北川修二の話
「お疲れさん」
1日の仕事が終わり書類を片付ける。
まだ残ってる案件はあるが、後は家で済ます事にした。
就業の時間を守るように会社で厳しく決められているから仕方ない。
でもこれって時間外労働だよな?
「お疲れです課長」
そんな事を考えていた俺に部下達の元気な声が返ってきた。
コイツ等これからコンパに行くんだよな、全く若いってのは羨ましい。
「程々にして早く帰れよ」
「はい、ありがとうございます!」
部下達は笑顔で出ていく。
俺も誘われたが断った。
部下達全員の参加費は俺が立て替えたからコイツらはホクホク顔、1人2万、4人で総額8万円。
さぞかし気前よく映っただろう、でもこれで良い。
腐った金でも金は金だ。こんな事くらいでしか使い道がない。
自分の周りの物に使う気が起きない200万か...
『アイツら破目を外ずさなきゃ良いが』
そんな心配をする俺はまだ32歳、でも随分老け込んだ気がする。
まあ仕方ない、あんな体験を二回もしちまったら人生観も変わるさ。
「...随分寒くなったな」
季節は冬、来週で仕事納め、また1人寂しい年末になる。
「ん?」
自宅マンションの玄関ロビー前で鍵を出そうとしていたら1人の人影が。
時間は夜の8時、こんな寒空の下吹きっさらしの外で立ってたら風邪をひいちまうぞ。
「どうかされましたか?」
マンションの入居者が鍵を失くして中に入る事が出来ないのかもしれない。
ファミリー向けの分譲マンションだが、1人暮らしの人も居る。
結婚予定で購入したが、直前になって婚約者を寝取られ全部パーになった奴は俺くらいだが。
「...修二さん」
人影が静かに顔を上げ、俺の名前を呼ぶ。
顔を見た瞬間、全身の血の気が退くのを確かに感じた。
直接会うのは1年ぶりか、最後に会ったのは弁護士事務所だった。
婚約破棄の慰謝料で話し合う為にだった。
「斉藤さん、どうしてここに?
接触禁止なのはご存知でしょ?」
出来るだけ事務的に話す。
過去のトラウマが甦っては...いや手遅れだな。
「...もう由実と呼んでくれないんですね」
何を言ってるんだこの女?
「どなたと言わないだけマシだろ」
思わず素の言葉が出てしまう。
コイツは罰金が怖くないのか?
「待って!」
女から離れ、急いで鍵を取り出す。
とにかく中に入ろう、そして女の両親に連絡をせねば。
鍵をセンサーに当てると自動ドアが開く。
前に進もうとする俺のコートを女が掴んだ。
「なんの真似だ、君とはもう無関係だろ」
「い...慰謝料なら払ったでしょ」
「それで?」
「また...元に」
「断る」
何を戯れ言を。
「どうして!?」
「結婚前に君が浮気したからだ」
「気の迷いだったの!」
そんな言い訳通じる筈が無い。
それに浮気が俺にバレた時、コイツは全く認め無かった。
証拠を突き付け、最終的に追い詰められたコイツは浮気相手と俺を嘲笑いながら言い放ったのだ。
「最高なセックスの相性なんだろ?
理想のパートナーって言ってたじゃないか」
もっと言われたが、止めておこう。
「...それは」
どうやら思い出したか、馬鹿が。
「もう終わったんだ、裏切りは治らない。
繰り返す人間はまた何れする。
結婚相手なら尚の事、復縁は絶対無い」
「そんな事無い!あれは自分でもおかしくなってたの!」
「背徳が刺激か?馬鹿らしい」
「どうしてそんな酷い事が言えるの?
貴方に初めてを捧げたのに...」
そんな相手を裏切るからだ。
俺は一生大切にすると誓ったのに。
「『これが本当のセックス...アイツの名前なんか聞きたくないわ...』
式場の衣装合わせの後で普通するか?」
浮気の証拠に録音した音声を再現してみる。
コイツが勤める会社の先輩社員と浮気を始めたのは式の半年前だった。
「...だから間違いだったの」
崩れ落ちる女を残しロビーに入る。
幸い誰にも見られては無かったが防犯カメラには撮られたな。
後で管理会社に電話をしておこう。
背中越しに感じる視線、ガラスの向こうからだ。
「...早く帰れ」
小さな声で呟いた。
部屋に入り直ぐに電話を掛ける。
相手は女の両親、確か60近い筈だ。
またしても親に迷惑を掛けやがって。
「夜分にすみません、北川修二です」
『き...北川君!』
電話に出たのは女の父親だった。
俺が今使っている携帯は新しく契約した。
以前の携帯は解約したからだ。
『どうしたんだね、急に...』
見知らぬ番号で電話をしたのに直ぐ出てくれたという事は何らかの事情を知っていたのかもしれない。
そんな事はどうでもいい、この人は実直な人柄で俺を凄く大切にしてくれた。
なんであんな女が出来てしまったのか。
「娘さんが突然来られてましてね、すみませんが引き取りをお願いします。
場所はご存知ですよね...ええそうです。
本当なら一緒に暮らす予定だったマンションです、娘さんは玄関ロビーに居ますから宜しくお願いします」
なにやら電話口の向こうで言ってた気がするが、一方的に通話を切る。
ついでに着信拒否の設定も済ませた。
「やれやれ」
その後、思い付く全ての先に連絡を済ませ椅子に腰掛ける。
やっぱりここに住まない方が良かったかもしれない。
このマンションで浮気でもされていたら絶対に住まなかっただろう。
幸いにも女と結婚後に住むつもりだったし、何よりこのマンションを気に入っていたからだが。
女と別れた俺は会社に転勤を申し出た。
婚約破棄も会社の仲間に知られてしまったし、こんな街とオサラバしたかったのだ。
会社は俺の希望を半分だけ聞いてくれた。
関連会社への出向、勤務先は現在住むマンションが近かった。
「それにしても広すぎるな」
4LDK、使っているのはリビングと寝室に使っている洋室のみ。
他の部屋は全てがらんどうだ。
因みに結婚後に使う予定だった家具はキャンセルした。
キャンセル出来なかった食器類は全て女の実家に送った。
「ん?」
テーブルに置いていた携帯が震える。
一体誰からだ?
「母さんか」
着信は母親からだった。
何かあったのか、まさかあの女実家にまで?
「もしもし」
嫌な予感を感じながら電話に出る。
母親は現在親父と二人暮らし。
まだまだ元気だが、親不孝をしてしまった俺は引け目を感じていた。
『修二、あんた今年は帰るの?』
「なんだよいきなり」
元気な母の声にホッとする。
しかし相変わらずせっかちだな。
『だって去年も、その前も帰らなかったでしょ?』
「まあ、そうだけど」
確かにそうだ。
しかし事情が事情だったし。
『今年は帰りなさい、分かった?』
「分かったよ」
そう言うと満足したのか母親からの電話は切れた。
気は進まないが親孝行でもしよう。
妹の家族も来てるだろう、実家から近くに住んでいたはずだ。
三年も甥に会ってない、今年で6歳か、大きくなったんだろうな。
早速お年玉のポチ袋を用意し、29日に帰省する事を決めた。
「ただいま」
「お帰り」
実家の玄関で母さんは嬉しそうに俺を迎えてくれた。
「お帰り、兄さん」
「義兄さん、お久しぶりです」
続いて妹夫婦が顔を出す。
少し太ったかな?
幸せ太りだろう、旦那は凄く良い奴だからな。
「伊織、元気そうだな」
「義兄さんもな」
「止めろよ、同級生だろ」
妹の旦那、角谷伊織は高校時代からの親友。
まさか妹が好きだとは知らなかった。
ひょっとしたら俺の親友してたのは妹が目的だったのか?
「ケジメだよ、義兄さん」
「こいつめ!武蔵君は?」
甥の武蔵君の姿が見えない。
せっかく駅の売店でお菓子を買ってきたのに。
「父さんが連れて行ったわ、多分近所でキャッチボールしてる」
「相変わらずだな」
元高校球児だった親父は昔から俺とキャッチボールをするのが好きだった。
今は孫が相手をしてくれている。
妹は親孝行だ、心配ばかり掛けている俺と大違で嫌になる。
「そうか、少し見てくるよ」
親父と甥っ子のキャッチボールを見るのも悪くない。
荷物を玄関に置いて再び外に出た。
「寒っ!」
北風が容赦なく体温を奪う。
駅からタクシーで直接実家に着いたので、寒さが余計に堪えた。
「修兄?」
突然名前を呼ばれ振り返ると1人の女性が嬉しそうに俺を見ていた。
誰だ?いやどこかで見たな、こんな綺麗な人を忘れる筈ないのだけど。
「...えっと」
「忘れちゃった?伊藤美咲です、栞の友達だった」
「...ああ、美咲ちゃんか」
妹が小学校からの親友だった伊藤美咲さんだ。
「今からどちらに?」
「甥っ子のキャッチボールを見に行くところだったんだ、伊藤さんは?」
「美咲で、良いですよ。
私はただブラブラしたかっただけです。
家に居てもつまらないですから」
「そうか、寒いのに」
わざわざ外に出るとは、家では居心地が悪いのかな?
「妹も帰って来てるから、顔でも出してやってくれ」
「知ってますよ、栞から連絡ありましたんで」
「そうか」
まあ、不思議じゃないな。
俺みたいに友人達と顔を会わせにくい理由も無いし。
「良かったら近くでお茶でもしませんか?」
「いや、止めとくよ」
嬉しいお誘いだが、受ける訳にはいかない。
「どうして?」
「だって美咲ちゃん結婚してるだろ?」
確か彼女は3年前に結婚した筈だ。
栞からそう聞いた、
『美咲ちゃんも結婚するんだよ』と。
「...栞から聞いてませんでした?」
「何を?」
「破談になったんです、向こうに新しい女性が出来たんで」
「...まさか」
寂しそうに呟く彼女の言葉、余りの衝撃に声が出なかった。