瞳
カフェを出て、もう今日は帰るねという、千沙ちゃんの後ろ姿を見届ける。
前から来る人に、どんっとぶつかったりして、謝りながら歩いていく。
そして、角を曲がっていった。
何だったんだ、さっきのは。
俺はどういうことが俺の身に起こったのか、よく理解することが出来なかった。
だってそうだろう、もし俺の立場だったら、お前だって動揺するだろ。
『私と、付き合ってもらえませんか』
「えええ、嘘だろ、おい」
俺はその場に座り込んだ。
これが本当だったら、これが夢じゃなかったら。
そりゃあ、もちろん。
俺はうおーっと叫んで喜びを身体中で表現するだろう。
けれど、直ぐにカーディガンを次に会った時に返すね、と伝え忘れたことに気付き。
慌てて、千沙ちゃんの後を追いかける。
そして。
角を曲がって、俺は立ち止まった。
かなり遠くに行ってしまったけれど、その後ろ姿は分かる。
あの男が隣にいた。
手を繋いでいた。
千沙ちゃんは、何かを楽しそうに話している。
すると、男が繋いでない方の手を、千沙ちゃんの頭に置いた。
笑った。
そして、そのまま歩いていった。
手を、手を繋いだまま。
俺はその場で立ち尽くすしかできなかった。
✳︎✳︎✳︎
誰とでも手を繋ぐんだ、俺だけじゃねえ。
それにいつも送り迎えしてるし、さも大切そうに頭に手をのせて。
兄妹かと思ってみたけど、千沙ちゃんに兄妹がいないことを、俺は施設で知らされていた。
生き別れの兄妹か、などと思ってみる。
けれど、そうやってぐるぐると考えてみても行き着くのは「恋人」というゴール。
「手なんか繋ぐかよ、兄妹が」
くそっくそっ、と何度も頭をガシガシと掻く。
俺と付き合って欲しいと言ってなかったか?
俺の幻聴だったのか?
嫉妬で気が狂いそうになる。
嫉妬と猜疑心とで、か。
けれど、考えてみる。
いや、兄妹か? 親戚か?、とかそういうことじゃねえよ。
もうそれは良いんだ、あり得ないって結論に至ったんだからな。
そうじゃなくって、千沙ちゃんにはあの男がお似合いだっていうことだ。
背も高くてイケメンだし、強面だけれど、千沙ちゃんには優しいみたいだ。
暴力は振るわない、もし振るわれていたら、千沙ちゃんの様子で分かるはず。
比べたくはねえけど、比べたりしたら、もう結果は分かりきっていた。
断ろう、ってか、もう無かったことになってたりしてな。
俺はもう何本目か分からないビールの缶を空にすると、シンクにガコンと音をさせて放り投げた。
スマホがメールの着信音を鳴らす。
今度、いつ会えるかな
遠慮がちな、千沙ちゃんからのメール。
俺は少しの間考えて、返信した。
今度の土曜日の十二時に、今日待ち合わせした銅像の前で。
カーディガンを袋に入れて、用意する。
これを返して終わりにしよう。
もう終わりにするんだ。
心臓が、ひどく痛んだ。
✳︎✳︎✳︎
土曜日の昼前、早めに着くように電車に乗った。
待ち合わせの銅像からは、少し離れた所にある花壇の縁に座る。
俺は手で顔を覆った。
今、絶対に醜い顔をしている。
歪んで、酷い顔をしている。
顔を上げると、二人が並んで歩いてくるのが見えた。
やっぱりそうか、今日も送り迎えだ。
相手の彼氏は千沙ちゃんとちょうど良い背丈。
繋いだ手を、彼氏のポケットに入れている。
少し、肌寒い日。
もう駄目だ、完全にもう終わりだ。
千沙ちゃんとも、今日でもう会わない。
そう思うと、なんだろう、哀しくて哀しくて。
今までにだって、突然の別れがあったはずだ。
俺は、それでも生きたんだから、今日で千沙ちゃんとの繋がりが終わったって、生きられるはずだよ。
けれど、この前までの幸福感と、今、身をもって感じさせられている絶望。
この落差は半端ねえ。
千沙ちゃんが顔を上げた。
俺がもう来ていることは分かっていただろうに。
それでも、彼氏の手は離さなかった。
千沙ちゃんが隣の彼に何か話すと、彼は振り返って行ってしまった。
千沙ちゃんが、待ち合わせの女の子の銅像の前を通り過ぎ、俺が座っている花壇へと歩いてくる。
手を少し前に出して、軽く振りながら。
「トオルくん、早いね。私も少し早く来ちゃった」
早く来るのは、彼氏に送ってもらうのを見られたくないからか。
俺は酷い顔を崩さずに、そのままで言う。
「千沙ちゃん、これ借りていたカーディガン。長い間、ありがとう」
「え、あ、そうだった。今日でなくても良かったのに」
泣きそうになる。
「今日じゃないと……駄目なんだ」
その言葉で、千沙ちゃんの表情に陰りが差す。
「あの、トオルくん、もしかして、この前の返事って、」
良かった、無かったことにはなってなかったんだな。
俺は少しだけ微笑むと、
「ごめんね、」
千沙ちゃんが、その大きな瞳を真ん丸にしている。
俺の愛した黒い瞳。
「つ、付き合うのがダメなら、たまにご飯食べたりとか、一ヶ月に一回とかでも良いから、」
「俺に付き合う暇があったら、彼氏と会った方が良いんじゃない」
ついに言ってしまった。
言い方も、本当にどうしようもない。
俺は本当に、どうしようもないヤツだよ。
「か、彼氏は居ないから。誰とも付き合ってない。善ちゃんは友達で、」
俺は遮って言い捨てた。
「もう良いよ、そんなの。千沙ちゃんにはあの人の方が似合ってるんだから、そんで良いんだよ。俺はもう会わない。もう二度と会わない。カーディガンも返すし、」
カーディガンの袋を押し付ける。
「一年に一回でも良いの、お願い、トオルくん。トオルくんが好きなの。もう二度と離れたく、ない」
涙が。
次々に流れて落ちていく。
肩を震わせて。
けれど、俺にはもう限界なんだ。
「好きとか、思ってもないこと言わなくて良いよ。なんだよ、昔親切にして貰ったから、その恩返しみたいな? そんなこと、しなくて良い。俺は千沙ちゃんが彼氏と仲良く幸せになってくれれば、そんで良いんだ、満足なんだよ」
「善ちゃんは、違うの、友達で……」
「友達と手なんか繋ぐかよっ‼︎」
しまった、と思った。
千沙ちゃんの身体がびくりと震える。
声を荒げてしまって、こんないい歳のおじさんが嫉妬で狂っておかしくなるって、あり得ないだろう。
俺は何をやってる。
冷静に、カーディガンを返して、もう会わないと言うだけのつもりだったのに。
「もう良いよ、ごめん。怒ってるとか、そういうんじゃないんだ。でももう、二度と会わない。俺なんかに会ってちゃ駄目なんだよ」
これで終わりだ。
俺の、千沙ちゃん。千沙ちゃん。千沙ちゃん。
愛してるんだ、心から。
もうずっとずっと、昔から。
「じゃあ、ね」
俺は踵を返すと、元来た道へと足早に歩き出した。
振り返らず、振り返らず、歩いて歩いて。
涙は出なかった。
身体中のそこかしこに力を入れていたから。
途中、駅ってどっちだったかな、一度だけそう思って、何かを考えた。
それだけは覚えている。
✳︎✳︎✳︎
駅の入り口で切符を買う。
一瞬どこに帰るのか忘れてしまって、指をぐるぐると回しながら該当駅のボタンを探す。
見覚えのある字で止まって押したけれど、本当にあっているかどうか。
ホームに出ると、電車を待った。
俺はずっと遠くを見ながら、ぼんやりとしていた。
ぼんやりと、けれど、見ているかと言ったら、どうなんだろう。
見てないと言った方が合っているのか。
もうそういうのはどうでも良い。
壊れたロボットのようになっているんだ、俺は。
「おいっ‼︎」
耳元で声がしたかと思うと、肩をぐいっと引っ張られて我に返る。
「お前、千沙をどうしたっ」
ああ、お前か、イケメンのにいちゃん。
俺は皮肉も混ぜて、言い放った。
「安心しろよ、もう会わねえから。今まで邪魔して悪かったな」
俺は向こう側のホームに向き直った。
もうすぐ電車が来る、はずだ。
「お前、バカか‼︎ 千沙は目が見えないんだぞっ‼︎」
一瞬、何が起こったのか分からず、え、と思う。
何だって?
今、なんて言った?
俺はアホ面で男を見た。
「あいつ、目の前の範囲が少し見えるだけで、あとはよく見えねえんだ。お前、よくもそんな千沙をひとりにしやがったな、くそったれ‼︎」
走って行こうとする男の肩をぐいっと引っ張る。
「でも、ちゃんとっ……‼︎」
見えていたぞ、映画だって見たんだと言い掛けて、ぐっと言葉を呑む。
だから、手を繋いだのか?
そうなのか?
「知らなかったのかよ、千沙に聞かなかったのか? とにかく急いで探すんだ、あいつ周りが見えねえから、何度も車に轢かれそうになってんだ‼︎」
俺は、ぞくっと背中を何か冷たいものが走っていくのを感じた。
男の後を急いで追い掛ける。
切符を窓口に置いて、すみません、急用を思い出して、と説明し通してもらう。
男は切符を改札機に通すと、すごいスピードで駆けていく。
俺は、彼の後ろをひたすらついていった。
待ち合わせの銅像まで、息を切らせながら辿り着く。
はあ、はあと何度も息を吐き、早く動いて仕方がない心臓を押さえる。
待ち合わせの場所には居なかった。
見えないのに、見えていないのにどこへ行ったんだ。
あちこちを見渡す。
男はさっきから繰り返し電話をしているが、応答がないようだ。
くそっと言いながら、スマホを何度も操作しながら、キョロキョロとして探している。
「おい、環、千沙の場所を教えてくれ。居なくなっちまったんだ、頼む」
誰か別の人に、居場所を見つけてもらおうとしているようだ。
「南、か? 距離は? そんなに離れてない? 分かった、サンキュ」
スマホをポケットに入れると、俺の顔を見てから走り出す。
俺も一緒になって走った。
少し広い交差点に出る。
「おい、千沙っ‼︎ 赤だぞっ‼︎」
男が叫んだ方角を見る。
俺は、ひゅっと息を飲んだ。
赤信号を渡ろうとしているその後ろ姿。
一歩一歩、車道へと進んでいく。
もちろん、赤なんだから信号の前で止まるだろうと、当然のようにスピードを緩めない車が、次々に横切っていく。
「千沙ちゃんんっ‼︎」
俺はその時、何を考えたんだろう。
後になっても覚えていなく、確認する術ももう無いのだけれど。
身体が熱くなり、一瞬浮いたような気がする。
あとは覚えていない。
「千沙ちゃん、千沙ちゃん‼︎」
俺の、腕の中。
千沙ちゃんが目を開ける。
漆黒の瞳。
俺は、彼女を抱き締めていた。
抱き締めて泣いていた。
千沙ちゃん、と何度も名前を呼んだ。
君を愛してるんだ、俺はこんなにも君を。
「トオルくん、」
俺は千沙ちゃんの、天使の声を聞いた。
「トオルくん、好きなの、大好きなの」
黒い瞳が、俺を見ていた。
✳︎✳︎✳︎
「お前が知らないなんて、計算外だった。千沙、何で言わなかった?」
少し怒って言う男に、千沙ちゃんはごめんと言った。
「トオルくんに、鬱陶しいって思われたくなくて。お荷物になりたくなかったし、嫌われたくなくて」
「いつから、目が?」
俺は慎重に訊いた。
「中学に入ってから徐々に、」
「お前、バカだな。俺が行くまで、どうしてそこで待っていなかった」
「ごめんね……トオルくんを追いかけないといけない、と思って」
「でも、全然反対方向だったぞ、この方向音痴が」
千沙ちゃんが俯いた。
「もう会えないんだと思ったら、パニックになっちゃって。た、探知能力もあてにならないんだね」
俺はイスを引いて、今一度座り直して姿勢を正した。
あの時、千沙ちゃんが車道へ出る間際、俺は千沙ちゃんの後ろへと瞬間移動し、歩道へと千沙ちゃんを引き戻した。
一緒になって、後ろに倒れたものの、二人に怪我はなかった。
少し落ち着こう、という事となり、近くの喫茶店に入ったのだ。
「良かったよ、怪我もなくて」
「トオルくん、ごめんね。め、迷惑かけちゃって……あと、助けてくれてありがとう」
「いや、いいよ」
「…………」
千沙ちゃんが、俯いたまま顔を上げない。
沈黙が続いて、いたたまれなくなり、俺が話しかけようとしたところで、男が声を出した。
「千沙、お前ちゃんと伝えたのか? あんたに言っとくけど、俺ら恋人とかそんなんじゃねえよ。俺は、千沙の付き添いを頼まれてるだけなんだ」
「ぜ、善ちゃんは、好きな人が居るんだよね」
「ばか、お前。そんなことはどうでも良いだろう」
イケメンが、顔をしかめて照れたような表情になる。
「俺、本当に勘違いしてたんだな」
はあっと盛大に溜息を吐く。
そんな俺を見て、イケメンは言った。
「あんた、凄いね。かなりの距離あったけど、すっとんでって、千沙を助けるなんてよ」
「ほらあ、トオルくんはかっこいいでしょ。小さい頃も私を守ってくれたの、」
少し間を置いて、続ける。
「お母さんからも、お母さんからも助けてくれたの」
千沙ちゃん、と呟いてから、俺は思い出していた。
母親に殴られて青あざを作っていた、あの遠い日。
けれど、違うんだ、反対なんだ。
俺が千沙ちゃんに守ってもらったんだよ。
どうしようもなかった俺を、あんなにも小さい手で。
「ああ、そうだな、千沙の言ってた通りだ。なあ千沙、お前知ってんのか。このおっさんなあ、顔も結構イケてるぞ」
おっさんて!
俺は苦笑いを浮かべると、
「そうだな、俺なんて、ダメな人間で、ヨレヨレで、ロリコンで、おっさんなんだよ」
でも、と続ける。
「でも、千沙ちゃんが好きなんだ。こんな俺でも良かったら、付き合ってもらえないかな」
千沙ちゃんは、俺の大好きな黒い瞳を真ん丸にした。
そして、涙をポロポロと落としていった。
それから、笑った。
笑ったんだ。
「トオルくん、大好き。大好きなの」
そして、涙を拭いもせずに、言った。
「ねえ、訊いていい? ロリコンって、なあに?」
俺とイケメンは、ぶはっと吹き出して笑った。
そして、キョトンとしていた千沙ちゃんも、一緒になって笑った。