その手が揺れたなら
野球部。
主将。
キャッチャー。
放送委員会委員長。
書道部。
部長。
全国大会入賞。
放送委員会副委員長。
それが私達二人の肩書き。
ノートの端切れにすら書かれていない,甘酸っぱい,青春の思い出。
お互いを尊敬している。とても。
「原稿の修正は終わってる,もう読み上げるだけでいい」
「ありがとう」
今更どうこう言う必要もない。
「機材の調整は終わってる。あとはあなたがいつもどおりにするだけ」
「ありがとう」
私にだって機材の知識くらいはあるが,どうも専門外で,原稿を読み上げるのがだいたい私の仕事だった。
彼はミキサーを操作するのが仕事。
二本の腕で,よくもそこまで細かく色々な操作を正確にするものだと思う。
部活やテストやら,いろいろな事情で人が確保できなくても,とりあえず委員長と副委員長さえいれば,なんとかなる。
それはもう,共通認識と言っていいほどだったろう。
何かあれば私たち二人が呼ばれる。
私たち二人ががセットなのは,もはや不可抗力だった。
放送室は私にとっていい憩いの場だ。
教室はどうも騒がしい。
部室は部長としての役割が待っている。
校舎の端で,防音。
鍵もかかっていない。
先生にバレても,おそらく私なら,見逃してくれるだろう。
こんな静かな場所に入れるのは,放送委員の私の特権。
昼休み,ここでゆったりと昼寝をすること。
部活がない日,下校時刻まで,お気に入りの本を読む。
もちろん,疲れていたら寝てもいい。
ああ,やっぱり放送委員でよかった。
そう思いながら今日も少し,私は静かな時間を過ごすことにする。
少し疲れたから,下校時刻まで今日は寝よう。
下校時刻の鐘で目覚めたら,肩にかけたブレザーを羽織って,カバンを背負って,さっさと帰る。
鍵を閉められたらおしまいだから!
中学生にとって,私たち二人がセットとなれば,当然,付き合っているなんていう噂が立つ。
そんな噂で楽しんでいられるなんて,幸せなことだ。
季節が冬に向かっていく。
こんな噂を流したところで,温まれるものでもないだろうに。
「お疲れさま,また今度。よろしく」
なんてビジネスライクな挨拶だろう。
ただこれが,私たちの本当の距離感なのだ。
付き合っている!なんて,騒ぎ立てているほうの想像でしかない。
「ちょっと悪いんだけど階段を上がりきったら,そこで少し待っていて」
「なにかあったの」
「クラスで。例の噂がめんどくさい」
「ああ…それで?」
「俺が合図をしてから,クラスに戻って」
「お安い御用」
階段を上がりきる。
彼の指示通り,私はここで立ち止まる。
いつもはここから二人揃って廊下を歩き,手前にある彼のクラスのところで手を振って別れ,私一人で自分のクラスに戻る。
私たち二人が一緒にいるところを見るのは,セットで呼ばれたときか,放送室から戻るときくらいなものだ。
それ以外で一緒にいることなんてほぼない。
むしろ,野球部のマネージャーの女子といるときのほうがよく見るだろうに。
よりによって,なんで私なんだ。
彼がクラスのドアへ手をかける。
反対の手を,背中側へ回した。
「GO」とするように,大きく腕を揺らした。
ああ,これが「合図」ってやつか。
彼がクラスのドアを閉める。
もういいだろう。
私も戻ろう。
これで少しでも彼に平穏な日々が訪れればいいけれど。
こんな些細なことで誰かの日常を踏みつけるのは,私の趣味じゃない。
私たちが別々にクラスへ戻るようになって,しばらく経った。
もう風は冷たい。
放送室へ伸びる廊下を歩いていても,少し寒さを感じるようになってきた。
もしかすると,もうすぐ雪が降るかもしれない。
彼の口からは,特に何も聞いていない。
何も言わないということは,だいたいうまくいっているということだ。
放送室のドアに手をかける。
今日も静かだ。
椅子に腰掛けて,机に伏せる。
今日も少し,喧騒から離れて,穏やかに寝させてもらうことにする。
よく寝た。
下校時刻を告げる鐘はまだ鳴っていない。
よく眠れたし,今日はそのまま帰ろう。
肩からかけたコートに手を伸ばす。
「おはよう」
聞き慣れた声だ。
「おはよう」
何か本を読んでいるらしかった。
本を伏せて,私に顔を向ける。
「額,赤くなってる」
つん,と指で小突かれた。
私は何も答えられない。
鼓動が少し,速くなった気がする。
「もう冬だっていうのに,そのままで寝てたら風邪ひく」
どうして私は気づかなかったのか。
今日は肩からコートをかけてなんていなかった。
時々ブレザーを肩からかけていた日があった。
全部こいつの仕業だったんだ。
こんなことが,私に起きるはずがない。
少女漫画の世界でもあるまいし。
こいつがこんなロマンチストのはずがない。
「いったいいつから」
「放課後に,一人で入っていくのを見かけてから」
だからそれがいつなの,と言いかけたけれど。
そんなのどうでもいいことだ。
「…ありがとう」
「どういたしまして」
また二人で廊下を歩けるようになるのは,冬の先,きっと桜が咲く頃だろう。
今日は野球の日ということで。
青春真っ盛りの二人に幸あれ。