睡眠中毒
私は赤い部屋の中にいる。
壁も、床も、もちろん天井も一様に赤い。
部屋の中にはトイレがあり、壁の一つの面には壁紙がなく、赤い鉄格子がはまっている。
まるで刑務所のようだが、この部屋にはテレビとラジオ、漫画、小説、スマートフォンがある。
私はため息をつく。
これだけ趣向品が並んでいても、やはり飽きというものはくるのである。
私は深いクマがついた目を擦り、眠気に任せて目を瞑る。
その瞬間体に電気が流れたような衝撃が走る。
いや、実際に首元の装置から流れているのだが。
ドタドタとこの部屋に足音が近づいてくる。
「またお前か」
ヨレヨレの白衣でやってきた初老の男は俺に負けず劣らずのため息をついた。
「また『眠気』ってやつか?
そろそろ勘弁してくれよ」
彼は私の担当医だ。
そして、私の病名は『睡眠中毒』である。
「いや、お前の立場に同情はするんだよ
狂った親の影響で睡眠なんて訳のわからん行為を中毒にされちまったんだから」
初老の男は深く息を吸って続けた。
「でもなあ、脳が数時間動かなくなるだとか
意識を何時間も失うだとか
それを1日しなかったら体調に不具合が出るだとか
はっきり言って不気味なんだよなあ」
そう、私は他の人と異なり『睡眠』というものを取る必要がある。
実際、この行為は数千年前には全人類がとっていたらしい。
ただ、ある研究者が必要がないと宣言した。
その後多くの科学者が実験を重ねたが、その結論は揺るがなかった。
結果、社会は大混乱となった。
皆、睡眠を取らないという選択すらなかった時代だ。
混乱の時代を抜け、一部のものは子供が幼いうちに睡眠から遠ざけるようになった。
そして、睡眠を取らない権利が声高に主張されるようになり、最終的には私が今生きるこの世界、睡眠なんてものの存在を理解しない世界へと変貌を遂げた。
「私が睡眠を取りたいから取る、これをなぜ皆は反対するんだ
別に誰にも迷惑をかけていないじゃないか」
私はここに来てから何度もこの言葉を口にした。
「だから、その発言自体、薬物中毒者が薬物を取り上げられた時のセリフと瓜二つなんだよ」
彼は何度目かわからない同じ解答をした。
私がいるのは睡眠中毒者の隔離施設だ。
隔離と言っても表向きは治療に近い。
私の部屋が赤いのも脳を興奮させるためらしいし、私の部屋の電子機器からはブルーライトと呼ばれる睡眠を妨害する光が出ているそうだ。
ただ、国はこの事業にほとんど金を割くつもりはないらしい。
私が鉄格子の中にいるのもそうだし、この初老の男のやる気が低いのもそれが原因だろう。
私は長いため息をつくと、家族のことを思い出した。
母は変わった人だった。
まだ幼かった私に睡眠をとる人生ととらない人生を選ばせた。
私は、睡眠を体験し、睡眠をとる人生を選んだ。
母は今、刑務所で暮らしている。
当たり前だ、自分のまだ幼い子に睡眠をさせるだなんて、そんな狂った話はない。
私は幼稚園での集団生活を始めてすぐに自分のおかしさに気がついた。
私はヒマがあると、幼稚園の中で昼寝をした。
寝ている私を発見した先生は私が気絶していると勘違いし、救急車で搬送した。
病院の先生も、まさか睡眠をとっているとは思わなかったらしく、脳波測定ののち、解放された。
それからも私は人に隠して睡眠をとっていたが、中学生の時どうしても一日中学校にいなければならない行事の際に他の人にバレてしまった。
幸い、バレたのは一部の人だけだったので私の秘密はあまり広がらなかった。
しかし、ここで私は質問攻めをされた。
「睡眠ってどんな感じなの?」
「記憶が途切れるのって怖くないの?」
「昔話で出てくる『夢』って本当に見るの?」
私は困ってしまった。
何といえば伝わるだろうか。
例えば、睡眠を説明することは痛みを説明することに近い。
『足がつる』という言葉を知ってはいても、あの現象が初めて起きたときにその言葉に当てはめていいものやら悩んだ事がないだろうか。
そんな感じで、体の内部で完結してしまっていることを説明するのは本当に困難なのである。
そんな私も、無事に社会に出ることができた
しかし、睡眠時間のせいで勉強が他の人より出来なかった私でも入れた会社はいわゆるブラック企業というものだった。
繁忙期には帰宅せず、毎日24時間会社に泊まり漬けである。
2、3日であれば睡眠を取らなくても生きていけるが、それを超えると私はもう頭が働かなくなり、仕事どころではなくなってしまう。
仕方なくトイレ等で睡眠をとっていたが、結局、他の社員に見つかってしまった。
私は会社の指示で病院に行かされた。
そこで出会った医者は名医だった。
それが私からしたら悲劇に繋がるのだが…
『睡眠』などというとっくの昔に消え去った身体現象について、その医者には知識があった。
私は政府に突き出され、1週間ほど前にこの施設に送られてきた。
私がそんなことを思い出していたら、初老の男はもうそこにはいなかった。
仕事に戻ったのだろう。
私には再び眠気が訪れていた。
眠気はどこからともなく現れ、頭に入ってくる。
これが現れると、頭がぼんやりして、生クリームを詰め込まれたように思考がぼやける。
自分の意思とは関係なく、瞼が閉じて視界が狭まっていく。
もう自分がどこにいるのかさえ分からない。
体の力が抜ける感覚があり、視界が完全に途切れる。
その瞬間に私の体には電気が走り、強制的に目を開かされる。
アラームが鳴り、ドタドタと足音が聞こえる。
あーあ、またあの男に小言を言われるのか。
まあ、でも仕方がないか。
私はこの世界で、どうしようもなく異端者なのだから。
薬物中毒者と同様、この常人からしたら意味不明な癖が抜けるまで、社会に戻ることは
出来ないんだ。