左遷
穏やかな春の海を、マストに軍艦旗を掲げた一隻の輸送船がのんびりと走っていく。
近くにいる漁船から、ぎこちない敬礼が送られ、輸送船の乗組員達も微笑みながらそれに応じていた。
それは、ほんの十年程前までの世界戦争の影などもはや全く微塵も見えぬ程、平和な海だった。
2つの大陸に挟まれた島国である扶桑帝国において、文字通り水際で世界大戦から独立を守り、平和をもたらした海軍は全国民の誇りであるといっても、過言ではなかった。
しかし、国民の心とは別に海軍は平和を望んではいなかった。
一昨年、海軍の実際的な司令塔である軍令部長が先の大戦で独立を守った英雄であり、穏健派であった伊戸大将から軍拡、主戦論者である一条大将に変わった帝国海軍は、戦争から復興し、資源と市場を確保しようとする各国の流れとも相まって、緊張を高めていた。
また、戦争になる甲板に立つ一人の男だけは強い実感を持って感じていた。
男は、ポケットから折りたたまれた紙を取り出し、ぼんやりと何度も確かめた文字を眺める。
『帝国海軍軍令部、多田野幸隆大佐を本日付をもって特務大佐に任じ、第13艦隊司令を命ず。』
乗組員の一人がもうすぐ、レブ島に到着するすることを告げた。
男は、もう一週間も前かと思った。
軍令部とはいえ、作戦立案や人事を統括し、出世コースとして艦隊司令に転属することが花形の第一課ではなく、補給や生産を担当する第二課に属する事務方の軍人である多田野幸隆が、新しく軍令部長となった一条成彰大将に呼び出されたのは、正確には6日前であった。
一条成彰は子爵階級の出身であり、執務室には毛足の長い赤い絨毯が敷かれ、黒光りする重厚な執務机と高級感あふれる革の応接セット、端に置かれた蓄音機からクラシックが流れるという質素倹約を旨としていた伊戸とは異なる空間に緊張しながら、多田野は直立不動で一条の話を聞いていた。
「というわけで、多田野君。レブ島に新設される第13艦隊の司令として、緊張が増している南方諸島に行ってくれないか。」
「…自分が、でありますか。」
多田野は一条の話に驚きを隠すことができなかった。
軍令部長が一条に変わり、資源地である南方諸島を巡って帝国と東の大陸に覇を唱えるアメリア共和国との間の緊張状態は、ますます高まり、南方諸島からの輸送船防衛と新たな根源地攻略支援のために新たな艦隊か新設されるという噂はあり、第一課の若手士官たちは、新設艦隊に配属されたいとそわそわしていたのは確かだった。
しかし、事務方の第二課にとっては、精々、書類の量が一山増えるだけだと多田野は思っていた。さらに海軍士官学校時代の教官の顔と卒業時にちらりと盗み見た人事考課表が多田野の頭に浮かんだ。
『……艦隊勤務には不適合と認む。後方支援に回すべし。』
なぜ、艦隊司令に任じられるのか、全く理由がわからず、混乱する多田野がようやく視線をあげるのを、一条は待ち、そしてにやりと微笑んでみせた。
「君なら出来るだろう。なんて言っても、英雄、伊戸英雄の孫なんだからね。」
隠していた伊戸との関係に一条が気がついたのなら、つまりは体のいい左遷かと多田野は落胆した。軍令部における伊戸派の力を削いでおきたいということなのだろう。事実、中央から外への伊戸派の人々の配置換えも多いと多田野は聞いていた。
「レブ島に到着しました。」
ふと、乗組員が明るい声で、レブ島に到着した事を告げ、多田野を現実へと引き戻した。