戦端
艦での生活も一週間が過ぎると、揺れも気にならなくなり案外、快適に過ごせることに多田野は気がついていた。
司令という仕事も実際の運用は大佐以下優秀な艦長達に任せておけば良かったし、他の司令が根を上げるという書類仕事も軍令部の第二課に比べれば、圧倒的に少なく、順調にこなすことが出来、実際、今日も多田野は朝から三時間ほどで本日分の決済書類のほとんどすべてを決済済の箱へと仕分けていた。
「そろそろ、お昼ですね。」
という井上の声に時計を確認した多田野が大きく伸びをして昼食は何を食べようかと思案した。
不意に誰かが艦内を走る甲高い金属音が聞こえ、ノックもそこそこにドアが乱暴に開けた血の気の引いた若い通信士が入ってきた。
「た、大変です。アメリアが我が国に宣戦を布告しました。同時に扶桑帝国海軍は戦時状態に移行。我が艦隊にも出撃命令が届きました。」
井上が小さく悲鳴をあげ、口元に手をやる。
「何があった。」
あの時、伊戸が予備役に追いやられ、一条率いる主戦派が勝った時点で想定できた事とはいえ、アメリアと扶桑の国力の差は少なく見積もっても6倍はあり、早急に戦争にはならないと考えていた多田野の想像は大きく裏切られた形となった。
「はっ。本日、ヒトマルマル時、扶桑海を航行中の客船さるべにあ号がアメリア海軍により撃沈されました。さるべにあ号より緊急電を受け駆けつけた海上警備隊及び付近を哨戒中の第三艦隊所属艦との間で戦闘状態になったとのこと。」
多田野は通信士から渡された命令書を読んだ。
『第12艦隊は命令受諾後、出港準備が完了し次第、出撃し、指示された海域を偵察せよ。』
多田野はすぐさま添付されていた海図を広げて、指示された位置を確認する。
ここから、20キロ程南下したアメリアの海上輸送路監視用小規模基地の近くのようだった。
南方海域は帝国の海上輸送路でもある為に少しでも脅威を取り去っておきたいというのは理解できた。
通信士が多田野が海図から顔を上げるのを待って情報を付け加える。
「艦長から、既に出港準備にかかり、他の参謀を待って司令室に向かう旨、伝えるよう申し遣っております。そろそろ、お見えになるかと。」
彰子は相変わらず、仕事ができる艦長だった。
通信士の報告の通り、程なく、ドアがノックされ、彰子と猿渡、二階堂の第13艦隊参謀の面々が現れた。彰子と二階堂の顔色は多田野と同じくらい青白く見えたが、猿渡だけは、多田野が逆に驚くほど鷹揚に驚きましたなと言い歴戦の艦長の余裕を感じさせた。
「さて、これが、命令書だ。」
多田野が机の上にある海図と命令書を指すと、ちらりと見た猿渡が不審そうな顔した。
「あの基地は、3年ほど前の緊張緩和政策で閉鎖されたはずだと思いましたが。」
念のため、若いもんに確認しましょうと猿渡は二階堂を見た。二階堂が頷いた。
「はい。司令。あの基地は3年ほど前、閉鎖されています。自分は偵察艦隊の一員として現地に赴き、この目で確認しています。」
「では、基地が再開されたとか。」
「神城大佐。それはどうでしょうか。この距離なら基地の再開は察知できるはずですし、自分はこの目で基地を確認しましたが、基地というよりは観測所といった感じでしたよ。」
「では、何のために。」
と半ば独り言のようにいった多田野に答えられるものはいなかった。
ごく小規模の観測所に一個艦隊を投入して、何が得られるのか、誰にも分からないまま、多田野達は哨戒経路を確認していった。