喪失感
千沙ちゃんが中学に入って直ぐの年、施設から連絡があり、俺は仕事中にもかかわらず、その場で呆然としてしまった。
「まだ信じられないんですけどねえ。浅田さん、千沙ちゃんのこと気にかけてくださってたんで、ご連絡したんですけどね、」
電話をとった瞬間、嫌な予感はしていた。
千沙ちゃんは、中学に入って、地元の学校で勉強を頑張っていると聞いていた。
「こんな歳になってから、一個人宅に引き取られるなんて、あんまり聞かないですからねえ。こっちも驚いちゃって」
「どこへ引き取られたんですかっ」
俺は教えては貰えないだろうことを、分かっていても問わずにはいられなかった。
「それはねえ、お教え出来ないんですよ。すみません、でもそんな遠くではないとだけ、申し上げておきますね」
俺は携帯の切ボタンを押すのも忘れて、しばらく呆然としていた。
お母さんの元ですか、との問いに、違うと答えてくれた、それだけでも神に感謝したい気持ちではあった。
けれど、この喪失感。
心にぽっかりと穴が開いてしまって、虚ろな気持ちになった。
そんな状態で一週間過ごした。
もともと施設にも一年に二度ほどしか行けなかったし、行っても遠くから姿を見るだけだった。
そしてようやく、去年のクリスマスにやっと近くで顔を見ることが出来た。
笑顔を見ることが出来たというのに。
「俺に気づかなかったし……もう俺のこと、忘れてんのかもなあ」
その時は、そう思ったりして落ち込んだりはしたけれど、自分のことをあしながおじさんみたく思ってもいなかったし、千沙ちゃんがいつか自由を手にしてくれればそれで良い、と思っていた。
それまではこの施設で見守れる、そう信じて疑わなかったから、この突然の別れは、俺を本当の意味で奈落の底に突き落とした。
けれど、こんなぽっかりと穴の空いた心にもまだ救いはあった。
今年の春に寄付を手にして施設に行った時、千沙ちゃんが中学生になるね、という話題が出た時。
「あの脱走ばかりしていた千沙ちゃんがねえ、もう中学生とは。感慨深いですよ」
俺も千沙ちゃんが知り合いということは話してあったので、施設長は千沙ちゃんの話を度々してくれるようになっていた。
どこぞの若造が、まるで自分とは無関係の施設に寄付をすると言った時に。
あたりまえだが、この施設長は最初、かなり疑心暗鬼な態度だった。
だから俺は仕方なく、千沙ちゃんが知り合いだということを話してしまっていた。
応援したいけれど、本人の重荷になってはいけないからと、匿名でお願いしますと頼んで、ようやく了承を得たのだ。
そして。
「脱走、って」
「三年か四年の頃ですけどね、手を焼きましたよ。勝手にふらっとどっか行っちゃうんです。母親に連絡しても、知らないし関係ないの一点張りで、そっちの責任でしょって言われちゃうんで。でも、結局は母親が連れ帰っては来るんで、様子は見るようにしていたんですけど、」
「そうなんですか」
その頃だ、俺が千沙ちゃんに会っていたのは。
「そのうちに母親と連絡が取れなくなってねえ。捨てられたんですよ、可哀想に。
暴力を振るう母親とはいえね、親に捨てられるなんて、本当に……」
「そんな辛い目に、」
苦しい気持ちに、押し潰されそうになった。
「そんな辛い目に遭って、それでも笑顔で耐えていたんですね」
俺がそう言うと、施設長が、え、という顔をする。
「千沙ちゃんの笑った顔、見たことあるんですか?」
今度は俺が、え、という顔をする。
「よく笑っていましたよ」
「そうですか、うちでは無表情の子で、笑ったりすること、あまり無かったんで。びっくりしました」
俺は、その話を大切に胸の中に仕舞いこんだ。
俺だけの前で笑っていたんだと思うと、哀しくて哀しくて嬉しくて。
宝物のように想った。
引き取られていって、連絡先は分からない。
終わってしまった、千沙ちゃんと繋がれていた糸。
呆気ないほど簡単に切れてしまった。
そして、その喪失感を抱えながら、けれど千沙ちゃんとの思い出を抱き締めながら、俺はまた生きた。
そうやって、生きるしかなかった。
✳︎✳︎✳︎
千沙ちゃんが引き取られてから、三年が経とうとしていた。
俺はとうとう年貢の納め時かと思い、彼女を作った。
最初は恐る恐るデートした。
何だよそれって、思うだろ。
でもな、こんな歳にもなってまで、俺はそういうの今まですっ飛ばしてきたから、初めてのデートはどうするんだってパニくるのは、しょうがねえだろ。
同期って言っても歳は全然下なんだけど、その同期の滝本ってやつに相談したんだが、腹抱えて笑っちゃって、有効なアドバイスを一つも寄越さねえ。
仕方が無いから本を読んだり、ネットで調べたりしながら、お付き合いってやつを進めていったんだ。
けれど、いつだって俺の心にはぽっかりと穴が空いていたし、満たされてもいなかった。
どうやってその穴を埋めるのかってことは、本やネットには書いてねえんだ。
使えねえだろ、なあ。
あの頃を思い出す。
俺の瞬間移動の能力は、一体どうなってるんだろな。
ここ数年は使っていないから、どうやるのか使い方も忘れてしまって、もう一度やろうと思ってもやる自信もない。
まあ、それで良いんだよ。
もう使う気もさらさらねえんだからな。
彼女がいても気を使うだけで全然心は満たされないし、心から楽しいと思えない。
決定的だったのは、菓子やジュースを買ってきても、全然喜ばないってことだった。
俺はそれっぽっちのことで、もう嫌気が差してしまい、で、別れた。
二人目に付き合った人は、結構良い感じだった。
何かプレゼントすると、素直に喜んでくれるし、嬉しそうな顔をしてくれる。
けれど、千沙ちゃんのように心を震わされるような笑顔には到底遠く、俺はそう考えるだけで、また駄目になってしまった。
「トオルくん、」
そう呼ばれただけで、一気に冷めてしまい、嫌になってしまった子もいる。
勝手に名前を呼ぶなよ、そう思ってだ。
それが今付き合っている、一番新しい彼女。
俺は途中で、何だこれは、と思い始め、千沙ちゃんに恋をしていたのだと気づくまでに、数年の月日を要した。
気づいたら気づいたで、自分のロリコンさに辟易する。
馬鹿かお前、千沙ちゃんは、あの時小学生だったんだぞ。
やっぱりロリコンじゃねえか。
救いようもねえな。
けれど、今はもう高校生のはずだ。
高校生だったらもう、付き合ったり出来る歳だ。
でも、ちょっと待て。
もう彼氏がいるんじゃないか?
そう思い至って、俺はバカみたいに落ち込んだ。
千沙ちゃんにはもう会えないというのに、俺は本当にどうかしてる。
当たり屋をやっていたあの時も、どうしようもねえヤツ、そうは思ってたけれど。
ビールを飲んで、携帯の受話ボタンを押す。
今、付き合っていることになっている彼女が出たら、どう切り出そう。
素直に別れてくれと言うべきか、それとも世間話から入るべきか、俺は迷いながら、またビールの缶をガシャリと開けた。
✳︎✳︎✳︎
ビールをこれだけの量を煽れば、どうなるかは分かっていた。
俺はトイレでグロッキーになってから多少正気になり、そして洗面所に戻って鏡を見る。
口をゆすいだから、ダラダラと口から水やらよだれやらが垂れている。
タオルを取って、顔も洗い、また鏡を見る。
ヨレヨレのTシャツが俺をヨレヨレの人間に見せている。
分かってるよ、事実なんだ、俺がヨレヨレだということは。
ついに俺は思ってしまった。
当たり屋をやっていた頃の自分と、今の自分。
あんま変わらねえ、一緒のようなもんだ。
千沙ちゃんに彼氏がいるかもって思っただけで、この体たらく。
嘘みたいだろ、そうだろ。
今までは、俺の身に奇跡でも起きて、千沙ちゃんにもう一度会えることがあったら、ちゃんとした真っ当な仕事で稼いだ金で、スナック菓子と桃ジュースを買ってあげたい、そう思って頑張ってきた。
あわせる顔がない、使える金がねえ、そんなことの無いようにと。
けれど、もう会うことも無いんだよ、自分に言い聞かせる。
もし万が一、会えたとしても、もう誰かのものになっちまってるよ、自分に言い聞かせる。
くそっ、くそっと髪をガシガシと掻く。
鏡に映った情けない俺。
俺は冷蔵庫からビールを取り出すと、プルタブを開けて、口に流し込んだ。
✳︎✳︎✳︎
「寒いな、」
ビールを何本かカバンに突っ込み、俺はいつの間にか、千沙ちゃんに会っていた公園に来ていた。
こんだけビールを煽っていて、良く無事に電車に乗れたな、そう思うぐらい酔っ払っていた。
初めはベンチに座っていたけれど、そのまま横になって上着の襟元を立てる。
「寒みい、あー、寒みい、」
何度も言う。
このまま眠れば、死ぬかもな。
そんな考えが脳裏をよぎったけれど、構わずそのまま目を閉じる。
目を閉じると、千沙ちゃんのことばかりが思い出されて、涙が出る。
ここで会ったんだ。
あの黒い瞳に。
愛おしい、真ん丸の瞳。
ああ、俺は一体何をしてんだ、ぽっとその考えが浮かんだと思うと、意識を手放した。
死ぬかもな、そう思いながら。