涙
俺は寒さで目を覚ました。
身体を起こす。
するっと何かが身体を滑っていって、パサリと地面に落ちた。
よく見ると、ベージュ色の塊が落ちている。
手を伸ばして拾うと、それがカーディガンだと分かった。
俺のじゃねえ、そう思って辺りを見回しても誰の姿も無い。
横になっていた俺の身体に掛けてあったのは間違いない。
誰かが掛けてくれたのか、俺は立ち上がってキョロキョロと見回した。
「そんなはずがない、」
俺は頭の中に浮かんだ考えを否定しながら、深く深く失笑した。
ベンチに座り直すと、もう一度カーディガンを見る。
ベージュという色の効果もあるだろうか、暖かそうなそのカーディガンを首に巻きつけて結ぶ。
マフラーの用を足していて、意外と身体が暖まる。
「暖けえ、せっかくだから借りますよ」
これで、温かい缶コーヒーでも飲めば、取り敢えずは死なねえな、そう思ってから立ち上がる。
すると、ガシャガシャと音を立てて、誰かが走ってくる。
俺は動けなくなった。
まさか、あれは、あれは……まさか。
「トオルくん、」
涙がポロリと落ちた。
誰の目からだ?
そんなの俺のに決まってんだろ。
近づいてくる、俺が愛した千沙ちゃんが。
「トオルくん、あの、私のこと、覚えてるかな」
千沙ちゃんが腕一杯に、コーヒー缶を抱えている。
「これ、寒そうにしてたから、温かいやつ買ってきたよ。飲む?」
この寒さで少しだけ鼻が赤くなっていて。
息を、白くさせながら。
俺が何も言わないから、千沙ちゃんが一歩後ろへと引いた。
「あ、あの、覚えてないかもしれないけど、あの、昔この公園で、」
どう説明していいのか、分からないと言ったように、言いあぐねている。
黒い瞳がゆらゆらと揺れている。
何て美人になったんだ。
何て可愛らしい子になったんだ。
俺は駆け寄って、抱き締めたい衝動に駆られていた。
それぐらい、驚きと感動と懐かしさと嬉しさがないまぜになって、俺を襲う。
涙が、俺の頬をどんどんと流れていく。
ずずっと鼻を啜りあげる。
そんな俺を見て、千沙ちゃんの目からも涙が零れ落ちた。
そして千沙ちゃんも、ここで俺たちが初めて会った時のように、笑顔で泣いたんだ。
俺は空を見上げた。
それはいかにも寒そうな色。
雲も寄り添ってお互いを暖めあっている。
俺は近づいていって、缶コーヒーを一本貰うと、千沙ちゃんはにこっと笑った。
そして、瞳から水晶のように綺麗な涙を、零した。
✳︎✳︎✳︎
「トオルくん、相変わらずかっこいいね」
俺が買った桃ジュース、ではなく缶のカフェオレを、俺の隣で飲んでいる。
夢だろうか、何度も思う。
けれど、夢じゃないと思い直す。
「かっこよくないよ。もう、おじさんだよ」
千沙ちゃんがふふ、と笑う。
ううん、そんなことない、と呟く。
「シュっていうやつ、もう出来ない?」
初めて会った時のように、手を右から左へと移動させる。
俺もふふ、と笑って、
「出来ないよ、もう随分とやってないんだ」
「そうなんだ、良かった」
俺は、笑った続きの感じで訊いた。
「良かった?」
うん、良かった、そう言って千沙ちゃんはカフェオレを飲んだ。
その横顔も、可愛くて。
缶を持つ手を見る。
あんなに小さな手だったのに。
もうこんなにも大きく、そして指はすらっと細く、滑らかで綺麗な手だ。
「どうして、こんなにたくさん、買ってきたの?」
俺の隣に並べてある、缶コーヒーを見る。
「寒いって、言ってたから」
俺は俯いた。
自分の靴の先を見て、続ける。
「酔っ払って、ベンチで眠り込んじゃうなんて、ヘマしたなあ。千沙ちゃんには、変な所を見られてばかりだな」
もう、彼氏がいるのかな、いるだろ、普通に。
こんなに美人なんだからな。
こんなに可愛いんだから、男が放っとくはずがねえ。
俺なんかもう、三十二のおっさんだ。
「千沙ちゃん、いくつになったの?」
「高三、十八」
だよなあ、若え。
あれから、九年も経ったんだな。
「今、どう?」
言葉が少な過ぎて、伝わらないかと思ったけれど、千沙ちゃんは意図を察してくれて、話してくれた。
「今の、お父さん代わりの人、良い人だよ」
「お父さん代わり?」
「もうねえ、おじいさんなんだけどね」
俺は驚いて、えっと声を上げてしまった。
「どうして、そんな人が……」
俺は絶句してしまった。
まさか、まさか、変な奴じゃないだろうな‼︎
「トオルくん、大丈夫だよ。良い人なんだ、本当だよ。丸井さんって言って、」
少しだけ、言いにくそうに。
「の、能力者を匿ってくれているんだ」
「能力者?」
「うん、トオルくんみたいな人が一杯いるの。シュって出来る人が」
嘘だろ、おい。
俺みたいなのが、たくさんいるって?
「私も出来るよ、あのね、」
そう言い掛けた時、
「千沙」
低い声がした方へと、顔を向ける。
すると、背の高い男がこちらを見ていた。
目つきは悪いが、イケメンだ。
ポケットに手を突っ込んで、こちらをじっと見ている。
「行くぞ、千沙」
やっぱりな、そりゃそうだろ。
俺は目を逸らした。
現実から、目を。
「待ってて、善ちゃん」
千沙ちゃんが、こちらを向く。
「良いの? 待たせてるんだろ、か、彼氏」
千沙ちゃんは微笑みながら、俯いた。
「彼氏、じゃないから」
けれど、俺はほっとするどころか、胸が痛くて仕方がなかった。
だってそうだろ、じゃあ、他にいるだろってことになる。
そこに立っているイケメンが彼氏じゃねえってことだけで、つまりこの世の男らの中で、彼氏候補が一人減ったってことだけだ。
こんなことを考えて、俺は深く失笑した。
俺は異常だ、こんな風に考えてしまうなんて。
どれだけ。
俺は、千沙ちゃんを好きになってしまっているんだ。
けれど俺なんて、ダメな人間で、ヨレヨレで、ロリコンで、おっさんで。
「トオルくん、家に遊びに行っても良い?」
突然の提案に、 俺は動揺してしまった。
いや、それはまずい。
いろんな意味でまずい。
「え、いや、えっと」
「あ、そうか。も、もしかして……もう、け、結婚……してる?」
俺は慌てて否定した。
「いや、それは無い。そんな訳が無い‼︎」
「そ、そっか、よかった。も、最寄り駅ってどこになるのかな?」
「牧ヶ丘、だけど」
ここで、再度。
千沙、行くぞと声が掛かる。
千沙ちゃんは立ち上がって、俺の前に立ち、俺の首に巻かれていたカーディガンの袖をくるりと結び直すと、
「じゃあ、またね」
そう言って、背の高い男の方へ駆けて行った。
またねって、千沙ちゃん。
「これ、返さないと‼︎」
また会えるのか、いつ会えるんだ、連絡先も聞いてねえ。
俺は立ち上がって声を張り上げた。
千沙ちゃんは振り返ると、大きく手を振って、
「持ってって良いよ、寒いからあ。トオルくん、風邪ひかないようにねえ」
変わってねえ、あの頃の千沙ちゃんと。
優しくて、ああやって前にも、よく手を振ってくれた。
こんな俺にも。
連絡先なんて、俺には聞けねえ。
そんな権利もねえ。
このカーディガンは貰ってしまおう。
もし、もう会えなくても、俺はこれを手に入れた。
宝物だ、俺の一生涯の。
そう考えて、苦しく笑う。
おいおい、まじで病気だな。
俺はポケットに手を突っ込むと、寒みいと呟いて、またベンチに座り空を見上げた。
涙がじわりと、滲んできた。