約束
桃ジュースも空になり、食べていいんだよと言った袋入りのお菓子を大事そうに抱えている。
「おうちで食べるね」
「そう、また買ってあげるから、食べちゃって良いよ。俺も食べたい、一緒に食べよう」
そう言うと、うーん、と唸って迷ってから、袋を開ける。
中のスナック菓子を一緒になって、頬張った。
「おいしいね、トオルくん」
「チサちゃんは、他には何が好きなの?」
「……動物ビスケットとか、」
そうなんだ、じゃあ今度はそれ買ってくるねと言うと、
「違う、それは嫌。それじゃ無いのが良い」
そう言って、俯いてしまう。
俺は、頭に手を置くと、
「じゃあ、今度は俺が好きなの買ってくるよ。一緒に食べてくれる?」
「うん」
こんなにも単純な、うん、という返事が心に響く。
俺はこういうこと無しで、今までどうやってこの世界を生きてきたのだろう、こんなにも心が安らぐ瞬間があっただろうか、そんな風に思う。
そう考えながら、チサちゃんの横顔を見ていたら、嬉しそうにほころばせていた表情が。
一瞬でガラリと変わった。
何かに怯えた表情。
泳ぐ視線。
そして、その視線の先には、一人の女性が立っていた。
高くもなく低くもない背は、その赤いハイヒールで作り上げているのだろうか。
スーツのような服に見えるけれど、満員電車で見かけるキャリアウーマンのスーツのそれにしては、くだらない程フリルがついている。
女性はこちらへつかつかと歩いてくると、チサちゃんの腕を捻り上げて引っ張った。
「あんたっ‼︎ また母さんに迷惑掛けるつもりなのっ‼︎ 毎回毎回、施設から電話が掛かってきて、うっとうしいったら……勝手に逃げ出さないでって、いつも言ってるでしょ‼︎ 大人しくしててよ、あんたが出てくと、私が探し回らなきゃいけないのよ。いつもどこほっつき歩いてるの、いい加減にしてっ」
チサちゃんは、小さな声でごめんなさい、ごめんなさいと繰り返している。
「ごめんで済むなら、警察はいらねえんだよ‼︎ こいつ、こいつっ」
連れていこうと腕を引っ張り上げながら、頭を平手でバシンバシンと何度も叩く。
そして、その平手が顔にバチンと当たった。
青あざが出来ている場所に、被せるようにして、わざと。
俺はもうそれで、ぷっつりきてしまって、やめろっと叫んでいた。
瞬間移動で飛んで、母親の腕を掴む。
これが母親と言えるならな。
「何よ、あんたっ‼︎ 何のつもり‼︎」
「叩いたり、暴力はやめろ‼︎ 通報するぞ、警察に‼︎」
チサちゃんは真っ白な顔をして立っていた。
右目の青あざが、際立って目立ち始める。
施設に入っているって?
じゃあ、その施設とやらも、この母親を止められないって訳だ。
「あんた誰、チサの何なの‼︎ 私は母親よ、チサが悪すぎて、手を焼いているんだからっ」
興奮する母親が、語気を荒げる。
「チサちゃんは悪くない、あんたが悪いんだろう‼︎ とにかく暴力は止めろ」
すると、チサちゃんは顔色をもっと白くして言った。
「大丈夫、私帰るから。私、今度は逃げないから。ずっと、あそこにいるから。もう帰ろう、ね、お母さん」
何が、お母さんよ、あんた何様のつもりっと言って、額に青筋を作って再度手を振り上げる。
「止めろっ‼︎」
俺がすごんで見せると、母親は分かったわよと言って、チサちゃんをグイグイと引っ張っていってしまった。
細い腕を引っ張られながら。
あんた自分のこと私って言うのやめなっ、それで大人ぶってるつもりなの、そんであたしを馬鹿にしてんのか、などと罵声を浴びせかけられながら。
チサちゃんは引き摺られていった。
そうか、それで自分をぼくちゃんなどと。
あれから、叩かれたりしていないだろうか、俺のせいで、もっと酷い目にあってはいないだろうか。
そう思うと、電車の中でも構わずに、俺は悔しくて悔しくて、泣いた。
きっともう、あの公園には行くなと、言われているだろう。
けれど、それを分かっていても、俺は公園に毎日通った。
途中から、お金が底をついてきたりして、毎日来られなくなってしまったけど、香山に紹介してもらったバイトをこなしながらも、可能な限り公園に向かった。
チサちゃんは来なくなった。
脅されて、来られなくなったんだろう。
俺は公園以外をうろうろとするようになっていた。
施設と呼ばれるものを片っ端から調べる。
見当をつけた施設の前で、偶然でも出てこないかと、待ってみたりした。
けれど、チサちゃんには会えなかった。
そして、俺は公園へと向かう。
ベンチに座って、ぼんやりとする。
そうだ、俺はぼんやりとして、今何をしているんだろう。
疲れていた。
日々のバイトで体力を消耗し、それに加えてその隙間を縫うようにして毎日のように公園へと通う。
疲れてしまっていた。
疲れ果てて、眠りたいと思う。
そうやって、夕暮れをベンチで過ごして、そのまま横になって眠ってしまった。
✳︎✳︎✳︎
「トオルくん、トオルくん、起きて」
この声はチサちゃん、そう考えが至ると、俺はガバッと身体を起こした。
「チサちゃん‼︎」
チサちゃんの姿がやっと見えるような薄暗がりの中、俺は目を凝らしてじっと見つめた。
「どうして、こんな時間に、」
「抜け出してきたの、昼間は来られないから」
「だからって、こんな夜遅くに。みんなが心配して、大変な騒ぎになっちゃうぞ」
俺は腕時計を見る。
それは暗過ぎて、時計の針さえ判別できなかった。
けれど、きっともう一般には夜中と呼ばれるような時間だ。
「みんな、もう寝てるから大丈夫と思う。トオルくん、ごめんね。私のせいで、おまわりさん呼んだ?」
「いや、呼んでないよ。チサちゃんは? お母さんに、叩かれてない?」
顔をじっと見ても、顔色は分からない。
あざを作っていないだろうか、傷を作っていないだろうか。
「お、お母さんはもう来ないから大丈夫だよ、おまわりさん呼ばなくて良いからね、大丈夫だからね」
俺はその時、はっと気がついた。
もしかして、俺のために言っているのか?
俺が、この手を犯罪に染めてしまっていて、真っ当な道を歩いていないことを知っていて、そんな風に言っているのか?
そうだ、見ていたはずだから。
俺の仕事を一通り。
悪い事だと分かっているかもしれない。
俺がオヤジに金を貰ったのを見ていた。
俺が警察に捕まらないように?
どう思っただろう、そうだよ、俺は悪いことをしているんだ。
そんな金で、チサちゃんに桃ジュースを買ったんだ。
こんな馬鹿な俺を、どう思っている?
悪い人間の俺を、どう思っている?
「トオルくん、もう会えないね」
チサちゃんの言っている言葉が、頭の中にするりと入ってきた。
哀しみと一緒に、するりと。
それなのに、俺は何で? と訊いてしまったんだ。
「私といると、トオルくん、おまわりさんに捕まっちゃうから」
そうか、やっぱりそうなんだ、俺の為に。
こんな俺の為に。
じわりと涙が滲んでくる。
「……そうだね、分かったよ。でも、またいつか会える?」
チサちゃんは、手をそっと握ってきた。
何て、小さな手なんだ。
こんな小さな手をぐっと握りしめて、母親の暴力に独り耐えてきた。
そう思うだけで、胸が苦しく締めつけられて、涙が溢れる。
「うん、会えるよ。この公園で待っていて。私がもっと大きくなって、自由になったら、トオルくんに会いに行くから」
俺は流れ落ちる涙をそのままにし、小さな手を両手でぎゅっと握った。
自由って何だ。
こんな小さい手の中に、その自由の一欠片さえも、握られてはいないと言うのか。
「チサちゃん、俺はシュンっていう力を、これからは使わないようにしようと思うんだ」
黒い瞳で俺をじっと見る。
こんな薄暗がりの中でも、俺は君の瞳がどんなだか分かるんだよ。
「どうして?」
「この力はねえ、神様に貰ったんだ。でももう使いたくないから、神様に返そうと思う」
俺は今、どんな顔をしている?
悲愴か、哀愁か、苦悩か、悔恨か、どれが当てはまる?
「だから、今度チサちゃんに会う時には、もう僕はかっこいいトオルくんじゃないけど、それでも会ってくれるかな?」
チサちゃんは、少し沈黙していた。
考えているのか、やっぱりかっこいいおにいちゃんの方が良いのだろうか。
けれど、次には笑って言った。
暗闇にぼんやりと浮かんでいたその輪郭が動く。
「うん、トオルくん、大好き」




