ベンチ
初めてだった。
瞬間移動を見破られるなんて。
これはもう、この職業を辞めるべき時が来たのだろうか。
俺は俺の隣で、ゴキュゴキュと桃ジュースを飲んでいる女の子、名前はチサちゃん、年齢は推定九歳に、翻弄されまくっていた。
と言うのも、俺の中では、という意味だが。
「見てた?」
「うん、見てた。すごいね、かっこいいね」
そうですか、そうなるともう、足を洗うしかねえか。
「内緒ってことでも良い?」
「うん、良いよ。ぼくちゃん、誰にも言わないから」
あ、じゃあこのまま続けられるってことか。
と、それより気になることがある。
「ねえ、なんで自分のことぼくちゃんって言うの?」
「え、お、おかしい?」
「女の子だし、チサちゃんは可愛いから、私って言った方が良いと思うよ」
チサちゃんは桃ジュースをぎゅっと握り締めた。
多分だが、俺にはそう見えた。
「じゃあ、ぼくちゃん、これからわたしって言う。トオルくんがそれが良いなら、そうする」
桃ジュースを見つめている。
変わった子だなあと再度、思う。
「これ、すごくおいしい」
ニコッと笑った顔にやられる。
黒目の部分が少し大きめの、真ん丸な瞳が東南アジアの子どもを連想させる。
もしかしたら、そっち系のハーフかもしれない。
こんな子に、ジュースとか買っちゃってる俺、危ねえよな。
危機感を感じて、キョロキョロと周りを見回す。
職質とか、勘弁してくれよ。
そんな気持ちを言葉にしてみる。
「こんな所でっつってもまあ、公園だけどよ。一人でうろうろしてたら危ねえぞ。もう家に帰んな」
すると、チサちゃんは素直に、うん、と言って帰って行った。
俺の隣に、空になった桃ジュースの缶を置いて。
「うまそうに飲んでやがったなあ」
俺が飲んでいたコーヒー缶を横に並べる。
そして、改めて思うんだ。
その両方とも、俺は犯罪で手に入れた金で買った、とな。
よく、汚い金って言うじゃない。
俺はその汚い金で、チサちゃんにジュースを買い与えたんだ。
それをそんな金だとは知らずに、美味しそうに飲んでいた。
心から、美味しそうに。
俺はそのまま、そのベンチでぼんやりと時を過ごした。
夕暮れになって、腹が減って、ようやく立ち上がって、満員電車に揺られて、普通に家に帰る。
帰って、テレビをつけたところで、俺はベンチに空き缶を置き忘れたことに気がついた。
✳︎✳︎✳︎
「ゴミはゴミ箱に捨てなきゃだめだよ」
「ごめん、忘れてそのまま帰っちゃったんだ」
怒ってるフリをしているけれど、チサちゃんは嬉しそうにそわそわしながら言った。
初めてチサちゃんにあの小さな公園で出会ってから数日が過ぎた頃、俺は何の気なしにいつもの日常をこなしていたのだが、ついにその捨て忘れた空き缶のことが気になって仕方が無くなり、公園へと足を運んでいた。
そうだ、俺は空き缶が気になっただけで、チサちゃんが気になったわけではない。
あの空き缶が風にでも飛ばされて転がっていき、誰かがその空き缶でひっくり返ったりしていないかとか、その転がった空き缶で子供たちが缶蹴りでも始めやがって、蹴り飛ばしてガラス窓を割ったりしていないかとか、諸々な。
ここへ来る道すがら、俺はこの前こなした、ここでの仕事を思い返していた。
車にぶつかった振りをして、三万円貰った。
その金で飯を食い、滞納気味になっていた家賃の一部を払い、そしてこのベンチでチサちゃんにジュースを奢った。
その金で。
あーあ、またこの間と同じような事を考え始めちまったと、小さく舌打ちをする。ベンチの角を、自分の踵で蹴る。
「うっ、痛って」
ガツッと音がして、そりゃ痛いだろう、当たり前だと思う。
空き缶は、もうそこには無かった。
するとしばらくして、ひょっこりとチサちゃんは現れた。
「トオルくんっ」
俺を見つけて手を振りながら嬉しそうに走ってくる姿は、仔犬のようだ。
耳や尻尾が見えるよう。
俺まで何だか嬉しくなって、手を振ってしまった。
馬鹿みたいだけれど。
俺の隣に陣取ったチサちゃんは、足をぶらぶらさせながら言う。
「またジュース飲みたい」
そして、チサちゃんがそう言い出した。
俺はどきりとした。
あの金しかない、あの汚い金しか、ない。
「ごめん、今日はお金を持ってきてねえんだ」
「そっか、じゃあ良い。ガマンできる」
チサちゃんは俯いて言った。
「私、ガマンできるよ」
言い聞かせるようにして、ニコッと笑う。
俺はポケットに入っている財布の在り処を、頭の中で無意識に探っていた。
これはチサちゃんには使えないお金だから、ごめん。
「ごめんね、今度は持ってくる」
「今度? また会えるの? いつ、今度っていつ?」
その強く問い正すような言葉に、少しだけ日和る。
「いつでも良いよ、いつが良い?」
チサちゃんは嬉しそうに笑って、待ちきれないというようにして、
「じゃあ明日っ‼︎」
と言った。
何だか俺も嬉しくなって、じゃあ明日、と言いかけてから言葉を呑み込むと、ごめんと謝った。
「明日は用事があって、来られないんだ。いつでも良いよって言っちゃったけど、ごめんね」
「そっかあ。じゃあさ、トオルくんはいつが良い?」
俺は少し考えて、一週間後でも良い? と聞いた。
「……ずっと先だね、でも分かった。今日は火曜日だから、次の火曜日だね。私、待ってるね」
そして、じゃあね、と手を振って帰っていった。
俺はその後ろ姿を見送ると、ポケットから壊れていない方のスマホを取り出し、唯一俺の中では友達と呼べる、香山に電話を掛けた。
呼び出し音が鳴る。
その音を遠くで聞きながら、俺はチサちゃんが帰っていった道の先をずっと見つめていた。
「自分のこと、わたしって言ってたなあ」
呟いたところで、電話は繋がった。
✳︎✳︎✳︎
一週間後、香山に紹介してもらった日雇いのバイトをこなし、その給料を握りしめて、俺は公園へと急いだ。
工事現場での交通整理の仕事。
一日中立ちっぱなしで、八千円だ。
五日働いて、四万円を手にしていた。
比べることもなく、当たり屋の方が楽で、稼ぎは良かった。
けれど、その金ではチサちゃんには何も買ってあげられない。
ここでふと思う。
汚い金を使いたくない、どうしてそんな風に思うのだろう。
自分でも不思議に思い、何度も自問自答した。
ぼんやりしながらも、考えたんだ。
けれど、あのくりっとした真ん丸な瞳が原因だ、そう思うとそれが正解のような気がしてならなかった。
途中コンビニに入り、四万円のうちの一万円で、スナック菓子を買う。
喜ぶだろうか、笑うだろうか、トオルくんありがとうと言ってくれるだろうか。
嬉しそうに、美味しそうに、桃ジュースを飲むだろうか。
公園に着くと、チサちゃんはベンチに座っていた。
「トオルくんっ‼︎」
手を上げて、ブンブンと手を大きく振っている。
俺はチサちゃんを認めると、小走りで手を上げて応えようとした。
そして。
言葉を失った。
チサちゃんは嬉しそうに立ったり、座ったりしている。
俺は近づいていって、隣に座った。
「約束、守ってくれたんだね。良かった、嬉しいっ」
どうしたの、そう訊くのが妥当だと思う。
何があったんだ、と。
けれど、返事が怖くて訊けなかった。
衝撃が全身を走って、どう問うて良いのか分からなかった。
カバンから、チサちゃんは何が好きだろうと散々迷った挙句決めた、袋入りのお菓子を出して差し出す。
するとチサちゃんは、わあっと言って大袈裟なんじゃないかというくらい、身体中で喜んでくれた。
「これ、好きなやつだあ、私に? 私にくれるの?」
小さな袋を抱きかかえて、足をバタつかせる。
「トオルくん、すごいね。私が好きなやつ、どうして分かったの? あの、しゅんって飛ぶやつもすごいけど、私のことも分かるなんてすごいっ」
俺は泣きそうになった。
涙が溢れそうになった。
けれど、言葉も涙も全部呑み込んだ。
ぐっと呑み込んだんだ。
「良かった、好きなやつだったんだね。ほら、桃ジュースも買いに行こう」
「うん、トオルくん、早く行こうっ」
チサちゃんは大きく頭を縦に振ると、ニコッと笑った。
右目を中心に出来た、大きな青あざを隠そうともせず、そんなことは平気というような笑顔で、俺の腕を引っ張ったんだ。