かれても』は伏せた。
最後に付き合った人に言われた、
『まるで君は人形...いやマグロみたいだ...』と。
「似てるな俺たち」
「そうですね」
修二さんの目にうっすらと涙が浮かぶ。
私は既に涙が溢れていた。
幸いにも店内の人は余り気づいて無いらしい。
いや、気を遣っているのか、どちらでも良い。
「これからも...また会ってくれますか?」
「はい...喜んで」
差し出された両手を握りしめる。
この先私達がどうなるか分からない。
でも、この手の暖かさを信じてみよう。
この人を愛してみよう。
そう思った私だった。