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何度もさようならと言った

作者: 矢野 明里

 坂を下りながら、眼下に広がる港の明かりを見ていた。夜に滲むように瞬く光を見て、この街に十一月が来たことを知る。

 肩にかけたギターケースが揺れるたびに背中に針を刺されたような痛みを覚える。少しずつ慣れてきたとはいえ、体力が少しずつ消えていくのを知る。

 聴こえてくる。

 歌だ。女の声。凛とした、でもほんの少しだけ臆病な声。

 足を止めて振り返る。

 女はギターを抱えて石段の上に座り込んでいた。そこはたったいま通り抜けてきた場所だ。僕が覚えた違和感をまるで打ち消すかのように、彼女はギターを弾いて歌っている。 

立ち去ることはできるのに、足を止めそのまま黙って彼女の歌を聴く。

「次はザ・フーのネイキッド・アイズ」

ライブのつもりか。誰もいないのに。僕がたまたま通りかかったからよいけれど。

この十一月の冬空の下、彼女はTシャツ姿で歌っている。ギターをかき鳴らすのはそれほどに身体が熱くなることなのだろうか。それにしても、と僕は一瞬彼女を小ばかにした。しかし次の瞬間、本当に身体が熱くなるような感じがした。

ギターを弾いているのは僕からほんの少し離れた彼女だ。

しかし彼女の歌は、たぶんきっと僕自身から聴こえてきている。これは思い込みの話ではなく、感覚としての本当の話だ。その証拠に激しいカッティングに合わせて、背中にじんじんとした痛みが生み出された。

「ちょっと」

 背中が痛い。

「ちょっと、やめてくれ!」

その瞬間、音が止んだ。背中の痛みは消えない。耐えかねて僕はうずくまる。

「大丈夫?」

 顔を上げるとブルーのTシャツが見える。

「大声をあげるくらい痛いの?」

「身体が裂けるかと……。まだぼんやりと痛い」

「大げさな男だね……。じゃあ、仕方ない。これからは優しい歌を歌うわ」

 いや、もうたくさんだよ。その言葉を僕は寸でのところで飲み込んだ。



「あなたいくつ?」

 唐突な質問に唖然とした。まだ背中が痛む。失礼な奴だ。そいつは石段に腰かけたまま僕を見ている。

「まるで子供に聞くような言い方だね……まあ、いいや。それより次の曲を弾いてもいいよ。邪魔したとか思われるのは嫌だし」

「背中が痛むって言ってるくせに。まあ、いいやとかちょっと気に入らないし。とにかくわたしの質問に答えなさいよ」

 彼女の上から目線に抵抗を覚えたのは一瞬で、僕はコートの胸ポケットのあたりを慌てて押さえた。指先に感触があり、僕は安堵の溜息をついた。

 手帳だ。手帳にすべて記してある。それは思い出せた。いろんなことが書いてある。暮らしていくのに必要な事柄や、取り立てて必要がないこともそこに書いてある。

こういう機会の時に自分の歳をあらためて認識しておかないと、咄嗟の時にスムーズに言えなくなる。僕は手帳の最初のページを読む。

「誕生日。十一月六日。だから、二日前に四十歳になったことになる」

「ねえ、自分の年齢のことだよ」

 女は呆れたような表情を隠さなかった。

「そうだ。僕は四十歳なんだ。そういうことがここに書いてある」

「自分でわからないの?」

「わからないわけじゃない。理解はできる」

「……なんか事情がありそうね」

「きみも事情がありそうだね」

「わたしはここでギターを弾いていただけよ」

「こんなところでギターを弾いてるなんてさ。しかも十一月にTシャツ」

「いいじゃん。服装なんて自由でしょ」

 彼女は明らかに動揺した声で言い張った。目が泳いでいた。僕の視線に気が付いたのか無理に笑顔をつくっていた。

「年齢はわかったわ。もう少し若い方がよかったわね。えーとね。とりあえずギター見せてくれる?」

「とりあえずの意味がわからないよ。それと年齢を僕に聞いた意味も」

「いいから。いいから」

 やはり笑顔なので、僕は従った。

 ギターをケースごと手渡そうとしたが、しかし彼女は手を差し出そうとはしない。

「ケースから出して」

 僕は従う。

「弾いてみて」

 ただ一番太い弦を弾いてみた。

 彼女は首を傾げた。今度は一番細い弦を弾いてみた。

「もしかしてレギュラーチューニングじゃないの?」

 彼女は興味ありげな表情をした。

「何の話?」

「ギターの話だけど」

「これは今から一時間ほど前に古物商に売りつけられたものなんだ。ちなみに僕はギターなんて弾いたことがない」

「そうなの」

 彼女は再び呆れたような顔をした。僕はそういうのには慣れていた。人とかみ合わないのはいつものことだ。自分のことを聞かれ、メモを見てそして他人の表情を伺いながら、気が付いた時には相手は困惑の表情を常に浮かべていた。

「趣味を持った方がいいとかいろいろ言われて、よくわからないうちに五千円で売りつけられた」

「余計なことかもしれないけど、そういうのやめた方がいいんじゃない? 自分の意思とかあるでしょう」

「説教したね」

「説教じゃないわよ」

 僕はギターを再び差し出した。しかし彼女は受け取らない。

 しかし顔を突き出してギターをじろじろと見た。

「あ。これ、五千円じゃ買えないよ」

「えっ」

「ギルドってメーカーの結構古いモデルよ」

「古いってくらい僕にもわかる」

「ヴィンテージって奴よ」

「なんかすごそうだね」

「もったいないね。あんたには」

「そこまで言うなら、きみが弾きなよ。譲るよ。五千円」

 彼女は首を強く横に振った。

「じゃあ、四千五百円」

「そういうことじゃないの。わたしさわれないから」

「さわれない?」

「わたし自身が実体のないものだからね。無理なの」

 彼女は平然と言った。

 僕は少しだけ考えた。

 答えは簡単に出た。この街に住む者として、これで驚いてはいけない。

「きみはもしかしたら、あちら側の人?」

 彼女は戸惑いも見せず、うなずいた。

「だからTシャツでも平気なんだ」

「そんなこと、この格好を見たら早めに気が付いてよ」

「いや、初めてだから。きみのような人と出会うのは。噂では聞いていたんだけど」

「噂というほどのことじゃないでしょう。この街じゃあ、まあまあ普通のことだよ」

 彼女はなぜか少し誇らしげな表情をした。


 

 死人と死にそうな人の住む街。

 僕はある曲の一節をメモに書いていた。この街はそんな佇まいだ。死にそうな人は自分。というより死にぞこないだ。

そして目の前では今、死人が目の前にいてギターを抱えて座っている。

 死人はふらりと関わりを求めて現れる。それはこの街だけに許されたものだ。

古くから異国のものを簡単に受け入れ、それを何事もなかったようにいとも簡単に潰し、その結果、境界線が歪み時間軸が歪み……。

「やめなよ。そういう発想。わたしには訳わかんない。格好悪いよ」

 僕のつぶやきを彼女は聞き逃さなかった。

「訳のわからない存在に言われたくない」

「あんたはね、これからしばらくはこの訳のわからないわたしと付き合うことになるのよ」

「ついに、僕の番になっちゃったんだな」

「そんな嫌なことのように言わないでよ」

「憑りつかれるんだね」

「嫌な言い方ね。そんなことで来たんじゃないわ」

「じゃあ、なんのために」

「知らないわよ。気がついたらあんたを待っていたんだから」

「こういうのは決まりとか法則性とかがないものなんだろうか。たとえば数日後に死にそうな人間を迎えにくるとか」

「ないない。人を死神のように言わないで」

 彼女は手を顔の前で振り呆れたように言った。

「まずはわたしの名前を決めて」

 気が付けば彼女は立ち上がって、僕の目の前に立っていた。

 背は僕よりずいぶん小さい。髪は長めでふんわりとしていた。さわれないので確かめようもないが。

「どういうこと?」

「わたしの名前を決めてって言ってるの」

「……そんなことするんだ」

「そうよ」

「そうよって。僕はどうしたらいいんだ」

「どうもこうもないわ。でもこんな屈辱的なこと早めに終わらせてほしい。わたしが生きていた時はちゃんとした名前があったはずなのに。それがどうよ、こんな存在になったら、まるで今から飼われる動物のように、ご主人様の気に入った名前を付けられなきゃいけないのよ。屈辱を感じるわ」

「……そこまで言われたら名前なんてつけられないよ」

「いいからつけなさいよ。ご主人様お気に入りの名前を」

 ふてくされた表情で言った。死人ならもう少し穏やかな性格でいられないものだろうか。

僕は彼女のTシャツの胸元を見た。

「あんたどこ見てるの。セクハラで訴えるよ」

 どこに訴えるのか、逆に聞いてみたいものだ。

「そのTシャツ。さっきから気になっていたんだけど」

 Tシャツは彼女にぴったりでとても似あっていた。胸ポケットがかわいい。しかしそこに小さく書かれている文字が問題だった。

「牧之原台地……」

 僕は彼女の顔色を伺った。彼女は手を顔の前で振りながら

「こ、これはわたしの趣味じゃないから。そこ誤解しないで」

「じゃあ、どうして」

「知らないわ。わたしはただただ恥ずかしいわ」

 名前なんてつけられない。僕はこの人のことを何もわかっていない。なのに。

「マキちゃん」

 僕はそうつぶやいた。

「……」

 彼女は自分の胸元に視線を落とした。

「マキノハラだからよね……」

「そうだね。名づけのヒントはたぶんそれしかない」

「嫌だ! 絶対嫌だ」

 彼女は泣きそうな顔をした。

「だって、他には浮かばないんだ」

「あんたセンス悪すぎ。三十二歳にもなってこんな屈辱を受けるなんて」

「三十二歳なんだね」

「そうよ。悪い?」

「いや、悪くない」

「じゃあ、ちゃんとした名前を考えて」

 実はふざけて言ったのではなかった。僕は心の中で彼女のことをマキと呼んだ。何の根拠もないどこからやってきたのかわからないその名前が、彼女には合っていると思えたのだ。

「じゃあ、マキ」

 彼女は不満そうな表情のまま、少し考えているようだ。

「……それならいいけど。仕方がないけど。あんたが偉そうで少しむかつくけど」

 それでいいのかよ。牧之原に文句があったんじゃないのかい。

「じゃあ、これからあんたの部屋に行こう。ふたりで住むんだよ」

「話が急すぎるよ。心の準備ができてない。部屋も片付いてない」

「だめよ。名前付けが終わったらちゃんとその人と暮らすの。これは決まり事よ」

「じゃあ、明日の正午まで猶予をくれ」

「なんかわたしが図々しく押しかけていく迷惑千万な女のようになってない?」

「それはほとんど合ってる」

「違うよ。わたしだって嫌なのよ。若いのがいい」

「じゃあ、来るな」

「行きますとも。決まりだもの」

 そこでキレられても。

「きみは何のために、僕のところに来るんだ?」

「マキと呼びなさい」

「はい。すみません」

「たぶんあんたがギターを買わされたというところから、この関わりは始まっていると思うわ。ギターを教えてあげるのがきっとわたしの役目ね」

「そんなことに意味があるのかな」

「この世には意味があることこそ少ないわよ。こうなっちゃったんだから従いなさい」

 マキはそこで自分自身のギターに触れた。

 ギターは街灯に照らされて鈍く光を反射していた。

 今度は指で一弦一弦を爪弾いていく。音が鳴った瞬間のことを僕は忘れない。

 自分の胸の中から聴こえた音が、まるで自分の髪を撫でていくように思えたのだ。

 不思議なその感覚に僕は戸惑った。そんな僕に気が付いたのか、マキは小さく微笑んだ。


  

        ◇



正午と言ったのに、十時にマキはやってきた。

僕の住む部屋はある人の好意で安く借り受けているものだ。昭和初期に建てられた銀行跡にカフェができ、そこがなくなってから住む人がいなくなった。建物が傷まないように置かれている防腐剤のような存在だと僕は日々思っている。

「古いね、この部屋」

「何か見えてはいけないものを見てしまいそうな部屋だとでも」

「自分の歳も咄嗟に言えないのに、人を茶化すようなことは言えるのね」

 マキは乾いた言い方をし、壁の向こう側にすっと消えていった。

 そんな言い方をしないと、次々と襲ってくる恐怖に負けそうになる。壁に消える瞬間など誰も見たくはない。足元のコンクリート床の染みが、少しずつ広がっていくような不気味な感覚だ。

「どうしたの?」

 驚いて顔を上げる。

 思わず見つめてしまう。

「なに考えてるの」

「正直不気味だ」

「すぐに慣れるわよ」

「慣れたくない」

 マキの表情が一瞬こわばった。何かを言おうとしていたが何も言わない。

「ごめん」

 返事がない。

僕は後悔し、もうそんな言い方はやめようと思った。

「そうだ。相談所に行かなきゃ」

少しの沈黙のあと、マキはハッとした表情で言った。

「相談所?」

「相談所に杉山さんって怖いおばさんがいて、挨拶しなきゃいけないんだって」

「そうなんだ。じゃあ、行ってきなよ」

「あんたも一緒なのよ」

「面倒だな」

「だめよ。決まりだからね」

一時間後、僕たちは港の近くのビルの中にある相談所にいた。

「いま気が付いたけど、マキは日中でも大丈夫なんだね。夜専門かと思ってた」

「殴るよ、あんた」

マキは殴る真似をしたが、そのまま前を向いたまま固まった。視線を向けると、鋭い視線が向けられた。

「もうお昼になっちゃうじゃない。こういうのは出会った翌日の朝早い時間に来るものよ」

 僕より少し年上だろうか。眼鏡を掛けているので表情がよくわからない。しかし印象は融通の利かない教師のような佇まいだ。

「すみません」

と、言ったのはマキだ。

「説明するわね。まずこんな状況になった時みんな心配するのよ。自分はどうなるんだって。わたしは何度も何度も言ってきているからいい加減飽きてきたんだけど。とにかくあなたに影響はないわ。安心して」

 視線が僕に向けられている。

「影響が出てきてると思うんですが」

「どんな影響?」

「なんか面倒というか……」

「確かに面倒かもしれないわね。この子のような場合は」

 マキの横顔を見る。不満な表情を隠そうともしない。

「わたしはこのおじさんにギターを教えてあげようとしてるんですよ。面倒なのはこっちの方です。名前つけられたり一緒に住んだりギター教えたり、本当に面倒なんだから」

「誰も頼んでない」

「あんたは何も言わなくていい」

 マキは口を尖らせたまま僕を睨んだ。

「あのね。あなたたち」

 強い口調だ。

「この子があなたの前に現れたのには意味があるの。ギターを教えるとか訳のわからないことを言ってるけど、それはまったく違うわ。この子の最期の場所を、あなたたち二人で探すためなのよ」

 言葉が出なかった。

「この子の最期の場所を探しあてて、そうしたらこの子は消えることができる。このつながりはそういうことなの。あなたは手助けをしてあげるのよ。それがこの子があなたの前に現れた理由」

 僕が言葉を発する前に、マキが叫んでいた。

「なによそれ! わたしはこの人にギターを教えるために来たのよ。消えるためなんて信じられない。絶対嫌だ」

「こんな状態でいつまでもいられるわけないでしょう! 人間が必ず死んでしまうように、あなたも必ず消えるの。わかった?」 

杉山さんは眼鏡を外し、そう言った。

鋭い眼光に僕たちは何も言えなくなった。



外へ出ると暖かい日ざしが降り注いでいた。

「泣いたってどうしようもないよ」

「わかってるわよ。わかってるけど」

「ギターも教えてくれていいよ」

「嫌ならいいよ」

「嫌じゃないけど」

「ふん。どうしてわたしだけ二度も死ななきゃいけないのよ」

 僕は答えずに立ち止まる。僕は一度死にかけたんだ。二度目はいつだろう。

 僕はどこで死にかけたのだろう。誰も僕には教えてくれない。僕が聞かないからなんだろう。マキの最期の場所を探すことより、僕は僕自身が消えそうになった場所を探すべきなんだろうか。しかしそれに意味があるとは思えないが。

「自分でわかるなんて本当かしら」

「杉山さん、そう言ってたね」

「最後の場所を探しあてたらちゃんとわたし自身が、この場所ですって確信できるなんて。しかも私たちが出会った場所からそれほどは離れていない場所なんだって。なんか嘘みたいだ。なんかがっくりだ」

マキの嘆きを聴きながらしばらく歩いた。僕は歩くのが遅い。マキは僕のペースに合わせてくれた。気が付けば公園まで来ていた。何も言わず敷地の中に入る。やけに小ぶりな観覧車がゆっくりと動いていた。

「乗ろう」

 マキの言葉は違和感があった。楽しみにしているような感じではない。ひとり分の料金を払い、観覧車に乗ったのは僕たちだけだった。狭い椅子に並んで乗る。観覧車と言っても椅子はむき出しで、恐怖心を感じないわけではない。

「観覧車から落ちて死んだって思ったけど、ここではないわ」

 マキは安堵のような溜息をついた。

「それはレアなケースすぎるね」

 マキはやはり動揺しているのだ。僕はそう思った。

「ちょっと乗ってみたかったからよかった」

「嘘よ」

「ほら」

 僕は所在無げに佇んでいる係員を指さして言った。

「彼から見たら、僕たちはどう見えるんだろう」

 マキは答えずに、まっすぐに前を見ていた。風もないのに髪が揺れていた。

 それから、図書館跡に来た。

 マキひとりだけが入っていく。

 すぐに戻ってくると言ったのに、マキは戻って来なかった。日ざしは急に衰えてきて、寒さがはっきりと感じられるようになった。寒くて仕方がなかった。しかし不思議と腹は立たなかった。以前誰かにそんなことをされた気がしたからだった。僕の中の記憶はここ半年程度のものしか残っていないので、気がしたというのは僕の作り話に過ぎないということになるのだが。

「倉庫になってた」

 マキがいた。

「わたしがさわれる本もたくさんあったから、ちょっと読んできた」

「何かあったか」

「何?」

「いや、なんでもない」

「……うん。ここでもなかったみたい」

 背中の痛みをごまかしながら、なんとか部屋に戻った頃には、日は少し傾きかけていた。

 ベッドに倒れこむしかなかった。体力はすぐになくなる。マキが何かを問いかけていたのはわかったが、僕はそのまま眠ってしまったらしい。起きると部屋は真っ暗だった。

 明かりをつけてみると、マキがギターを抱えて椅子に座っていた。

「ごめん。ずっと待ってた?」

「一時間くらいね。これからご飯?」

「今日は食べたくないよ」

「ね、ギター」

「弾いてもいいよ」

「そうじゃなくて、ギター教えてあげていいよね」

「どうなんだろうね」

「わたしがいる意味はあなたにギターを教えることではなかったけど、それでもそうしたいと思って。寂しいのは少し嫌だから」

「わかったよ。弾かないと、買ったギターがもったいないし」

「買わされたんでしょう」

「そうとも言う」

 マキは僕にギターを抱えるように促した。そして机の上のCDを指さした。

「ニック・ドレイクなんて聴くのね」

「ああ、それ。僕が昔聴いていたようなんだけど」

「そういう言い方、なんか拍子抜けするのよね」

「仕方がないよ。そのCDを聴いても、記憶は蘇らないんだ。もう僕の記憶を復活させる鍵なんてないんだよ」

 マキはチューニングに一生懸命だ。人の話聞いてないし。

「じゃあ、わたしのギターに音を合わせて。6弦からC・G・C・F・G・Eよ」

「英語は苦手で」

「いいから真似してみて。このアルバムの二曲目をやろうよ」

「難しいのは絶対できないよ」

「とにかくやってみようよ。弦を切らないようにね」

 僕はギターのペグというものを締めたり緩めたりして、マキのギターと同じチューニングにしようとした。音感もない僕にはかなり難しいことだった。弦を切らないようにと思うと心臓がドキドキして身体に悪い。背中も痛くなってくる。

やっと音が合った時には、僕はまたベッドに倒れこんでいた。

「疲れてるんだね」

 マキの言葉に僕は軽くうなずく。

「聞いてよいことかどうかわからないけど」

 そう言いながら、マキはベッドのふちに腰かけた。ベッドはほんの少しも沈まなかった。僕の方を振り向いて少しだけ曇った表情をした。

「あんたに何があったのか教えてほしいわ」

 僕は何も言わず、黙ってマキを見つめた。

「あっ……でも、言いたくなければいいのよ。人には言えないことがあるものだし。それはどちらかと言えば普通のことだし。いくら親しくなっても言えないことはあるものね。わたしたち親しいけど、やっぱり言えないことあるものね」

 マキはなぜか動揺していた。

 僕は返事をしなかった。

「ごめんね。言いたくないようだから……。気を悪くしたのならごめんなさい」

 マキは僕に背を向けた。

「今のマキは昨日と違うね」

 寝ころんだまま僕が言うと、マキは再び僕の方を向いた。

「しつこく聞いて、嫌われたくないって思ったから」

「昨日のようにずかずか来ればいいじゃない」

「あれはわたしのキャラじゃない」

 そういう奴に限って。と思ったが言わないことにした。

「僕は……これは人から聞いたことだけど、交通事故に遭ったらしい」

「交通事故?」

「そう」

「そうって」

「そうって言うよ。事実らしいから」

「それも記憶がないの?」

「うん。事故にあったことも母親から聞かされた。気が付いたら明日退院と言われたんだ」

「軽傷だったのね」

「いや、三か月くらい入院していたらしいんだけど、記憶が残っているのがその退院の前日からなんだ」

「それって、あんたのキャラ? ボケてる的な」

「そんなわけないよ」

「だってなんか生まれてからずっとぼんやりしてましたって感じだから、記憶をなくするのが得意とか、そんな感じに思えるわ」

「三か月も入院していたらしいんだよ。大けがだったんだよ。きっと」

「きっととか言われると、なんか信憑性に欠けるわね。他人ごとにしか聞こえない」

「記憶がないんだから、僕の中でも他人事だよ」

 僕はそこで思い出した。マキは人間の女の子じゃないのだから、平然としてくれるだろう。僕は起き上がった。

「な、なんで、服を脱ぎ始めるの?」

 マキは慌ててベッドから離れた。

「ちょっと見せたいものがあるんだ」

「見せたいって。女の子の前で何の前触れもなく裸になるなんて。あんた変態?」

「マキは女の子じゃないだろ」

「死んでるけど、女の子よ。年齢的にもあと数年は女の子でいけると思ってるわ」

「それはマキの持論だね」

「持論とかじゃなくて……やだ、もうほとんど脱いでるじゃない。変態やだ」

 僕は壁の方を向き

「背中を見てよ」

 そう言った。

 背後で小さな悲鳴が聞こえた。しかしマキは何も言わない。

「僕は自分の背中が見られないんだ。でも退院の日、正直な看護師さんが僕の背中の惨状を語ってくれたよ。生きているのが奇跡だとか、人がよく言うようなことを言ってくれた。僕を生かしてくれた奇跡に感謝してこれから生きるようにと教えてくれたんだろうけど、僕には記憶がないんだからね。やはり他人事だった」

「……痛かった?」

 絞り出すような声だった。

「マキは人の話を聞いてないんだなあ。記憶がないってさっきから言ってるよ」

「本当に憶えてないの? 記憶のほんの小さな断片もないものなの?」

「憶えてない。それが悪いか」

 僕は少し気分が悪かった。記憶がないことを咎められている気がしたからだ。僕は何も悪くない。それはたぶん。原因など何もわからない。

「マキだって忘れてしまったから僕のところに来たんじゃないか。どこでどのような状況で死んだのか。その時の感覚はどうだったんだ。痛かったのか。そんな感覚もなかったのか。本当はわかっているんじゃないのか」

 僕はそう言った。脱いだ服を無造作に集めた。

「ひどいこと言うね」

 穏やかな声ではあった。僕はゆっくりと振り返った。

 マキがいた。ただそれは裸のマキだった。白く透き通るような肌だった。美しさとほんの少しの悲しみをたたえていた。

「お互いにさわれないけどね。でも一緒に寝ていい?」

 マキは僕のすぐそばに来た。そしてベッドに身体を横たえた。僕はマキの手に触れた。しかし何の感触もなかった。

「横になって話をしましょう」

 その声に促されて僕は横になる。美しいマキの表情が目の前にあった。少しだけ手を伸ばせば触れることのできる距離が、とてつもなく遠い距離であることを僕は思った。

「あれだけあんたのことを聞いておいて、こんなこと言うのはおかしいんだけど本当に憶えてないの、わたしも」

 マキは小さく笑った。

「お互いダメダメだね」

 僕も軽く笑った。それ以上、マキには話させるわけにはいかないと、そんなことを漠然と思ったからだった。笑ってそれで終わりたいと。

「あのね」

 そう言ってからマキは身体の向きを変え天井を見つめた。

 そして僕の気持ちに気づいているのかいないのかわからなかったが話しを続けた。

「死ぬ瞬間のことを、いつまでも憶えていたいとあなたは思うの?」

 明かりを消し、高い天井の向こう側の暗がりを見つめた。何も見えなかった。見えるはずもなかった。

「仕事が午前中で終わる明後日に、また探しにいこう」

 マキは、うん、と小さく返事をしただけだった。

  


          ◇



「ねえ、これって」

「カメラだよ」

「分厚いね」

「フィルムカメラらしいよ」

「そういう趣味あったんだ」

「これをいつも持って写していたらしい」

「でたね。らしいって言い方」

「説明することにはもう飽きたよ」

「それにしてもこれ壊れてるのかな。レンズの辺りがゆがんでだめそうだね」

 マキは顔を近づけてのぞいていた。

 僕はそのカメラを手に取った。手のひらに収まりはするけど、ずっしりとした重さは外へ持ち出す気にならない。以前の僕はそういうことさえできたのだ。またここで失ったものを知る。

 カメラの上部にはメーターがついていて、数字が20を越えたあたりで止まっている。フィルムがまだ入っているということだろう。

「フィルムが入ってるんだね」

 マキが覗き込む。

「あんたが元気な頃はたくさん撮ってたのかな」

「たぶんね。十字街のカメラ屋に持っていってみようかな」

「過去がわかるかもしれないよ」

 マキはそう言って笑った。

 忘れないうちに僕は家を出た。いまカメラ屋に行かないと、二度と僕はそうしないだろう。僕にいつかという言葉はない。その時に行かないと、それは手の届かない記憶になる。記憶じゃなくなる。忘れるというより失うのだ。

 出来上がり時間を聞いて僕は少しがっかりした。半日も待っていればすぐに忘れるに決まっている。胸ポケットのいつもの手帳は……見当たらなかった。

 そのまま電車通りを歩いた。手袋もマフラーも部屋に忘れて出かけていた。今すぐにでもマキに会いたいとなぜか思った。

部屋に戻るとぼんやりした表情でマキが座っていた。

僕はお土産の雑誌をテーブルの上に置いた。マキは雑誌にさわれないから僕がつきっきりで頁をめくらなければならないが、この頃はそれもずいぶん慣れてはきた。

「驚かなくなったね」

 穏やかな表情で言う。

「何が」

「いつも部屋に入ってわたしを見ると、ぎょっとしたような顔をしていたよ」

「ばれてたんだ」

「結構、露骨だったよ」

「すまん」

 話がまずい方向に傾いてきたので、僕は慌てて立てかけてあったギルドに手を伸ばした。しかし思い直して再び壁に立てかけた。

「どうしたの?」

「探しに行かなきゃ。こんなことしてる場合じゃないだろう」

 マキの表情が少しだけゆがんだ。気が付いて慌てて僕の視線を避けた。

「ひとりで行ってきたよ。さっき」

「どこへ?」

「動物園とか……神社とか。でもそれらしい場所なんてなかった」

「可能性の低いとこばかりじゃないか。しかし神社はある意味、マキにとってヤバい場所だったんじゃ」

「何ともなかったもん」

 子供のようにすねている。

「じゃあ、これから違う場所に行って探そう」

「じゃあとか、いいよ。これって義務じゃないよ。今日はもういいよ。ギターやろうよ」

「逃げてるのかい」

「ええ、そうよ。逃げたいの」

 気が付けばマキはギターを抱えていた。

「でも逃げられないのもわかっているから」

 少しの沈黙のあと、僕もギターを手にした。気まずさを和らげる方法を僕たちはどちらからともなく理解していた。

 手帳を見ながら、どのフレット、どの弦を押さえれば良いのか確認する。

―僕が今よりずっと若かったころ、真実はドアになどぶら下がってはいなかった―

 英語の歌詞は難しいが、何度もささやく。ニック・ドレイク自身がささやくように歌っているからだ。

 指先が痛くて辛いけど、何度もつまずくけれど、マキは僕を導こうとしていた。マキは穏やかに優しく、僕の指から拙い音楽が生まれる一瞬一瞬を見守っていた。僕は安心していた。

―僕を切り捨てておくれ。そして僕にふさわしい場所を与えてほしいんだ―

 そこまで弾き終わると、マキは

「今日はここでおしまい」

 と言ってほほ笑んだ。

 それから僕は夕飯の支度をし、マキはギターを爪弾いていた。

 夕食の時間には二人で向かい合い、僕は箸を動かしながら、時々マキのために雑誌の頁をめくり、

「このちょっとクラシカルな感じのスカート。眼鏡かけたらいい感じだよね。もうジーンズとか嫌だよ」

 などと他愛ない問いかけに相づちなどを打ち、時間が過ぎていく。

 マキはその頁をじっと見ている。僕は促す。

「そろそろめくってもいい?」

「ねえ。このモデルの立っている場所って、あそこじゃない?」

「どこだよ」

「あんまりうまく言えないけど、見たことある。この街で撮ったんだよ」

 僕も誌面に目を落とす。

「ああ、なんとなくわかる。それにしてもずいぶん寂しい場所で撮ったんだな」

「でもいいよね。この場所。明日行きたい。市電にも乗りたい」

「歩いていけるんじゃないか」

「やだ。電車に乗りたい」

 僕たちにどれくらいの時間が残されているのか誰にもわからない。

 ただ僕たちは今、こうしているしかないのだ。



 次の日、市電に乗った。わずか二区間だ。僕はそわそわした。マキの姿は果たして他の人に見えているのだろうか。向かいに座ってる女の子はスマホに夢中だ。

「運賃はどうしたらいい?」

 僕は小声でマキに話しかけた。

「払ってよ」

「ひとり分でいいんじゃないか。観覧車の時もそうだったし」

「あたしは立派な大人よ。ちゃんと払って」

「大人とか子供とか、そういう次元の話じゃないんだけど」

「いいから。わたしのことをちゃんと見て」

 車内アナウンスが、僕の言葉を遮った。

 そのまま、電車は終点の電停に滑り込み、僕たちはふたり分の運賃を払い、降り立った。

 ふたりで右だの左だのを言い合い、それらしい場所を探しあてた。マキの言うことは当てにならなかったので、僕が見当をつけて歩くことにした。

「このあたり詳しいの?」

 マキは僕の顔を覗き込むようにして言った。

「この近くで働いてるからね」

「そう……前から聞こうと思ってたんだけど、どんな仕事してるの?」

 恐る恐る聞いてくる。マキは本当はこういう奴なのかもしれない。だからちゃんと答える。マキはそんな僕をわかっている。

「軽作業だよ」

「けい……さぎょう?」

「軽い作業だよ。お菓子の箱とかたくさん作るんだ。NPOの人たちの世話になってる。時間が経てばもう少し重い仕事ができるかもしれない」

「社会復帰に向けて頑張ってるんだね」

 マキは明るく言う。僕は従わない。それは少し違うんだ。

「僕が復帰しても世の中は何も変わらないよ。僕が戻る場所はあるんだろうけど、それは隅っこだし、あまりに小さなピースだから、誰も気が付かないんだ」

「中央のステージで、みんなに歓迎されたいの? あんたバカだね。ゴタゴタ言わないでやれることやりなよ」

 なぜか腹が立たない。でも素直に聞けない。黙って歩く。

「あっ」

 その声に顔を上げると、くすんだ色の古びた倉庫があった。

雑誌のカメラマンはどうしてこんな寂しい場所で撮ったのだろう。観光地からは離れている。港は見渡せるが、午後になれば日は陰り風は冷たい。そこにあるのは観光資源には決してなれないただの倉庫だ。

「着いたね」

「うん」

「ここなんだね」

 マキはうれしそうに笑っている。

「ねえ、昨日のスカート憶えてる?」

 僕は思い出してみた。不思議だ。こんな感覚は生まれて初めてかもしれない。目の前にあの雑誌のあのページがはっきりと浮かんでくる。あのスカートはかわいらしい。でもモデルの表情だけが欠けている。

 あれはマキのスカートだ。マキにいちばん似合うんだ。

「ねえ、想像してみて」

 古びれた倉庫の前で、マキがポーズを取る。

「わたしがあのスカートをはいて、眼鏡をかけているって、想像してみて」

「ああ」

 僕は想像なんてしない。首を横に振る。

 マキは落胆したような表情で言う。

「そっか。このTシャツがだめなのよね。あまりにかけ離れてるもんね。あんたの想像の中ででもいいからかわいい格好したかったのになあ。でも仕方ないよね……ってなんか言いなさいよ」

「不思議な感覚なんだ」

「何よそれ」

「あのスカートのことは、驚くくらいはっきりと憶えているんだ。想像しなくても、僕には今、目の前にいるマキがあのスカートをはいてる」

 マキは一瞬僕を見つめ、すぐに視線をずらした。

「……似合う?」

「似合ってる」

「うそよ」

「誰よりもマキに似合ってるよ」

 風が少し吹いてきた。マキの髪が揺れていた。

「じゃあ、そのスカートを手に入れる方法を考えてね。もう帰ろう」

 マキはそのまますたすたと歩き出した。僕は慌てて追いかける。横に並ぶと歩みが止まった。

「……わたし消えたくないよ」

 泣いているマキの肩を僕は抱いてあげることができない。僕たちはふれあえないままだ。

 だけど、こうして一緒の時間を過ごすことはできる。

「帰りは歩いて帰ろう」

 僕の言葉にマキはただ肯いた。

 しばらく無言で歩く。風は相変わらずの冷たさで僕たちに吹く。マキは寒いと思っているんだろうか。そんなこと、聞いても仕方がない。僕たちの距離をあらためて感じることなんて、今はしたくない。

「ねえ、帰りに写真屋に寄っていこう。あんた忘れてるでしょう」

 僕はコートのポケットから手帳を取り出した。中に挟まれていた伝票を広げると、写真の出来上がり時間は今日の昼だった。

 写真屋は電車通り沿いにあった。老店主は中身もろくに確認せず、僕も同じく無造作に受け取って外へ出た。

「ねえ、見てみようよ」

 マキが寄り添ってくる。

「部屋に帰ってからでいいよ」

「いま見たい」

「マキ。くっつきすぎだよ。僕の体とマキの体の境目がわからなくなってる」

「だって、寒いから」

 マキは瞬間下を向いた。

「いいから写真見ようよ」

 僕はマキの催促に負けて、袋から写真を取り出す。

 見慣れた街の風景だ。

「白黒だね」

「あ、つい最近壊されたビルが写ってる。これ貴重かも」

 マキが感想を言う。

 そして、また一枚。

 僕はファインダーの向こう側に写るすべてに、何かを感じてシャッターを切っていたんだろう。その時の僕に、僕は憧れる。今はシャッターを押す力もない。

 情けなくて灰色の空を見上げる。

 その時、マキの小さな悲鳴で僕は我に返った。

 写真はあと二枚残っていた。



          ◇

 


 僕たちは坂道の途中にいた。早足で歩いたり或は立ち止まり、叫びだしそうな心を押し殺してこの場所についた。

目の前の道路の向こう側の歩道には小さな石段。ある夜、僕はそこでギターを抱えていた女の子と出会った。いまその子は僕の隣でかすかに震えている。

 僕は二枚の写真を手にし、一枚目をまたじっと見る。

 写っているのはマキだ。カメラを構えた僕に、笑いかけている。その信じられないくらい安らぎに満ちた笑顔を見ただけで僕にはわかった。

 僕たちはすでに出会っていたんだ。

 二枚目は僕たちが事故に遭い路面に叩き付けられた瞬間にシャッターが切られたものなのだろう。ピントのずれや画像の流れが、僕たちの時間が別々の場所へ飛んでいってしまったことを示していた。

「わかるか」

 そう聞いた。わかるかい、マキ。

「ここなんだね。相談所の人が言った通り。今、わたしはっきり確信できるの。ここでわたし死んじゃったんだね。あなたは瀕死の重傷を負い、記憶をなくして」

 マキは放心したようにつぶやいた。

「なんか、思い出してきた感じがするの」

「僕もそんな気がしてきた」

「本当に?」

「たぶん、きっとね」

「いい加減だなあ」

 マキは目に涙を湛えそう言った。

「図書館でずいぶん待たされた時、僕はこれは初めてじゃないと思ったんだ」

「わたしたち、図書館でデートしてたのかな。おとなしくて幼い恋愛だったんだね」

 マキは小さく笑った。

「僕は守れなかったんだね」

「何を?」

「マキのこと」

「二人で仲好く写真を撮ってた瞬間に、車が突っ込んできたんだろうから、それは無理だったと思うよ」

 そのおぞましい瞬間を想像したのか、マキは小さく身震いをした。

「もう、消えちゃうのか」

「そうね」

「それは今なのかな」

「わかんないよ。わたし部屋に戻りたいな」

 僕たちはどちらからともなく歩き出した。

 焦る気持ちを押し殺すように無言のまま早足で歩く。時々ちらと横を見て、マキと目を合わせた。急に消えてしまわないように、僕は握れるはずのないマキの手を握っていた。ほんの少しの温かみでも感じられる奇跡を僕は愚直にも信じていた。

 鍵を開ける間ももどかしかった。

 僕たちはいつもの時間がほしかったのだ。

 マキは小さく微笑んで僕をうながす。

 僕は壁に立てかけてあったギルドを手に取った。

「マキはギターを持たないのか」

「今日はいいよ」

「教えてくれないのかい」

「あんたが弾いてるのを見てるからいいの。今まで練習してきたところまで弾いてみて」

 僕は一瞬、手帳のことを思い出したが、目をやっている途中にマキが消えてしまうような気がして、手帳を出すのをやめた。

 思い出してみよう。カポタストは3フレット。最初は3弦の2フレット。ハンマリング。手首は柔らかくストロークは繊細に。

 一瞬、マキの表情を確認する。うなずきもしないで、ただ淡々と僕の弾き方を見ている。

 途端につまずいてしまう。マキはそこで小さくうなずく。大丈夫だよと。

「ここまで」

 弾き終えて、マキの表情を伺う。

「ここまで教えてもらった」

 マキはぱらぱらと拍手する。

「そうね」

「どうだった?」

「全然下手だね」

 腕組みをしながら言う。

「でもがんばったわ。手帳を見なくてもできたね」

 続きは、という言葉を言いかけて僕は黙ってしまった。

マキは立ち上がり、ベッドに腰かけた。

 いつものようにふたりでベッドに横たわった。

 僕の目の前にはマキがいる。もう、いつものようにと言っても言い過ぎではないくらい、僕たちはずいぶん長い時間を今まで一緒に過ごしたのだった。

 そして今日わかったのは、僕たちの存在が消されたあの時間が来るまで、すでに僕たちはもっと長い時間を過ごしていたのだろうということだ。

マキは僕の前に横たわり静かに涙を流した。

頬のあたりをさわっても僕の指に涙はつたってこない。

「わたしたち、以前は毎日こんな時間を過ごしていたのかな」

「そうかもしれないな」

「でも、当の本人たちはすっかり忘れちゃったんだものね。何が本当なのか誰もわからないなんて」

「じゃあ、良い方に考えればいいんだ。答えがわからないなら」

「どんな風に?」

「ずっと一緒にいて、とても幸せで。そして喧嘩なんかしなくて」

「いや、それはないわ。わたしたちきっと喧嘩ばかりよ」

 マキは泣きながら微笑んだ。

「わたし、あんたが前向きになってくれて少し安心したの」

「物事を忘れるたびに、激しく罵ってくれたマキのおかげだよ。おかげで気が抜けないし、深い場所へ入っていく暇もない」

 マキは「バカ」と小さく言った。

起き上がり顔を近づけて僕をじっと見つめた。そして顔にさわった。

「今日は疲れたね。ちゃんと休むんだよ」

「なんだよ、それ」

「心配してるのよ。背中は痛くない?」

「痛いよ。気を失いそうなくらいだ」

「じゃあ、目をつぶってなさい」

 従うつもりなどないのに、眠気が僕を遠くへ運ぼうとしていた。

 目をつぶってしまったのなら、もうマキの姿を僕は見られなくなる。何か話そう。いつものように僕が頁をめくるから、きみは他愛のない話をしてほしいんだ。

 僕の思いはもう言葉にならず、マキの姿がただぼんやりと浮かんでいた。それは映像としてなのか、もう僕の想像の中なのかわからなくなっていた。

「一緒にいた時間は長かったのかな。そうじゃなかったのかな。わかんないよね」

 マキの姿がもっともっと滲んでくる。

「前はちゃんとお別れできなかった。今はこうしてお別れが言えるね。ありがとう」

 僕は子供のように首を振った。遠い場所でマキは優しく笑っている。

 深い底めがけてどこまでも沈みこむ自分に、僕はもう手を差し伸べられない。

「さようなら」

 マキの声が僕の髪を撫でていった気がした。

 


         ◇



 マキが消えてしまってからしばらく経って、僕は杉山さんのところへ行き、マキのことを話した。報告くらいはと思ったからだった。杉山さんのことを思い出したことが僕には奇跡に近いくらいのことで、それはマキと暮らしたおかげかなと、心の中で感謝した。

 背中の痛みも無理をしなければ上手に付き合うことができるようになったし、作業所の軽作業は少しずつ、複雑な作業へ移行していった。

 ギターはあれからさわることがなくなった。もともと意味のないことに意味を持たせてくれたのはマキだったから、マキがいなくなってしまった日々にギターは必要ではなくなっていた。

 あの古物商の顔が急に浮かんできて、僕は不愉快になった。記憶力が回復してきたことは喜ぶべきことだろうが、古物商の顔の記憶などは、まったく必要のないものだった。

 ギターを売ろうと思い立ったのは、そんな時だった。

 マキが好きだったギターだった。そして曲の途中まで僕はマキと一緒にギターを弾けるようになった。しかし残りを弾けるようにはならない。

 マキがいない。その理由は明確で動かしようもない。ギターを見るたびにすべてを投げ出したくなる自分にもそろそろ嫌気がさしていた。

電車に乗り、店に行き、ギターの買い取りを申し出た。僕に売りつけたギターであることすら、相手は忘れていた。

 ケースから取り出そうとした瞬間、僕は思い直し、店を出て、来た道を戻ることにした。ギターにさわられると思った瞬間、嫌でたまらなくなったからだった。

 ギターケースを肩にかけ僕は来た道を引き返していた。日は暮れ、寒さが全身を強張らせる。雪がちらついてきてもおかしくないくらいの寒さが、弱弱しい僕を抑えつけている。どこかで倒れてしまいそうだ。今夜はだめだった。

 マキと出会った石段をゆっくりと下る。白と黒のぶち模様の猫が、ねぐらに急ぐのか僕の存在などまったく気にせず足元を早足で通り抜けて石段を登っていく。

ここで偶然に寒さを分かち合うことになった小さな生き物を、僕は目で追ってしまう。

猫がひょこひょこと石段を登り切った時、僕の視線はそのまま固定された。

 見覚えのあるTシャツが、ギターを抱えて立っている。

 ただひとつ違っていたのは、スカートをはいているということだ。

「似合うかな……」

 少し不安げに聞いてくる。

「似合ってるよ。とても」

「うそよ」

 言葉と裏腹に不安の消えた柔らかな表情でマキが言う。

 僕は答えずに、足を家の方角へ向ける。ゆっくりと足を運びながら、やがて追いついてきたマキの手をゆっくりと握る。寒さが少しずつやわらいでいく。

 


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