夢の後先
何だろうな、この空虚感は半端ねえ。
千沙ちゃんに何年ぶりかに、会ったというのに。
最後に会ったっていうか見たのは、中学校に上がる前だから、十二歳か、ってことは、六年ぶりってことか。
俺は本当に何をやってるんだ。
六年も想い続けていたってことか。
いや、初めて会ったのは、千沙ちゃんが三年生だから、九年か。
凄えな、俺。
何やってるんだ、心底思うよ。
俺は仕事からやっとの事で帰ると、アパートのドアの前で、カバンを探って鍵を探す。
手にごつりと当たる冷んやりとした感触を探り当て、俺はそれを引っ張り出した。
鍵穴に鍵を入れようとした時、俺はふと瞬間移動のことを何気に考えてしまった。
それだけ、疲れていたんだ。
その瞬間、身体がドアにバシンとぶつかる。
頭から、おでこやら鼻やら胸やら足先やらを、見事に綺麗に全身打ちつける。
「痛ってえ、何だ? 何が起きた?」
とろり、と鼻から何かが降りてきた。
ぽたっと床についた赤い固まりを見て、うわ、鼻血だと思い、慌てて鼻をつまむ。
片方の手でカバンを下ろし、鍵を回す。
そして、改めてカバンを拾い上げ、中に入った。
ソファにカバンを放り投げティッシュを鼻に詰めてから、キッチンの椅子に座る。
そして、回らぬ頭で考えてみた。
瞬間移動のことを考えて、こうなった。
ってことは、まだ俺はそれが出来るということだ。
部屋の中へと入る時だったから、多分入ろうとしてドアに遮られた。
そうか、当たり前だ、物質を通り抜けられるわけじゃ無いんだからな。
そして、暫くして、ちょっと待て、と思う。
「じゃあ、電車のホームから反対のホームに飛んでいた時、電車が来てたら死んでたって……ことか」
そこに思い至り、少しぞっとする。
今、俺、よく生きてんな。
奇跡か、危ねえ。
俺は冷蔵庫からペットボトルの水を取り出すと、勢いよくゴクゴクと喉に流し込んだ。
で、気付く。
喉が凄く渇いていたことに。
勢いよく飲んでしまったので、鼻に突っ込んであったティッシュが濡れる。
それを取って新しいものに替えたところで、玄関のチャイムがピンポンと鳴った。
誰だろう、と素直に思う。
最近では、彼女も居ないから、誰も来ないはずなのに。
はい、と返事をして、ドアを開ける。
すると、そこには女が立っていた。
女と言っても、俺をトオルくんと呼んで興ざめさせ、最近縁を切った女だ。
興ざめってなあ、俺の身勝手さも甚だしいけどな。
けれど、誠心誠意の振り方をしたはずなんだ。
こっちが悪りい、ごめんって、何度も謝ったしな。
「トオルくん、あのさ、トオルくんのこと、私諦められなくて。もう一度、付き合うとかってできないかな。もう結婚してとか、そういうこと言わないようにするからさ。あれ、どうしたの、鼻血?」
ヨリを戻すって話か。
結婚がどうのっていうことじゃねえんだよ、トオルくんって呼ばれるのがもうダメなんだよ。
そう呼んで良いのは、千沙ちゃんだけなんだよ。
俺は、何度もトオルくんと呼ばれて、重たい碇を抱えさせられて海へと沈められたような気がして、心底勘弁してくれと思っていた。
こんな風に玄関口で話していても、どうぞって中へと促す気にもなれない。
俺は、ドアを片手で押さえながら話していて、腕がだるくなってきたし、鼻のティッシュももぞもぞして取り替えたい気持ちになっていて、どうやって話を切り上げようかって、そればかりが頭を回っていた。
すると、ふと彼女が横を見て、そこに誰かいるのだろうか、声を掛ける。
「何、あんた。何か用?」
そのぞんざいな言い方で、俺はさらに興ざめた。
興ざめ、興ざめって、うるさいって?
いや、彼女に対しては、もうそれしか思い浮かばないんだよ。
とにかく、もうダメなんだ、受けつけねえんだ。
けれど、一体誰に話してるんだと気になった。
このアパートの、あのいつも寝癖がついている、隣の住人だろうか?
「あ、あの、ごめんなさい」
その声で俺ははっとした。
クロックスを慌てて履いて、玄関口の彼女を押しのけて外へと出る。
「と、トオルくん、急に来ちゃってごめんなさい。あの、私、」
千沙ちゃん、俺は踵を返して帰ろうとした千沙ちゃんに近づいて腕を掴む。
嫌だ、もう離せない。
「ちょっとトオルくん、その人、誰? 妹? 何でここにいんのよ?」
彼女の強い口調に怯み、千沙ちゃんは振り返って帰ろうとする。
「千沙ちゃん、待って。行かないで」
俺は言ってしまった。
いつもなら、言いたくてもぐっと堪えてきた言葉を、ついに口に出してしまった。
「あんた、誰って訊いてるの。トオルくん、何なのこの人?」
「ごめんなさい、わ、私、ごめんなさい、トオルくん、ごめんなさい」
嫌だ、どうしてそんな風に謝るんだ、千沙ちゃんは悪くない、それなのにどうして。
「悪りい、アヤ、帰ってくれ。俺、もうお前とは付き合えねえ。俺たちもう、別れたんだから」
それで、修羅場となるかと思いきや、彼女は諦めてすんなりと帰っていった。
千沙ちゃんの腕を掴んだままの俺と、笑いながらでなく、悲しい顔をして涙を流している千沙ちゃんとを残して。
「ごめんね、彼女さん、怒らせちゃって。トオルくん、結婚してないって言ってたから、それならおうちに行っても大丈夫かなって勝手に思って。私、彼女さんがいるなんて、考えてもみなくて」
俺は慌てて言った。
その分、強い口調になる。
「もう別れたから、彼女じゃない。付き合ってる人はいないんだ、俺、彼女はいないよ」
何を言ってる、こんな必死になって。
そんなことは、千沙ちゃんにはどうでも良いことじゃねえ。
「そう、なんだ」
良かった、ごめんねと俯いて涙を拭う千沙ちゃんを、あろうことか俺は抱き締めたいと思った。
腕を握る手から、千沙ちゃんの体温が伝わってきて、俺をおかしくする。
けれど、そんなことをして、嫌われたくない。
せっかくこうして会いにきてくれたのに、これで終わりとかにしたくない。
千沙ちゃんは、涙をポタポタと落としながら、笑う。
これが、千沙ちゃんなんだ。
俺は何かは分からないけれど、とにかく何かをぐっと我慢して、言う。
「ちょっと出よう、近くにファミレスあるから、何か食べに行こう」
千沙ちゃんは、涙を手で拭うと、うんと頷いた。
涙の拭い方だけは、大人になっていた。
✳︎✳︎✳︎
「何、食べる?」
「あ、うん、明太子パスタ」
「すみません」
俺は手を上げて店員を呼び、コーヒーと明太子パスタを注文した。
手持ち無沙汰になり、コップを掴んで水を飲む。
目の前に、可愛らしい女子高生がいる。
俺はソワソワして何だか落ち着かなかった。
尻の座りが悪りい。
けれど同時に、感動している自分もいる。
だって、あの千沙ちゃんだぞ。
施設でも、見守るだけだった。
そんなにじっくりと長く話したこともなく、そうだな、例えるならちょっとした顔見知りっていう程度だったはずなのに。
「トオルくん、かっこいいね」
「千沙ちゃんこそ、すっげえ美人さんになったな」
俺は心からの実感を込めてしまい、こんな言い方すると引いちゃうだろうと思い、少し焦った。
テーブルの上に投げ出されている両の手が白く、白く、俺はこの手が誰と繋がっているのだろうかと思うと、ずきっと何かが胸を刺した。
漆黒の、真ん丸の瞳。
くりっとしていて、けれどその長い睫毛は濡れていて、しっとりと艶やかだ。
唇はふっくらとして結ばれており、すっと通った鼻梁の先に、小ぶりで形の良い鼻がある。
何てことだ、俺は本当にどうかしている。
「どうして、俺の家が分かったの?」
最寄りの駅の名前しか教えてなかったはずだ。
このファミレスに来る道中、その点を怪訝に思いはしたけれど、あまり深刻には考えていなかった。
と言うより、考えられなかった。
千沙ちゃんと並んで歩いている、そう思うだけで、ふわふわと宙を漂っているような気持ちで一杯だったからだ。
俺の足は、本当に地面についているのか? と。
けれど、信じられないことに千沙ちゃんが、
「手を繋いでも良い?」
と、訊いてきた。
俺の心臓は飛び出しそうになったけれど、それを何とか抑えて冷静さを取り戻す。
「良いよ」
手を後ろ手に出すと、すっと細い指が入り込んできた。
初めて、触れる。
このまま、ファミレスに無事に辿り着けるかと、俺は心配になるくらい緊張していたと思う。
軽く握る手にしっとりと汗をかく。
恥ずかしいような、舞い上がりそうな。
そうやって、何とか辿り着いたんだ。
そして辿り着いたところで、はっとする。
鼻に詰めたティッシュの存在を忘れていたのだ。
俺は直ぐに鼻から取り、ポケットの中へと突っ込んだ。
久しぶりに千沙ちゃんに会えたというのに、こんな恥ずかしいことってあるか?
教えてくれればいいのに、と少しだけ千沙ちゃんを恨んでしまった。
けれど、イスにちょこんと座る千沙ちゃんの顔を見ると、直ぐに俺はそんなちっぽけなこと、どうでも良くなっちまったけどな。
俺は話を変えた。
「それ、学校の制服? 可愛いね、凄く似合ってるよ」
うわ、俺、またやっちまった。
そういうセクハラおやじみたいなの、本当に止めろ、俺。
「うん、私立の高校に通わせて貰ってて。勉強、楽しくて」
「偉いね、」
俺は言葉を切った。
変な言葉が出ないようにと、慎重になる。
言葉を、頭の中で順序良く並べて用意してから、その中から選んで口に出す。
俺は今、石橋をそろりそろりと歩いている。
「私、もう自由になった。だから、トオルくんにまた会いに来ても良い?」
思ってもみない意外な言葉に、俺は今までの慎重な姿勢を崩せずにいて、返事に詰まってしまった。
そこで千沙ちゃんが頼んだパスタを、店員がお待たせしました、と運んできた。
千沙ちゃんは少し後ろに仰け反ってから、慌てて言った。
「迷惑かな、やっぱり」
パスタを見続ける瞳が揺れる。
ずっと、そのまま見続けている。
俺は慌てて、言った。
「迷惑だなんて、そんなことないよ」
この続きで聞けるかもしれない。
俺はドキドキと今にも口から飛び出しそうな心臓を落ち着かせようと、手をぐっと握った。
もしかして、この問いの返事で、俺は奈落の底に突き落とされるかもしれない。
這い上がって来られないかも知れない、立ち直れないかも知れない。
俺は水を一口飲んで、息を整えた。
「でもさ、お、俺になんて会いに来たら、か、彼氏が怒るんじゃない」
俺は直ぐに下を向いた。
声は震えてなかっただろうか、裏返ってなかっただろうか。
俺は千沙ちゃんの前になると、どうしてこんなに小心者になってしまうのだろう。
これが恋というやつか、そうなのか?
「いないよ、彼氏なんて」
嘘だ、嘘だ、こんなに愛らしいのに。
こんなに可愛いのに。
「はは、冗談だろ、モテるでしょ、ちゃんと」
俺は、次に運ばれてきたコーヒーを俺の前に置く店員を見て、軽くお辞儀をする。
コーヒーの砂糖を持つ手が震える。
情けねえ。
「ううん、本当にいないよ」
「そんなはずはないよ、俺は別に気にしねえし、」
そこまで言って、コーヒーを飲もうとカップを手に取って、千沙ちゃんを見た。
けれど、直ぐにがちゃりと置いた。
「うわ、ごめん、俺何かマズイこと言ったな。ごめんな、ごめん」
大きく見開いた瞳から、それこそ大きな涙の粒がポロポロと零れ落ちる。
瞼を閉じずに、開いたままで。
「彼氏なんていないよ、本当に」
俺は頭を掻いて、もう一度ごめんと謝った。
じゃあさ、俺と付き合ってくれない?
そうやって簡単に言葉に出来れば、苦労はねえ。
「じゃあ、」
俺は一呼吸置いて、言った。
「じゃあ、時々で良い、俺と会ってくれる?」
千沙ちゃんは、少し驚いたような顔を上げると、うんと頷いた。
えへへ、と嬉しそうな顔をして。
その顔は、昔俺がスナック菓子をあげた時の顔じゃねえか。
何だよ、本当に、俺はちゃんと生きてんのか?
ちゃんと息してんのか?
身体中の細胞が泡立つように、ざわざわと騒ぎ出す。
俺は、本当に生きているか?
俺はそうやって、何度もこれは本当に現実なのかと、確認した。
「トオルくんの家に行っても良い?」
「そ、それは、ちょっとまずいから、ごめんな。勘弁して」
そうだ、家に女子高生はマズイ。
「う、ん」
「千沙ちゃん、そういえば俺の家、どうして?」
パスタに手をつけて、フォークをクルクルと回す。
それを嬉しそうにパクッと口に入れた。
もぐもぐと動く唇に明太子の粒が付いている。
そんなとこも、たまんないな。
「私には分かるんだ、トオルくんがいる場所が」
俺は、千沙ちゃんの唇に釘付けになっていた目をようやく離すと、改めて千沙ちゃんの顔を見た。
ちょっと待て、どういうことだ。
「それが私の力なんだって。トオルくんのシュッていうのと一緒だよ」
「え、と、ちょっと待って。俺の居場所が分かるってこと?」
「うん、駅の名前訊いたでしょ、駅まで来たらこっちだって分かって」
おいおい、それって。
「俺じゃない人も分かるのか? 今どこにいるのかってこと」
「うん、知ってる人なら、大体探せる」
「そういえば、引き取られた先に、たくさん居るって言ってたね。それって、どういう……」
俺みたいなのが、一杯いるって言ってなかったか?
「トオルくんみたいに速く動ける人もいるよ。この前、私を迎えに来てくれた善ちゃんは、凄く強いの。力が」
背の高いイケメンを思い出す。
異様な雰囲気を醸し出していたな、そう言われてみれば。
「焔を操ったり、水を操ったり、色々。私は探知能力があるんだって。時々、友達とか探したりしてる」
「友達……」
いるだろ、そりゃあ普通にな。
俺は何に嫉妬しているんだよ、俺は何にでも嫉妬すんのか、心の狭い男だ。
「変なところじゃないか? 大丈夫か?」
パスタの最後の一口を平らげると、ニコッと笑って言った。
「大丈夫だよ、皆んな親切なんだ。良い人ばかり」
だから、何に嫉妬してんだっつーの。
「良かった」
心とは裏腹に、俺は呟いた。
✳︎✳︎✳︎
代金を払ってファミレスを出ると、ドアから比較的近い電柱の陰に男が立っていた。
こちらの様子を伺っているようだ。
ああ、この前の、善ちゃんとかいう。
「じゃあ、今日は帰るね」
そうか、千沙ちゃんを迎えに来たのか。
彼氏じゃないって言ってたのに、どういうことだ。
「トオルくん、また連絡するね」
千沙ちゃんはスマホをぶんぶんと振ると、その男の方へと歩いていった。
その後ろ姿を見て、
「本当に……また会えるんかな」
俺は呟くとポケットに手を突っ込んで、家へと帰った。
帰り道、俺は色々なことを考えたよ。
こんなおじさんと手なんかつないじゃって良いのかとか、やっぱりあの迎えに来た男は彼氏じゃないのかとか、相変わらずパスタをうまそうに食べていたなあ、なんてことを色々。
ポケットに突っ込んだ手にスマホが触れる。
このスマホの中には、千沙ちゃんの携帯番号が入っている。
何ていう奇跡だ。
俺はこれで、一生分の運を、っていうかツキを、使い果たしてしまったのではないか。
この奇跡と交換で、俺の瞬間移動の能力も無くなってしまったのではないか。
でももう、力は使わないと決めたから、どうだって良いけどな。
「連絡、待ってるね」
帰り際、千沙ちゃんは小さな声で言った。
自分の携帯番号を教えると、トオルくんからの連絡待ってるからメールしてね、と言って、俺のメアドや携帯番号は訊かなかった。
俺の家も知っているからだろうか、そして、何度も連絡待ってるねと言ってくれた。
俺は家に帰ると、早速メールをしようと思い、スマホを取り出す。
デートって言うか、まあデートとは言えないかもしれないけど、デートの後に直ぐに連絡を寄越すなんて、バカな男のすることだなと苦笑しながら、けれど俺は家に帰ってもまだ舞い上がっているその勢いのままで、バカでも良いだろ、良いんだよと自分に言い聞かせながら、画面をタップした。
今日は会えて嬉しかった、と打ってから、思い直して全部消す。
今日は話せて楽しかった、そしてまた消去する。
目を瞑って少し思案し、また画面を見る。
千沙ちゃんに会えて嬉しかったよ、また今度会いたい、そこまで打ち込んで、そして会いたいを消して、会おうね、消して、会えると良いな。
これなら、そんなに重くない、と思う。
何度も読み返すと、送信ボタンをえいっと押す。
あ、名前書き忘れたと思い、でもそんなの文章の内容で分かるよな、布団の中に潜り込んで、枕の横にスマホをぽいっと投げる。
俺は天井を見上げ、返信が来るのを待った。
直ぐには返事は来なかった。
そうしている内に、いつの間にか眠り込んでしまい、気がついたらもう外は明るくなり、次の朝を迎えていた。
寝起きのぼんやりと霞のかかった頭で昨日のことを思い出す。
そうだ、昨日は奇跡が起きたんだ。
慌ててスマホの画面を見る。
新着メールの文字で、俺は寝起きの頭をクリアに出来た。
宛名は未登録。
俺はベッドの上に正座して姿勢を正すと、画面をタップした。
昨日はごちそうさまでした、私もトオルくんに会えて嬉しかった、また会いたいです
俺はスマホを握り直すと、もう一度文面を読んだ。
俺が書きたくても書けなかった、「会いたい」の文字が嬉しくて嬉しくて。
何でだろう、感動して涙まで出てきやがるんだよ。
寝起きの頭で読んだからか、頭の中がぼうっとぼやける。
俺は涙をそのままにして、いつまでもスマホを握り続けた。