45 投資家
もう日が落ちてしまって急速にあたりが暗くなり始める頃、俺とカリンは馬車に揺られていた。
前に走る馬車に引き連れられて、街道を進んでいく。先程まで見えていた町はとっくに見えなくなっていた。
隣に座るカリンは、どうかリナであってほしいと願っているようだった。
今まで貯めたお金を持ってきたのだろう、家から持ってきた少し大きめの鞄を膝の上で抱えていた。
特に翻訳の仕事では相当な冊数が売れたことや、ブラウニーさんとの利益の折半も相まって、かなり稼いでいたようだった。
硬貨の音だろうか、カチャカチャという金属音が鞄の中から時折聞こえてくる。
ただ、カリンが交わした契約書や実際に受け取った賃金などを俺も確認していたが、正直なところ金額的に足りているとは思えない。これはカリンも承知の上だろう。
奴隷を買うだけでなく捜索費も上乗せされることを考えるとなおさらだ。
どうにかして長期的な返済の契約を組むとかそういった事になりそうだが、最後にあの奴隷商が言った言葉がどうしても離れない。
だいぶ高くついた……か。
「本当にリナだといいな」
俺は何度か頭を撫でながら声をかける。
「はい、ご主人さま」
カリンは短い返事をするだけでも精一杯のようだった。
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少し前、家に奴隷商がやってきた。
いつもなら朝にやってくる奴隷商だったが今は夕飯前の時間帯。かなり不自然に感じられる。
「旦那様、ご無沙汰しております」
「どうしたんだ?こんな時間に」
「はい、ついに見つけたんですよ。妹さんを」
「それは本当か!」
俺は声を上げて聞き返す。やっとこの時が来たのかと思い、全身の血が顔に全部やってきたかのような興奮を覚えた。
同時にカリンは俺の腕にしがみついてきた。俺を使って奴隷商から半身を隠すようにしながらも、俺の服を掴み、その場を離れようとしない。
「はい、間違いないと思われます」
「無事だったのか?今どこにいるんだ?」
「多少の怪我などは見受けられましたが、無事といって良いと思われます。場所は以前旦那様が売買のために訪れたあの屋敷となっております」
あの屋敷というとカリンを買った屋敷のことだ。
今から行くと日が落ちてだいぶ経ってからの到着となりそうだ。
「この件についてはなるべく早いほうが良いと思いましてこの時間ながらもお伺いしましたが、ご迷惑だったでしょうか?明日の午前中からにいたしますか?」
「いやいい、今から行こう」
俺はカリンの様子を伺うことなく答えた。
少しでも早く会いたいと当然考えているはずだ。
「ありがとうございます旦那様、外に馬車を用意してあります。私の話を聞きながら移動ということでよろしいでしょうか?」
その言葉を聞いて俺はカリンの方を見る。
カリンは頷き、自室へ向かい準備を始めたようだった。
「旦那様もどうぞご準備の方を。私は外でお待ちしておりますので」
そう言って外を振り向くも、奴隷商は思い出したかのように付け加えた。
「今は夕方ではございますが、マイペースでもちろん構いませんので」
心理戦というか交渉戦といったものはすでに始まっているようだった。
どこまで見透かされることになるかはわからないが、ともかく今は妹のことを優先して行動する他ないようだ。
馬車は二台用意されていた。
三人で一台の馬車に乗り込むと奴隷商は出発の合図を出した。
カリンは俺の横に座り、妙に重たそうな鞄を膝の上に置いている。
一方の手でその鞄を抱きかかえるようにし、そしてもう一方の手は俺の袖を掴んだまま離さないようにしていた。
「もう少し大きい馬車を用意できればよかったんですが、これくらいのものしか用意できませんでした。申し訳ありません」
見慣れた町がカタカタという振動とともに景色となって通り過ぎていく。
「別に構わない。それよりもリナについて詳しく話してくれないか」
「もちろんです旦那様」
奴隷商はハンカチで額の汗を拭ってから話し始めた。
「旦那様から、そちらのカリンさんの妹であるリナさんを探してほしいと頼まれたあの日から、同業者のつてをたどってみたり、行く先々で確認してみたりと色々と尽力させていただきました」
確か依頼をしたのはひとつ前の夏直前のことだった。
それ以降季節の変わり目に一度程度の頻度で手紙はもらっていたが、成果なしという内容だったことを覚えている。
手紙への返信にはカリンから聞いたリナの特徴や、昔あった思い出話などを捜索の情報として書き加えていた。
だいぶ前の話になりますが、と付け加えて奴隷商は話を続ける。
「カリンさんが捕らえられてから私のあの屋敷に届けられるまでは、季節がおよそ二つほど過ぎていました。カリンさんを捕らえた人間、あるいは関わりのある人間はかなり長い間買い手を探していたと考えられます」
カリンが俺の袖を掴む力が少し強くなる。
思い出したくない昔の話を目の前でさせられて、気分の良い人間はいないだろう。
俺は少し奴隷商を睨みつけて話を聞き続ける。
「生まれも育ちも良い年頃の女を捕らえたのに、それ程の値がつかなかったのでしょう。調べてみたところ、やはりいくつかの奴隷商などを経由して私のところまで来ておりました」
「それと妹の話とどう関係があるんだ?」
さほど進まない話を聞かされているからなのか、あるいは隣でカリンが嫌な思い出を蒸し返されているからなのか。理由がどちらかはわからないが、少し苛立った声付きで俺は奴隷商に質問をした。
「申し訳ありません、旦那様。しかし、もう少しだけお時間を下さい」
俺とカリンをなだめるように言いつつ、その独特な表情は崩さなかった。
「これも調べていくうちにわかったのですが、リナさんはカリンさんが私のところに来る二つ前の奴隷商隊の時点で離れ離れになっていたそうです」
西方の国に攻め入っている状態とあれば、それ以外の国の奴隷商にとっては儲け時。
そんな時期の商隊ともなると名前や出身など一々確認することは稀で、適当な管理となっていた説明される。
「そちらの商隊とはあまり関わりがないのも相まって、それ以上の追跡は難しいものとなっておりました」
「それで?」
「はい、旦那様。そこからは私一人では無理だと判断し、捜索料が幾分か高くなるのを承知で部下の力もある程度借りさせてもらいました」
捜索料については申し訳ないと口では謝っているものの、その分ふっかけるつもりなのかどこかいやらしくニヤついている。
「それでですね、旦那様。ようやく見つけてくれた人がいたんですよ」
「そいつの分の捜索料は多めに払えってことか?あの屋敷にいたお前のお気に入りのあいつか?」
「いえいえ、違います旦那様。貿易の方です」
「貿易?」
「ええ、旦那様に昔投資してもらった、私のお酒の輸出入のお仕事に携わっている人間です」
奴隷商の話によると、奴隷商としての直接的な部下だけではなく、いまでも息のかかっている酒の輸出入に関する事業の人間にも捜索の依頼を出していたらしい。
懸賞金のような形式ではあるものの、各々が行く先々で特徴と一致する小娘を見かけたら連絡をよこせというものだった。
「善い行いはしておくべきものなんですね旦那様。この発見の半分くらいは旦那様のお手柄でしょう」
確かに昔、俺はこの男に酒の輸出入について投資していた。まさかこんな話になって帰ってくるとは思っていなかった。
「ああ、そうかもな。それで?」
俺は奴隷商に話の続きを求める。
「はい、旦那様。その貿易人がリナさんを見つけた場所なんですけどね、なんと北方諸国だったんです」
「そんな遠い所にいたのか」
「はい、見つけたのも偶然で、商売範囲を広げようとその貿易人が北方諸国各地のいわゆる名家に売り込みに行っていたところ見つけたそうです」
「いや、ちょっと待て本当にその子はカリンの妹なのか?」
今更ではあるが、玄関先で奴隷商の間違いありませんの言葉以外の確証を得ていないままここまでついてきてしまったことに気がつく。
それについての最後の確認はそちらにいるカリンさんに見てもらう他ありませんが、と前置きして奴隷商は説明を続けた。
「旦那様が手紙で私に教えてくださっていた、リナさんの髪や目の色、背丈などの特徴にあった奴隷の女の子を北方の名家で見かけて声をかけたそうでして」
馬車が分岐路に差し掛かり進行方向が変わった。
一つ間を開けて奴隷商が話し続ける。
「異国で貿易をするとなると当然現地の言葉も必要になります。その貿易人は東方、西方、そして北方の言語を使うことができましてね。西方の言葉で話をし、名前や出身を聞き出し、カリンという姉がいるということでしたから間違いないでしょう」
それを聞いたカリンがさらに俺に身を寄せ、俺の方を見つめてくる。
だいぶ有益な情報だ。希望が見いだせる。
「旦那様方ならきっと買い取っていただけると思い、早々にその名家からリナさんを買わせていただきましたが」
奴隷商はわざとらしく一呼吸置いて
「だいぶ高くついたということはお忘れなく」
そう最後に伝えてきた。
その性根を表すかのように、ニマニマとした気味の悪い顔を俺たちに向ける。
この男の本領発揮といったところか。
「詳しい金額は屋敷で部下が集計を行ってくれていますので、また後ほどということで。他になにかございますか?」
奴隷商は俺とカリンを交互に見る。
特に反応がない様子を見ると、奴隷商は外に合図を出して馬車を止めた。
「私はもう一台の方の馬車に乗っておりますので。どうぞごゆっくりおくつろぎ下さい」
奴隷商はそう言って満足げに馬車から降りていった。
しばらくするともう一台の方に乗り込んだのか、この馬車も一緒に動き始めた。
馬車が動き出してもカリンは俺のそばを離れなかった。
いや、カリンは俺の袖をより強く握りしめて離れようとしない様子だった。
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屋敷に到着したようで、馬車が止まる。すっかり日は暮れていた。
奴隷商自らが馬車のドアを開けてくれるも、屋敷の灯りを背後にした状態なので気味の悪い印象が主に感じられた。
「お二方、どうぞこちらへ」
馬車から降り、屋敷まで先導される。
カリンは俺に寄り添うこと無く一人で歩いている。
「ああ、そうでしたカリンさん。これは以前旦那様にはお伝えしていたことでもあるのですが、くれぐれもここの場所のことは他言無用でお願いいたします」
カリンは小さな声で返事をすると、奴隷商は一言ありがとうございますと言い満足げな表情をしていた。
屋敷に到着し、扉が開かれる。中では以前と同じ様にあの部下が待機していたようだった。
「こちらです、お二方」
以前とは異なり地下通路に向かわずに上階へ上がっていく。
「お二方の大切な方となれば牢屋には入れたりしませんよ。ただ、内側からは開かない部屋に入れさせていただいておりますが」
そう言いながら奴隷商は俺たちを案内していく。
俺の先を歩くカリンの足は、僅かながら震えているようだった。
そして奴隷商は扉の前で立ち止まり鍵を取り出した。
「こちらです」
鍵を開け、扉を開ける。
広い部屋に上品そうな家具、そして部屋壁からは鎖が垂れ落ちていた。その先をたどると一人の少女の首元に繋がっていた。
「リナ!」
俺が足を動かすよりも遥かに早くカリンは妹の名を呼びながら部屋に走り込んだ。
鞄を部屋の床にドサリと投げ置き、何度も西方の言葉で声をかけながらカリンはその少女を抱きしめる。
その少女もカリンだとわかったのだろう、泣きながらカリンに抱きつき始めた。
あの少女がリナだと安心した俺は、廊下で待っていると声をかけて扉を閉めた。
それでも二人の声は扉を通して廊下に漏れ出ている。
何を言っているのかは分からないが、再会を喜んでいるのだろうというのは確認するまでもなかった。
「本物で良かったですねえ、旦那様」
「ああ」
俺も喜ばしいことだと思うが、廊下で一緒に待っているこの奴隷商の表情が目に入るたびにどうしても心がざわついてしまう。
「お前は部屋の中であの二人を見張らなくて良いのか?カリンはだいぶ頭の回転が早いから抜け出すかもしれないぞ」
「いえいえ、旦那様。旦那様こそおわかりでしょう、そんなことをするはずがないと」
よほど落ち着き払っているのは奴隷商の方らしい。
そのことに気がついて俺は一つため息をつく。
そのとき、こちらに向かってくる人に気がついた。奴隷商のあの部下だ。
「旦那様、少し失礼いたします」
そう言うと少し離れて二人は会話を始める。
俺のことををチラチラと伺いながら話しているようで、何枚かの紙が奴隷商に手渡された。
「失礼いたしました、旦那様」
そう言いつつ受け取った書類を懐に隠しながら奴隷商はこちらに戻ってきた。
「さて、そろそろ私達もお邪魔させていただきましょうかね」
俺が一つ頷くのを見ると、奴隷商は失礼しますよ声をかけてから扉を開ける。
部屋に入るとリナはカリンの後ろに隠れてしまった。カリンも庇うように奴隷商と妹の間に立っている。
散々泣いたからだろうか、カリンの目の周りは真っ赤になっていた。
俺がカリンの側に移動してやる。
リナはカリンの背中にピッタリとくっついてしまっているので俺からも顔はよく見えないが、全体的にどことなくカリンと似ている雰囲気を感じ取った。
すると奴隷商が口を開いた。
「カリンさん、確認しておきますがそちらの娘さんは妹のリナさんで間違いありませんか?」
「はい、間違いありません」
カリンは奴隷商から目を離さずに答えている。
リナはカリンの手を強く握りしめている。そんなリナの足にはいくつかの痣が見て取れた。
「それはよかったです。私としても人違いでしたら大損でしたからね」
奴隷商はわざとらしい態度で喜びを表した。
「ではお買い求めいただけますか?」
奴隷商は両手をこすり合わせて答えを催促する。
「はい、もちろんです」
「ありがとうございます」
奴隷商は目と口を釣り上げるように笑い、懐から先程の紙を取り出す。
「こちらが今回の売買の契約書とその詳細です。よろしければ旦那様も一緒にご覧ください」
カリンが受け取りその内容を確認する。
その瞬間カリンが息を一つのみ、顔が青ざめていくこと気がついた。
震える手で差し出された二枚の紙を俺は受け取り内容を確認する。
一枚目の契約書に記されていた金額を見て、俺も驚かされた。
俺の資産や収入などと照らし合わせて考えてみても、だいぶ無理を強いることとなる金額がそこに記されていたからだ。
二枚目にある料金の詳細に目を移すと奴隷商が話しかけてきた。
「いかがでしょうか、お二方。私としてもお安くしておきたかったのですが、なにぶん北方の名家から買いとるのに料金がかかってしまいまして」
「これが限界か?」
「はい、旦那様。これ以上の減額は難しいもとのなっております」
奴隷商は嬉しそうに言葉を吐く。
その表情を見る限り、今言ったことが本当なのかどうかの判別は難しい。
カリンが力なく歩き始めた。リナから離れ、床に投げた鞄を取りに向かったようだ。
「契約の種類はこれだけか?長期的な支払いとかはできないのか?」
「はい、旦那様。もちろん可能です。私と旦那様の関係を考えれば、夜逃げや踏み倒しなどなさらないことは重々承知しております。ただ、私としてもその名家への支払いが差し迫っておりますので、そちらの分はどうすることもできません」
そう言うと奴隷商は懐から別の契約書を取り出した。
受け取って見てみると、頭金とそれ以降の返済について追加で記されていた。
だがやはり、頭金だけでも相当なものとなっている。
長期的な返済となるため全体的に金額もかさ増しされていた。
鞄を持ってきたカリンはもう一度リナのことを抱きしめているようだった。
「それと旦那様。もう一つお伝えしなければならないのですが」
俺の動揺とカリンの動作から商機を見たのか、奴隷商が言葉を投げかけてくる。
「リナさんですが、実を言いますと他にも買い手がいらっしゃいまして。おそらく契約を結ぶのは明日の見込みとなっておりましたので、そういった意味もございまして夜分ながらもご案内させていただきました」
俺は下を向き目に手をやってひとつため息をついた。
後出しが得意だとは思っていたが、ここまでのものとは思ってもいなかった。
奴隷商から予想外の条件を提示され思い悩んでいると、背後から声が聞こえた。
「ご主人さま、お願いがあります」
先程までリナを抱きしめていたカリンのか細い声だった。
そちらを見てみるとカリンが鞄を開けて中身を取り出そうとしている。
「ご主人さまにご迷惑をおかけすることになると思います。でも、どうかお願いします」
必死に泣かないようにして言葉を続けながら中身を出していく。
いくつかの金の入った袋が床の上に並べられていく。そして最後に鞄の底から最後の物を取り出した。
それはかつてカリンを買ったときについていた、奴隷の首輪とあの長い鎖だった。
カリンはそれを両手で俺に差し出す。
「カリン、お前」
カリンは声を少し震わせながら話し始めた。
「ご主人さま、以前この男が家に来たとき、私はご主人さまの仰っていた通りその話を盗み聞きしていました」
顔を真っ赤にし今にも泣きそうな表情をしたまま、カリンは俺に言葉を続ける。
「そのときの話の中に、私を高値で売ることができるという内容があったはずです。どうか、どうか私を売って妹を買う資金の足しにして下さい」
俺の動揺をよそに、カリンは俺を見つめて懇願し続ける。
「あの金額では私の稼いだお金はあまりにも少なすぎます。かといってご主人さまに支払いのご協力をいただくにしても無理のある金額のはずです」
ついにその目から涙が流れ始め、声の震えも大きくなる。
「ですので、お願いします、私を売り払って下さい。もちろん足りない分もあると思いますが、その分はリナが働いて返すように言い聞かせます。まだできないことのほうが多いとは思いますが、私の妹です。きっと役に立つはずです」
涙を見せないようにするためかカリンは下を向いてしまった。
それでも首輪と鎖を俺に差し出し続け、言葉を続けた。
「ご主人さまと一緒に過ごすことができて本当にありがたかったです。本来なら文字通り奴隷として過ごすはずだった私をここまで大切にしてくださいました。それに楽しい思い出もたくさんできました。本当に、本当に感謝してます、ご主人さま」
そして、どうにかして言葉を紡ぎ出す。
「でもリナを一人でどこかの奴隷にさせて、寂しくつらい思いをさせることなんてできません。あまりにもわがままなことを言っているのはわかっています。でも、どうか、どうか……」
自身の思いを伝えきったカリンは、それ以上話すことはできなくなってしまったようだ。
顔を伏せたまま涙を流し続けているが、それでもまだ奴隷の証を俺に手渡そうとしている。
「素晴らしいじゃないですか!旦那様」
奴隷商は手を叩きながら一段と高い声をあげた。
その声を聞いた瞬間、俺は奴隷商を睨みつけた。
「そんな顔をなさらないでください旦那様。私、長く奴隷商をしておりますが、ここまで感動的な場面は初めてです。もしものとき、その決意を表すためにそのご様子ですと旦那様にも内緒で首輪と鎖を持ってきていただなんて!」
奴隷商は大喜びだ。その姿を見てますます俺の目線は厳しくなる。
すると奴隷商は何かを思いついたかのような表情を作り上げた。
「そうですね、私からも少し助力をさせて下さい、お二方」
そう言いながら奴隷商は慣れた手付きで新しい契約書をすぐに作り上げ、俺に手渡した。
「こういったものはいかがでしょうか旦那様、そしてカリンさん。カリンさんがまた私の元にいらっしゃるのなら、先程の頭金の分と相殺という形にさせていただきますよ。捜索費などは追ってお支払いいただくことにはなりますが、それでもだいぶおいしい話だと思います」
金額だけで考えればカリンを買ったときよりも遥かに高い値で売ることができる。正直なところ破格の提案だ。
カリンが今までに稼いだ金も使えば返済の方もどうにかできる程度のものになる。
目の前では奴隷商がその返答を今か今かと待ち続け、俺のすぐ横では下を向いたままのカリンが声を殺して泣き続けている。
少し考えて、そんな事もあったなと俺はひとつため息をつく。
そしてカリンの差し出す首輪と鎖を受け取った。
「つらい思いをさせるわけにはいかないからな」
そうカリンに声をかけてから机に向かった。長い鎖が床に擦れ音を立てる。
もう一度内容を確認して契約書にサインをした。奴隷商の方を見てみるとこちらを満面の笑みで見ていたようだった。
「旦那様」
奴隷商は今日一番の笑顔といったところか。
そんな奴隷商の元に歩き、俺は首輪と鎖を手渡した。
「ああ、長いこと借りてて悪かったな。俺にはもう必要ないから返させてもらうよ」
「旦那様?」
「そしてこっちも頼むよ。間違いがないか確認してくれ」
そう言って俺は契約書を奴隷商に突き出した。
首輪と鎖を床に置いて受け取り、奴隷商は急いで確認を行ったようだった。その枚数を。
「旦那様、これだけですか?」
「ああ、それだけだ。こっちの契約書は使う予定がないから破棄させてもらうよ」
そう言って俺は、カリンを奴隷として売り出す契約書を奴隷商に見せつけるように破いてしまった。
「ああ!旦那様!正気ですか!」
奴隷商は声をあげて俺を問いただす。
「そんな!なぜですか!旦那様!」
奴隷商は目を見開いて俺に詰め寄った。
「あんたの提案がかなり良いものというのも理解できる。ただ俺は決断するとなると人柄や熱意なんかを重視するらしくてな」
少し昔、カリンに言われたことを思い出しながら話し続ける。
「長いこと一緒に暮らしてきてお互いのことは分かりきってるんだ。俺はカリンのことをこれからも信じさせてもらうよ。カリンを手放すつもりは無い」
奴隷商は驚きの目でこちらを見続けている。
「なにより俺は冴えないながらも投資家だ。今後のカリンとリナに期待させてもらうさ」
奴隷商は一切納得していないようだったが、契約書にサインをされてしまった手前、それ以上はどうしようもない様子だった。
懐から鍵を取り出すと、黙って俺に差し出した。リナの首輪と鎖の鍵らしい。
受け取って振り向くとカリンがこちらをずっと見ていたようだった。
「ご主人さま!」
そう言ったかと思うと大泣きをしながらカリンは俺に抱きついてきた。
ごめんなさいだとか、ありがとうございますだとか、どうしてですかだとか言いながら涙を流し続ける。
カリンが落ち着くまでカリンの頭を撫でてやると俺は鍵を手渡した。
「これで外してあげな」
「はい。ありがとうございます、ご主人さま」
カリンは泣きながらも笑顔で鍵を受け取ると、リナの鎖と首輪を外す。
するとリナは解放されたことを理解したのか、カリンにまた抱きついて声を上げて泣いていた。
しばらくすると奴隷商が俺に声をかけた。
「旦那様、馬車の準備はできております。ご利用なさいますか?」
「ああ、そうさせてもらうよ」
屋敷を出て馬車に向かう。カリンとリナが手を繋いで歩く姿を少し後ろから眺めて歩く。
その途中、奴隷商は俺に話しかけてきた。
「旦那様、馬車は一台でよろしかったでしょうか?」
「ああ、助かるよ」
「いえいえ、とんでもございません」
「なあ、ひとついいか」
俺はカリンたちに声をかけずに足を止める。
「どうかなさいましたか?旦那様」
「廊下であの部下から契約書とその詳細を受け取ってたようだが、実はもう一枚あるんじゃないか?」
「さすが旦那様。よくお気づきで」
「よかったら見せてくれないか?」
まあ、見せるほどのものではないとは思いますがと付け加えて奴隷商は懐から最後の契約書を取り出す。
受け取ってその内容見てみると、今回交わした契約の倍の金額がそこには記されていた。
「こっちを渡さなくてよかったのか?」
「それはそれは、旦那様」
それまで無表情だった奴隷商は、その顔をアクの強いものに変化させた。
「それこそ旦那様が昔私に仰っていたことじゃないですか。こういった仕事は相手を信頼しないと始まらないと」
「そう思ってくれてたんだったら、もう少し商談をお手柔らかにしてほしかったもんだな」
「それとこれとは話が違いますよ旦那様。商談そのものは真剣に行わなければなりません」
そう言いながら奴隷商は薄気味悪く笑う。なんだかんだ隙があれば毟れるだけ毟るつもりだったのだろう。
「ってことは、俺になにか別の依頼でもあるんじゃないのか?」
「話が早くて助かります、旦那様」
事が自分の思い通りに展開しているからだろうか奴隷商は満足げだ。
「風の噂で聞いたのですが、今大流行の南方との貿易事業、あれの一番のところの一番の出資者が旦那様らしいじゃないですか」
今日の日のために金を作っていた俺は、あの南方への事業にだいぶ追加投資を行って利益を得ていた。それも筒抜けだったらしい。
「南方への貿易事業、私も大変興味がございまして。よろしければ、その担当の方とお話ができたら良いなと思っておりまして」
「ああ、わかったよ。手紙を書いておく」
「ありがとうございます、旦那様」
要は貿易事業で力の有りそうな人間と話をすべく、俺を人脈として利用したいそうだ。
後出しの内容がその程度ならまあいいだろう。
倍額の契約書を提示されるより遥かにマシだ。
「ご主人さまー!」
馬車に乗り込もうとしたカリンが遅れている俺に声をかける。
「ああ、今行く!」
俺はカリンに返事をする。それを聞いてから奴隷商は最後の挨拶を俺にする。
「それでは旦那様、近日中にお伺いしますのでよろしくおねがいします」
「ああ、なんとかしておくよ」
奴隷商は振り返り屋敷に戻る。気を使ってくれたのかは分からないが、馬車まではついてこなかった。
馬車にたどり着いた俺は乗り込んで腰を掛ける。
一気に疲れが襲ってくるような感覚にみまわれた。
カリンが御者に声をかけると馬車が動き出した。
「その、ご主人さま。本当にありがとうございました」
「ああ、気にすることはないさ」
リナはカリンの隣に座り、くっついて離れない様子だった。
「そういうわけにもいきません、ご主人さま。私も今まで以上に頑張らさせていただきます」
「そうだな。そうしてもらおうか」
それにしても一気に疲れてしまった。
馬車から外を眺める。
景色はほとんど見えないが、月明かりが行き先を照らしているようだった。悪くはない。
リナのことについて色々聞こうと思い、車内に目を戻すも二人共すでに寝てしまっていた。
やはり俺と同じ様に疲れたのだろう、二人は寄り添い合うように体を預けあっている。
その手は握られたままだった。
窓枠に肘を置き、顎に手を当ててなんとなく二人の姿を見続ける。
改めてリナを見てみるとカリンとよく似ているようで、さすが姉妹といった感じだった。
視線を移してカリンを見てみる。
するといつの日だったか、馬車で眠るカリンを同じように眺めていたことがあったのを思い出した。
確かその時は、睫毛や前髪が長いとか、そんなことに気がついたんだっけか。
当時の姿を思いながらカリンを見てみると、いつの間にかずいぶん成長したようだった。
リナと比べるとより一層、立派なお姉さんに感じられる。
そうか、いつの間に、か。
そんなことを考えているとどうやら俺も眠たくなってきたらしい。
瞼が重く動かすことができない。まあいい、一番の目標は達成できたんだ。
そう思いながら俺は馬車の揺れに身を任せ、深い眠りに落ちていくのだった。
続けてエピローグもどうぞ。




